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2024年

4月

26日

2024.4.28 「神が私たちに求めていること」(全文) 申命記10:12-22

1:  神様が求められていること

 今日の箇所で、聖書はこのように問いかけます。【イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。】(申命記10:12)今日は、共に、神様が私たちに求めておられることについて考えていきたいと思います。

 まず、今日の箇所の状況について、少し説明をしていきたいと思います。もともと、イスラエルの民はエジプトの地において、奴隷という状態におかれていたのです。出エジプト記を見ますと、イスラエルの民は、奴隷という状態の中、過重労働を与えられ、日々の命、その生活も保障されない中にありました。また、そのような過重労働を課す中でも、人数が増えていくイスラエルの民に対して、エジプトの王、ファラオは、「イスラエル人の子どもが生まれたときに、男性であれば、殺しなさい」という命令を出したのでした。そのような奴隷という状態の中にあったイスラエルを神様は顧みて下さり、そのイスラエルの叫びを聞き、エジプトから脱出させてくださったのです。奴隷からの解放、救いの出来事が起こされたのです。このエジプトからの脱出の出来事が出エジプト記に記されているのです。ただ、出エジプト記を読み続けていくと、エジプトを脱出したイスラエルの民、奴隷から解放されたはずの人々は、救い出してくださった神様の恵みを忘れ、神様から離れ「エジプトにいたほうがまだよかった」とまで言うようになっていくのです。そして、このイスラエルの民が神様を裏切った、大きな出来事として、神様を忘れ、金の子牛を作り、その金の子牛を神としていったという出来事がありました。モーセが神様に十戒・律法を頂くためにシナイ山に登り、そこからなかなか降りてこない中、不安になったイスラエルの民は、モーセの兄アロンに、金の子牛を作り、「これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」(出エジプト記32:4)としていったのです。 このことは今日の箇所の前、申命記9章にも記されています。

 【わたしが身を翻して山を下ると、山は火に包まれて燃えていた。わたしは両手に二枚の契約の板を持っていた。わたしが見たのは、あなたたちがあなたたちの神、主に罪を犯し、子牛の鋳像を造って、早くも主の命じられた道からそれている姿であった。わたしは両手に持っていた二枚の板を投げつけ、あなたたちの目の前で砕いた。】(申命記9:15-17

 このような頑なな民、イスラエルですが、この10章1節からにおいては、モーセによって一度砕かれた十戒をもう一度、神様が授けてくださることが記されているのです。

 

 そのうえで、今日の箇所では、【イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。】(申命記10:12)と問われるのです。この答えとしてここではこのように言われました。【ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。】(10:12-13)ここでは、主を畏れること、愛すること、仕えること、そして戒めと掟を守るように教えています。そのうえで、何よりも神様が求めていることは、「あなたが幸いを得ること」と教えるのです。 

 神様の求めておられること。それは、私たち人間が幸せに生きることです。ここでは、ただ神様の戒めを守ることでも、ただ、神様を畏れること、仕えることでもなく、また、神様を愛することだけでもなく、神様はそれらを通して、「あなたが幸せになること」、つまり、私たち人間の幸せを願ってくださっていることを教えます。神様は人間を縛り付けるために戒めを与えたのではなく、人間が人間として生きるために、神様の愛を受け、その神様との関係に生きて、幸せに生きるために、十戒、律法を与えてくださったのでした。これが神様の求めていることなのです。

 

このことはイエス様とファリサイ派の人々との間に置いても同じような論争が起こっていたのです。マタイの12章では、安息日についてのイエス様とファリサイ派の人々との論争が記されており、イエス様は【人の子は安息日の主なのである。】(マタイ12:8)と言われました。イエス様の時代、ファリサイ派の人々は、安息日を守ること、律法を守ることで救いを得ると考えていました。それもすべてが間違っているわけではないと思うのです。ただ、イエス様が教えられたのは、ただ、安息日、律法を守ることではなく、神様に愛されていることを受け入れ、頂いていくために、律法を守るのだと教えたのです。イエス様はマタイの12章では【安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか】(マタイ12:10)と問いかけられ、【あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。】(マタイ12:11-12)と教えられたのです。

