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2024.2.18 「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(要約) ヨハネによる福音書3:22-30

 今朝は3:2230を取り上げます。バプテスマとヨハネとイエス様との関係について、特に、イエスについての「あの方は栄え、わたしは衰えねばならないという」バプテスマのヨハネの言葉に注目します。

1.バプテスマのヨハネのその後:2223節は、イエス様と弟子の一行はヨハネとは別の場所でバプテスマを授けていたことを記録します。その後、ヨハネはヘロデ・アンティパスによって捕らえられ、殺されたことは有名な物語です。お盆に載せられたヨハネの首は、西欧の絵画に好んで描かれています。悲劇ですが、この世界は本当に理不尽でひょんなことで変わっていくという教訓でしょうか。

2.2つのバプテスマ 罪の穢れを落とすものか喜びへの応答か?(2527節):26節ではあるユダヤ人たちはヨハネの処にやってきて、「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証されたあの人が(イエス様のことですね)、バプテスマを授けています。みんながあの人の方へ行っています」と言います。バプテスマの形は同じですが、神の切迫する裁きの前で悔い改め、清められることを求めるヨハネと、イエスの良い音信の到来、喜びのバプテスマとの違いは何か?ということです。現代で言えば、信仰の本質は神と出会うために穢れを清めることか、あるいは、神の恵みを喜び祝って生きることか?ということでしょうか。

3.花嫁と花婿と花婿の介添人(29節):「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ」(29節)。IIコリント11:2-3でパウロは教会を花嫁として描き、自分自身をその花嫁の父、あるいは友人、介添人であると考えているようです。バプテスマのヨハネも花婿キリストを指し示す「介添人」として自身を描きます。

4.このような理解の仕方の問題性 あまりにも人間的解釈か?:イエスからしたら兄弟子のようなヨハネです。そして、やがてヨハネは獄に捉えられ、殺される運命にあります。しかし、世界が変わらず、理不尽さや不条理が相変わらずまかり通ります。彼は躓きます。「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか?それとも、ほかの方を待たねばなりませんか」」(マタイ11:2-3)。このような文脈の中で花婿はキリスト、花嫁はイエスの弟子たち、ヨハネは介添人という図式が語られます。これはキリスト教会には良くてもヨハネの弟子たちにはどうだったのか?このような疑問、バプテスマのヨハネへの共感と嘆きは余りにも人間的でしょうか?

 

5.あの方は栄え、わたしは衰えねばならない(30節):もし、ヨハネが本心からこのことを言ったとしたら、そして、福音書はそう言っているのですが、この言葉は人間の最も崇高な人の言葉でしょう。「天から与えられなければ」言えないことでしょう。北海道にある施設長は「不登校、自分の精神の病いや環境を運命として受け入れた子どもたちは強い」と言っていました。ヨハネの扱い方への疑問を経由してこの最後の言葉を考えると、ヨハネはまさにこの位置に立つことで救われたとも言えるのではなでしょうか。確かに人生は過酷です。しかし、イエスの到来によって喜びの根拠が与えられたのです。私たちの喜びはひたすら主イエス様の栄光を祈り求め、行動することに結びついているものでありたいです。(松見 俊)