神様が求められていること。それは、私たち人間が幸せにあること。つまり、神様の愛を頂き、「自分は愛されている」「生きる意味を持っている」「私は必要とされている」と知り、生きることを求めておられるのです。そして、そのために、「律法を守りましょう」と教えているのです。神様は、戒めを守ることで、神様の愛を得るのではなく、愛を得た者として、戒めを守ることを求めておられるのです。

 

2:  私たちが求めているもの

 では、このように、神様が私たちの幸せを求められている中で、私たちは何を求めているのでしょうか。私たちは、神様から幸せになるようにと求められている者として、生きようとしているでしょうか。神様の思いを受け、私たちも神様の幸せを求めて生きる、生きようと思っていることがあるでしょうか。イスラエルの民は、神様の幸せ、神様の思いを考えようとはせず、頑なに生き続けたのです。そして先ほども言いましたように、自分たちを救い出してくださったのは神様ではなく、自分たちが作り出した金の子牛だとまでしていったのです。神様はイスラエルの苦しみを顧みてくださり、心を痛め、そのような者たちが幸せになることを願い、奴隷という状態から解放してくださいました。イスラエルの民はこのことをよくわかっていたはずです。ただ、それでも神様の思いを考えることはなく、むしろ心を頑なにし、自分が欲しい物だけを求めていったのです。

 私たちは何を求めているのか。別の言い方をすれば、何を大切にしているのかと言うことができると思います。そしてそれは、何を神様とし、また何の奴隷となっていくのか、ということに繋がっていくのです。イスラエルの民はエジプトにおいて、武力を土台とした権力に支配されていたのです。権力の奴隷となっていたのです。そのようなイスラエルの民を救い出した神様は、十戒、十の戒めを与えられました。その前文と第一戒で、このように言われたのです。【わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。】(申命記5:6-7)神様は、イスラエルの民を、エジプト、奴隷の状態、権力に支配されていたところから、救い出して下さいました。そして、そのうえで、二度とそのようなものに支配されることのないように、【あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。】(申命記5:7)と言われ、何よりもまず神様を、自らの主とすることを教えられたのです。ただ、イスラエルの民は、この神様の言葉から離れてしまいました。神様なんて金の子牛でよい、自分たちで作ることができるとでも思ったのでしょうか・・・

私たち人間は、誰かに、何かに支配されているものなのです。「支配」というと、どこか納得ができないかもしれませんが、何かを一番に置いているということです。イスラエルの民は、エジプトにいるときは、強制的に、エジプトの権力を一番にしなければならない状況におかれていたのです。そして、そこから解放されたあとは、神様を一番とするのではなく、自分、または自分が作った金の子牛を一番にしようとしたのです。イスラエルの民は、権力からの支配から解放され、むしろ今度は自分で自分を支配し始めた。これは、ただ権力を人間が持つという価値観の中で、どこに立っているかが変わっただけのことでした。

私たちが生きるこの社会も、同じような構造になっているのです。支配する者がおり、支配される者がいる。財力か、権威か、武力か、社会的圧力といった強制力か、そのような者に支配されている時もあれば、または、自分がそのようなものを持って、人を支配している時もあるのです。これらは、自分が、どこに立っているかが違うだけで、その価値観は同じです。そしてその価値観に支配されている。それが、財産なのか権力なのかはわかりませんが、そのような物差しで人を見て、自分を見ているのです。つまり、そのような価値観に支配されているということです。皆さんは何を求めて生きているのでしょうか。何を神様とし、何の奴隷、何の支配下に生きているのでしょうか。何を一番にしていきているのでしょうか。考えてみてください。そして、そのままでよいか、問い直してみましょう。

 聖書が教えているのは、神様は私たち人間が幸せになることを心から求めておられるということです。そして、神様は、すべての人間を心から愛されているのです。このことを示されたのが、イエス・キリストです。神様は、イエス・キリストを、この世界に送り、私たちと同じ人間となり、共に生きて、死に、そしてよみがえられたという出来事を通して、その愛を示されたのです。神様は自らの命をかけて、私たちを愛し、その幸せを求めておられるのです。このような私たちは、いったい何を求めて生きていけばよいのでしょうか。

 

3:  神様が選ばれた者

 今日の箇所では、15節でこのように教えます。【主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった。】(申命記10:15)  神様は、ここではイスラエル民の先祖に心引かれ、愛し、選んだとあるのです。このイスラエルの民が選ばれた理由。それは、このイスラエルの民が、特別、純粋であったからでも、神様に従っていたからでもありません。むしろ、イスラエルの民は頑なで、神様の思いを無視し、生きていったのです。では、なぜ神様がこの者たちを選んだのか。それはこの後を読んでいくとわかるのですが、イスラエルがここでは「寄留者」とありますが、「奴隷」であったからと言うことができるのです。イスラエルは、エジプトという大国に支配されていました。また別の時代はアッシリア、バビロニアといった大国に支配され続けた、小さく弱い民だったのです。22節ではもともと70人だったともありますが、それほどに小さく弱い者だった、イスラエルです。神様はそのような者に目を留められたのです。何を持っているのでもなく、ただ弱く、小さい者に神様は目を留められ、選び出されたのでした。これが神様の選びです。 

皆さんは、自分は神様に選ばれると思われるでしょうか。自分は強いと思われているでしょうか。それとも自分は弱いと思われているでしょうか。神様は人間の代表として、イエス・キリストを選び出されました。そして、そのイエス・キリストに繋がる者として、すべての人間を選び出したのです。この世に、完全な人間はいないでしょう。だれもがどこかしら弱さを持っています。神学者であるトゥルナイゼンは、「すべての人間は障がい者」であると言いました。「障がい」があることが弱いことと繋げることは、差別的な言葉となってしまい、正しいことではありませんが、・・・言いたいことは、私たち人間は、どこかしらに弱さを持ち、欠点を持っているということです。

 私たち人間は、弱い者なのです。そして、だからこそ、そのような人間を愛し、その人間が幸せに生きることを、神様は求められているのです。神様は、すべての人間を選び出してくださっているのです。私たちが、この自分の弱さを自覚し、受け入れる時、私たちは自分が、神様に選び出された者であることを知るのです。

パウロはこのように言いました。【すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。】(Ⅱコリント12:9-10)私たちが自分の弱さを受け入れるとき、本当の強さ、神様の恵み、神様の慈しみ、神様の愛を知ることになるのです。

 

4:  弱い者として、弱い者を愛していく

 16節からこのように言われます。 【心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない。あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。】(申命記10:16-19

 神様は、「心を頑なにせず、あなたがたも弱い者を愛しなさい」と教えているのです。「人を偏り見るのではなく、この世で『孤児』『寡婦』『寄留者』といった、弱い立場に立たされている者を愛しなさい」と教えられているのです。これが、神様の価値観に生きる道です。神様は、人間の作った価値観、財産や権力、武力によって、お互いを支配したり、支配されたりといった価値観ではなく、お互いを愛し、慈しみ、お互いの存在を喜ぶ価値観を教えてくださっているのです。

私たちは今、自分が誰を愛し、何を大切にして生きているのか、もう一度考えていきたいと思うのです。私たちは何を一番大切にして生きているでしょうか、「自分」でしょうか。「自分の持つ財産や権力」でしょうか。「友人」や「家族」でしょうか。神様は、私たちに、そこから一歩進み出て、「あなたにとって、何もすることのできないような人、あなたにとって、むしろ迷惑になるような人、あなたが、差別し、必要ではないと思うような人・・・そのような人を愛しなさい」と、教えられているのです。

ヨハネによる福音書ではこのように言われています。

ヨハネによる福音書15:16-17【あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」】(ヨハネ15:16-17

神様は私たち弱さを持つ者を、お互いを愛する者なるようにとして選び出してくださったのです。神様が私たちに求めるもの。それは、神様に愛されている、お互いを愛しなさいということ。そして、私たち、すべての人間が幸せを得ることを求められているのです。これが神様の命をかけた「願い」です。この神様の願いが為されていくために、神様は、イスラエルに十戒を与え、律法を与えました。そして、今、私たちには、イエス・キリストが与えられ、その御言葉である聖書が与えられているのです。

 

私たちは、弱い者です。「さあ頑張って、お互いを大切に生きていこう」と思っても、それはそれほど、簡単なことではありません。弱い私たちにできることはわずかです。だからこそ、この世に争いは絶えず、すべての人間が幸せになることができていないのです。私たちは、心に、神様の愛を頂かなければ、お互いを愛することはできません。だからこそ、私たちは、私たちの中に神様の愛、イエス・キリストを頂くのです。私たちの幸せは、誰かを傷つけてでも自分が何かを得ることではなく、自分が傷ついてでも、隣にいる人を愛した、イエス・キリストを頂くことから始まります。そこに本当の幸せ、愛を知ることになるでしょう。私たちは、今、その一歩を歩みだしましょう。(笠井元)

2024年

4月

26日

2024.4.28 「神が私たちに求めていること」(要約) 申命記10:12-22

1:  神様が求められていること

 イスラエルの民はエジプトの地において奴隷という状態に置かれていました。そのようなイスラエルの民を神様は顧みて下さり、エジプトから救い出してくださったのです。ただ、イスラエルの民は、その神様の恵みを忘れ、神様から離れていきました。イスラエルの民は、金の子牛を作り、金の子牛を神としていったのです。そのようなイスラエルの民に、神様は「わたしがあなたに求めておられることは何か。」と問われ「それは、あなたが幸いを得ること」と教えるのです。神様の求めておられることは、私たち人間が幸せに生きることです。

 

2:  私たちが求めているもの

私たちは何を求めているのでしょうか。イスラエルの民は心を頑なにし、自分が欲しい物だけを求めていったのです。私たちは何を求めているのか。別の言い方をすれば、何を大切にしているのかと言うことができでしょう。そしてそれは、何を神様とし、また何の奴隷となっていくのかということに繋がっていくのです。イスラエルの民は権力の支配から解放されました。しかし今度は自分で自分を支配し始めたのです。これは、ただ人間のもつ権力のどこに立っているかが変わっただけのことでした。皆さんは何を神様とし、何の奴隷、何の支配下に生きているのでしょうか。

 

3:  神様が選ばれた者

 神様はイスラエル民の先祖に心引かれ、愛し、選んだのです。イスラエルの民が選ばれた理由はイスラエルの民が、特別に純粋であったからでも、神様に従っていたからでもありません。神様は ただ弱く、小さい者に目を留められ、選び出されたのでした。これが神様の選びです。この世に、完全な人間はいないでしょう。だれもがどこかしら弱さを持っています。私たち人間は、弱い者なのです。そして、だからこそ、神様はすべての人間を選び出し、すべての人間を愛しておられるのです。私たちが自分の弱さを受け入れるとき、本当の強さ、神様の愛を知ることになるのです。

 

4:  弱い者として、弱い者を愛する

 神様は「心を頑なにせず、あなたがたも弱い者を愛しなさい」と教えます。これが神様の価値観に生きる道です。私たちは今、自分が誰を愛し、何を大切にして生きているのか、もう一度考えていきたいと思います。神様は「あなたにとって、何もすることのできないような人・・・そのような人を愛しなさい」と、教えられているのです。

 

神様が私たちに求めるもの。それは、神様に愛されているお互いを愛しなさいということです。そして、私たち、すべての人間が幸せを得ることを求められているのです。そのために私たちは神様の愛、イエス・キリストを頂きましょう。(笠井元)

2024年

4月

24日

2024.4.24 「神の恵みを受け、熱心に歩み続ける」 ヘブライ人への手紙5:11-6:12

1:  耳が鈍くなっている人

 まず「このことについて」とありますが、今日の箇所の前には8節から、キリストは、多くの苦しみを受けられ、人間と神様を繋げる方、大祭司となられたことが語れます。しかし、この時の読者の耳が鈍くなっており、キリストによる救いを説明することが難しかったのです。読者はこれまで長時間の訓練が為されてきたとされますが、成長することはできておらず、「乳を必要とする者」と、むしろ後退してしまっているとするのです。耳が鈍くなっている者には「キリストの救い」をどれほど説明しても理解されることは難しいものです。

イエス様もこのように言われました。【聞く耳のある者は聞きなさい】(マルコ4:9)【イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』】(マタイ13:14-15

耳を開くこと、イエス・キリストが私たちのために苦しみ、救いの業を成し遂げてくださったということを信じて聞くことから、本当の成長が始まるのです。

 

2:  悔い改める勧め

 5、6節では【神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。】(6:5-6)とあります。

キリスト教では、「神様の無限の愛」「すべての人に与えられている救い」といったことが語られます。私たちは、この神様の愛、恵みに積極的に応答し続けることができているでしょうか。何をしても、何をしなくても、救いは与えられている・・・となってしまっていないでしょうか。パウロはこのように言いました。(Ⅰコリント6:12~20)私たちはキリストにおいて救いを得た者として、「自分の体で神の栄光を現す者」として生きていきたいと思います。

 ここでは、警告・願いとして「戻ることができなくなる」という厳しい言葉を使いながらも、「あなたがたは、今、まだ二度と戻ることができないところまで堕落しているわけではないのだから、戻ってきましょう。悔い改め、立ち帰ってきてください」と望みをもって教えていると読み取ることができるのです。私たちは恵みをいただいているのです。この恵みに応答して生きていきたいと思います。それは、自分のために生きるということから、神様のために生きるという生き方へと変えられるということです。

 

 

3:  熱心に歩み続ける

 9節では「愛する人たち」(9)と呼びかけます。この呼びかけはヘブライ人への手紙ではここだけとなります。この言葉からも、先ほどの警告が裁きを与えるのではなく、神様に立ち帰って欲しいとの願いを語っていることがわかるのです。

10節では、「神様の名のために示したあの愛」とあるように、これまでこの読者たちが神様、または「聖なる者たち」に仕える者であったことを示しているのです。私たちもですが、これまで為してきた、愛の働きを神様は一つとして忘れることはないのです。

ここでは「以前も」、そして、「今も」あなたがたは神様に従う者として、神様の愛を示す者、仕える者として働いていると言うのです。そして、11節では、【あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。】(ヘブライ6:11)と言います。これまで行ってきた、仕える奉仕を、同じだけの熱心さをもって、続けて欲しいと言うのです。

私たちも、現実の困難に疲弊し、神様を忘れてしまいそうな時があります。そのような時に、この言葉を思い起こし、もう一度熱心に仕える道を思い起こしたいと思います。

 

4:  信仰者として成熟する

 最後に6:1~2にあるように「成熟する」ということについて考えていきたいと思います。

信仰者が成熟するとはどのようなことなのでしょうか。エフェソ4章ではこのように言います。

4:13 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。4:14 こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、 4:15 むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。 4:16 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。】(エフェソ4:13-16

 

ここでは、愛に根差して生きること、そして、それぞれがそれぞれの働きを担い、お互いに結び合わされて、教会として成長、成熟することを教えます。私たちが成長、成熟するのは、一人で行うことではないということです。私たちは、教会として、成長させられていくということをよく覚えておきたいと思います。 それぞれがそれぞれの役割を担い、共に、キリストに向かって歩んでいくことが、私たちの成長へと繋がるのです。この教会という単位での成長、成熟を願って歩んでいきたいと思います。

2024年

4月

19日

2024.4.21 「小さい者を受け入れる~価値観の変換~」(要約) ルカによる福音書9:46-48

1:  誰が偉いのかという議論

 弟子たちの中で、「自分たちの中で誰が偉いのか」という議論が起きました。なぜこのような議論が起こったのでしょうか。聖書には記されていないため、本当の理由は分かりませんがいくつかの理由が考えられます。ただ、原因が何であれ、弟子たちは偉くなりたいと思っていて、そのために、低く、小さい者となることも、そのような者たちを受け入れることも考えていなかったということがわかります。弟子たちはイエス様と共に歩いて、イエス様に派遣された者たちでした。しかし、弟子たちは、イエス様の伝えることを理解できていなかったということが分かるのです。

 

2:   偉くなろうとする社会

この世は競争社会です。小学校になると、テストの点数、成績と数字で表されるようになり、どんどんと競争が加速していきます。そこから「できる」「できない」ということだけを見て、できる人が勝ち組、できない人が負け組とされていくのです。47節ではイエス様が弟子たちの心を見抜いたとあります。弟子たちは、イエス様には「誰が偉いのか」という議論をしていることを知られたくはなかったのです。このような議論が恥ずかしく、間違っていることだとわかっていたのです。 私たちは自分の本心を隠して生きているのではないでしょうか。私たちの心の隅から隅まで見られるイエス様の目に耐えることが出来るでしょうか。

  

3:  価値観の転換

 イエス様は「自分自身の弱さも含めて、人間の弱さ、小ささを受け入れる者となりなさい」と教えます。これは、これまでの価値観を捨て、新しい価値観を持つことを教えているのです。人間は自分と他者を比べる価値観に生きています。これは結局、自分の栄光を求めた価値観であり、一言で言えば、自己中心な価値観なのです。イエス様は、そのような価値観を持つ人間に、大きいとか小さいとか、強いとか弱いとか、何かが出来るとかできないということではなく、ただ、その存在を喜び、愛するという価値観を教えているのです。

 

4:  イエス・キリストの選ばれた道

 

 イエス・キリストは、神であり、神の子でありながらも、この世界に人間として来られたのです。それは「誰が偉いのか」という争いをする者たち、心には、自分中心の思いしか持たない人間の所に来て下さったということです。イエス様はその心の隅から隅まで知ったうえで、人間を愛し、同じ人間となられたのです。イエス様は、この競い合い、争いばかりを起こしている社会、そして私たち一人ひとりの隣に来てくださったのです。これこそ、イエス・キリストが、選ばれた道でした。神様は、私たちにこの価値観を持って生きて欲しいと願っておられるのです。私たちは、今持っている価値観から、このイエス・キリストによって示された価値観を受けて従っていきましょう。(笠井元)

2024年

4月

19日

2024.4.21 「小さい者を受け入れる~価値観の変換~」(全文) ルカによる福音書9:46-48

1:  誰が偉いのかという議論

今日の箇所は、弟子たちの中で、「自分たちの中で誰が偉いのか」という議論が起きたことから始まります。なぜこのような議論が起こったのかは、聖書には記されていないため、本当の理由は分かりませんが、この9章のこれまでの出来事から、いくつかその理由が考えられます。

まず、9章28節からの場面では、イエス様の姿が変わるという出来事が起こりました。これはイエス様が栄光の姿に変えられた場面とも言うことができるでしょう。このときに、山について行ったのが、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人であったのです。またもう少し遡り、8章49節以下に記されている、死んだ会堂長の娘が起こされる場面でも、この三人ペトロ、ヨハネ、ヤコブがイエス様と共にいたのでした。このような三人の特別な経験から、この三人は、自分たちがイエス様から特に大事にされていて、「自分たちが偉いのだ」と思い上がっていたとも考えられます。または、逆に、このようなことから、他の弟子たちが、この三人に対して、嫉妬し、「自分たちこそイエス様の弟子である」と張り合い、競い合う中で、誰が偉いのかという議論が始まったのではないかと考えられます。

 また、別の理解としては、このイエス様の姿が変わるという場面の後、9章37節からの場面では、悪霊を追い出すことのできない弟子たちがいたのです。そこではイエス様が「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。」(ルカ9:41)と言われました。このような中で、弟子たちが自分たちの弱さ、無力さを感じ、弟子たちの中で「誰が強く、誰が偉く、誰が力がない」といった、言い争いが起こったとも考えられます。

また、今日の箇所の前、9章43節からの場面では、イエス様が自らの死の予告をしたのですが、そのことを弟子たちは理解できず、それだけではなく、怖くてその言葉がどのような意味があるのか尋ねることすらできなかったとあるのです。そのような意味で、イエス様がいなくなってしまうかもしれないという恐れから、混乱と不安が生まれ、「自分たちは大丈夫だ」、「自分たちは強い」と思おうとする中で、結果、「では誰が一番なのか・・・」といった、強がりのようなところから、この「誰が偉いのか」という議論が生まれたとも考えられます。

 

これらはあくまでも推測ですし、この議論の発端、原因としてはいくつかの理由が考えられます。 ただ、原因が何であれ、確実にわかるのは、このあとイエス様が子どもをそばに立たせて言われた言葉、・・・「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」(ルカ9:48)という言葉から、弟子たちは偉くなりたかったということ、そしてそのために、低く、小さい者となるのでも、また、そのような者たちを受け入れるといったことを考えていたのでもなかったということがわかるのです。これまで、イエス様は、罪ある者、弱い者、社会からつまはじきにされた者のところに行き、共に生きてこられたのです。この時の弟子たちは、これまでイエス様と共に歩んできながらも、イエス様のことを全く理解できていなかった。弟子たちはイエス様と共に歩いてきて、イエス様に派遣された者たちでもありました。しかし、その弟子たちは、小さな者となることも、小さな者を受け入れることも、全く理解せず、イエス様に従うこと、イエス様の伝えることを理解できていなかったということが分かるのです。

 

2:   偉くなろうとする社会

 私は、小さい頃に聖書を読んでいた中では、このような弟子たちの失敗、弟子たちの間違いの姿を聞いたときに、「自分だったらこんなことはしないのに」「イエス様の弟子たちはなんでこんなことばかりするのだろう」「そんなに偉くなりたいものなのかな」と思っていました。そして、このような聖書箇所からは「このような弟子のようにはならないように」と学ぶものだと考えていました。ただ、今思えば、そのように思っている自分自身こそ、驕り高ぶっていたのだと思うのです。弟子たちと自分を比べて、自分は弟子たちよりもイエス様をよく理解していると思い、イエス様にきちんと従っていることが出来ている、と思っていたのでしょう。まさに私自身、この時の弟子たちと同じ状態で、「自分の方が偉い」と思っていたとも言える状態にあったのです。 

この世は競争社会です。この教会は附属の幼稚園がありますが、まだ、幼稚園の園児には成績はありませんが、ただ、それでも、時に、保護者でも、先生でも、子どもと子どもを比べて見てしまうことがあります。これが、小学校になると、テストの点数、成績と数字で表されるようになり、どんどんと競争が加速していきます。もちろん、競い合うことで、能力を伸ばすこともできるでしょうし、自分にとって得意なこと、不得意なことがわかりやすくなり、自分がしたいこと、できること、これから生きていくうえで、必要なことなどが分かりやすくなっていくという意味では、競争することも、数字で表されることも、すべてが悪いことではないとも思うのです。ただ、そこから、その成績、「できる」「できない」ということだけを見て、その人を判断するようになり、できる人が勝ち組、できない人が負け組とされ、いつの間にか、できる人ができない人をいじめたり、差別をしたりとするようになっていくことがある。そのような意味での競争社会には大きな問題があるでしょう。そのような競争社会では、自分と誰かを比べて、自分の方が優れていると思い、そこから安心感を得たり、または高慢になっていく。または、自分と誰かを比べて、自分の方が、できていないと思う中で、劣等感を持つようになったり、そこから、自分の生きる価値を見失ってしまう。そのようなことに繋がってしまうのです。

 皆さんはいかがでしょうか。この競争社会において、いつも誰かと比較され、評価される。そのような中にあって、私たちは誰もが、他者より偉くなること、力を持つこと、権威、権力、財産といったものを求め、誰かよりも、強く、偉くなること、「勝ち組」となることを求めてしまっているのではないでしょうか。そして、そこに自分の存在価値を見出そうとしていないでしょうか。

 

ここでは、47節で、イエス様が弟子たちの心を見抜いたとあります。この言葉から見ると、弟子たちはイエス様がいないところで、この議論を行い、イエス様が来たらその議論をしないようにしていたと考えられるのです。弟子たちは、イエス様には、この「誰が偉いのか」という議論をしていることを知られたくはなかったのでしょう。私たちもだと思うのですが、心の中では「自分の方があなたより偉い」と思っていても、他者から、そのように言われることを喜ぶことはあっても、自分から「自分はあなたより強いんだ」「自分はあなたより偉いんだ」と、公に言いふらす人はあまりいないと思うのです。むしろ、そのようなことをすること自体が、恥ずかしく、間違っている者、弱い者だと思うこともあるでしょう。私たちの、実際に行っていることと、心の思いはすべてが同じではないのです。むしろ、私たちは自分の心を隠して生きているのではないでしょうか。ここではイエス様は、その心を見抜かれること、私たちが隠している心を見ておられることが記されているのです。皆さんは、このイエス様の目、私たちのその心の隅から隅まで見られる目に耐えることが出来るでしょうか。

 

3:  小さい者を受け入れる者となる 価値観の変換

 この「誰が一番偉いのか」という議論をしていた弟子たちの心を見られたイエス様は、一人の子どもの手を取り・・・「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」(ルカ9:48)と言われたのです。

現代では、子どもといえば、一人の人間として、その人格を大切にし、権利を持っているとして受けいれることが考えられています。しかし、当時のユダヤの社会において、子どもというのは、とても小さく、弱い存在と考えられていました。子どもに関わり時間を費やすことは、怠けてお昼からお酒を飲んでいるような状態と同じだとされていたのです。つまり子どもに関わることは無意味なこと、時間の無駄、その存在は一人の人間としては認められない者とされていたのです。イエス様は、「このような小さな者を受け入れる者となりなさい」と教えられたのです。これはただ、子どもを受け入れ、大切にすることだけを求めた言葉ではないのです。このイエス様の言葉は、「この子どものように、小さいとされている者、小さく弱いとされている者こそを大切にすること。それは、自分自身の弱さも含めてですが・・・そのような人間の弱さ、小ささ、不完全さ、失敗を受け入れる者となりなさい。そのような価値観を持つ者となりなさい」と教えているのです。

 これは、これまでの価値観を捨て、新しい価値観を持つことを教えているのです。先ほど言いましたが、この社会にあって、人間は、自分と他者を比べ、そこから、自分が優れている、優れていないというところを見てしまい、そこから、自分の存在価値を見出していく、そして逆に、そこから自分の存在価値を見失ってしまう。そのような価値観に生きているのです。 これは結局、自分の栄光を求めた価値観であり、一言で言えば、自己中心の価値観、自分さえよければよいという価値観なのです。イエス様は、そのような価値観を持つ人間に、新しい価値観を持つように教えるのです。それは【この子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。】(9:48)とあるように、・・・自分ではなく、小さい者を受け入れる価値観。それは、自分自身の弱さをも受け入れる価値観。そしてそれはイエス・キリストを受け入れる価値観。そして、ここでは「わたしをお遣わしになった方」とありますが、イエス・キリストをこの世に送ってくださった神様を受け入れる価値観を持つことを教えます。つまり、大きいとか小さいとか、強いとか弱いとか、何かが出来るとかできないということではなく、・・・ただただ、その存在を喜び、愛するという価値観を教えているのです。

 

4:  イエス・キリストの選ばれた道

 イエス・キリストの選ばれた道。イエス・キリストは、神であり、神の子でありながらも、この世界に、人間として来られたのです。それは、「誰が偉いのか」という争いをする者たち、心には、自分中心の思いしか持たない人間の所に、来て下さったということです。

 神様からすれば、そのような自分のことばかり考えている人間は、とても弱く、自分勝手な者でしかないはずです。しかし、神様は、その心の隅から隅まで、見たうえで、人間を愛し、同じ人間となられたのです。イエス様は「誰が偉いのか」と争う中に来てくださった。ただ、遠くから「このようにしなさい」と教えられるのではなく、まず自分自身が、この競い合い、争いばかりを起こしている社会、そして私たち一人ひとりの隣に来てくださったのです。これが、イエス・キリストが、選ばれた道でした。このことを聖書ではこのように言います

【キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。】(フィリピ2:6-8

イエス・キリストは、どこまでもへりくだり、どこまでも小さな者となられた。これが、神様の示された、私たちへの愛であり、神様は、この価値観を持って、私たちに、生きて欲しいと願っておられるのです。

 イエス様は、「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」(9:48)と言われました。これがイエス様の選ばれた生きる道です。イエス様は、争いの絶えない、この世界に、「愛する者たち。争うこと、競い合うことではなく、お互いの弱さを受け入れ、支え合う者、愛し合う者となって欲しい」と願い求められている。イエス・キリストこそが、最も小さい者となってくださった。私たちは、今持っている価値観から、このイエス・キリストによって示された価値観を受けて、新しい価値観を受け取って、従っていきたいと思うのです。

 最後にニューヨークのリハビリテーションセンターの壁に書かれた詩を読んで終わりたいと思います。

 

成功するために、強さを与えてほしいと、神に求めたのに、

謙虚さと従うことを学ぶようにと、弱さを授かった。

偉大なことができるようにと、健康を求めたのに、

より良いことができるようにと、病弱を与えられた。

幸せになるために、富を求めたのに、

賢明であるようにと、貧困を授かった。

世の人々の称賛を得ようとして、権力を求めたのに、

神を求め続けるようにと、弱さを与えられた。

人生を楽しめるようにと、あらゆるものを求めたのに、

あらゆることを喜べるようにと、命を授かった。

求めたものは一つとして与えられなかったが、

願いはすべて聞き届けられた。

神の意に添わぬ者であるにもかかわらず、

言葉に出さなかった祈りはすべてかなえられた。

私はあらゆる人々のなかで、もっとも豊かに祝福された。

 

(笠井元)