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2024.2.11 「教会として神の恵みを頂く」(全文) ルカによる福音書9:10-17

 1:  信仰へ導く記事

 今日の聖書の箇所は、「5千人の供食」として、すべての福音書に記されている記事であり、また類似した記事として、マルコ8章、マタイ15章に「4千人の供食」という記事もあります。これらを合わせると、福音書に6つも同じような記事があることになります。このイエス様が少量の魚とパンを配り、多くの人々が満腹になったという出来事は、それほどに、弟子たちに大きな印象を与えた出来事であったということでしょう。ただ、それぞれに記されている記事の内容は、もちろんですが、少しずつ違う部分があり、実際に、記者が感じたこと、伝えたいことも違ったのでしょう。考えてみますと、ルカによる福音書、マタイによる福音書の記者は、マルコによる福音書を知っていたともされますし、このルカによる福音書は書かれた時代から、実際にイエス様がそのような業をなされたということは見ていなかっただろうともされます。また、この福音書を記した、それぞれの当時の教会の状況、社会的な教会の立場も違いますので、それぞれの福音書での記事の違いがあるのは当然のことだと言えると思います。 では、今日のこのルカによる福音書は、私たちに、何を伝えたいと思って記されたのでしょうか。またこのルカによる福音書を通して、神様は、私たちに何を伝えられたいのか、共に見ていきたいと思うのです。

 ルカによる福音書の9章では、まず、イエス様が十二人の弟子たちを派遣するという場面から始まります。そして、次の7節からの記事では、当時のユダヤの領主ヘロデが登場し「イエスとは誰なのか」「バプテスマのヨハネが死者の中から生き返ったのか」それとも「エリヤか」「または別の昔の預言者か」ということが問われるのです。そして、今日の箇所があり、その後、この「イエスとは誰なのか」という問いに対して、ペトロが「イエスは神からのメシア」、つまり、キリスト、神の救い主と告白することへと続いていくのです。もう少し続けてみますと、そのあと、イエス様が自らの死と復活について語り、その「自分に従いなさい」と教えていくことになるのです

 このように考えますと、この今日の箇所は、イエスとは何者なのか・・・「イエスはキリスト、神の救い主だ」と言うその間に置かれている記事であるということになります。つまり、この記事を通して、「イエスとは何者なのか・・・」という問いに対して、「イエスはキリスト、救い主」という答え、答えと言うよりも信仰告白へと導く記事であるということなのです。「イエスはキリスト、救い主」。今日のこの記事は、私たちを、この信仰告白へと導く記事です。私たちは、この箇所を通して、イエス様こそが、私たちの救い主、神様から与えられた救い主であるということを受け取っていきたいと思うのです。

 

2:  必ず迎え入れてくださる方

 先ほども言いましたが、9章1節からの箇所で、イエス様は12人を呼び集め、派遣されました。1節からはこのようにあります。【イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わ】(ルカ9:1-2)したとあります。弟子たちはイエス様が言われた通りに、神の国を宣べ伝え、病人を癒したのです。このことは、今日の11節において、イエス様がなされたことと同じこととなります。【群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。】(ルカ9:11

イエス様は、弟子たち以上の何かをなされたのではなく、自分が弟子を遣わしなされたことと同じことをなされたのです。このことから、弟子たちの働きは、まさにイエス様の業、イエス様の行っていこうとしていたことだと言えるのです。弟子たちは、イエス様から派遣されたことを受けて、その通りに働き、またその働きを見た多くの人々が、「イエスとは何者だろうか」と思い、そして、イエス様のもとにやってきて、同じように恵みを頂いたということです。この時の弟子たちは、イエス様の言われた通りに働き、神の国を宣べ伝え、病気を癒すという働きをしてきました。そして、そこから群衆は「イエスとは何者なのだろう」という思いを持つようになっていったのです。群集は「イエスとは何者だろう」という思いを持ち、イエス様一行の後を追いました。

 この群衆を見たイエス様は、この人々を迎え入れ、神の国について語り、治療の必要な人々を癒されました。このとき、イエス様は、弟子たちを連れ、ベトサイダへと退かれたとあります。このことをマルコによる福音書では、このように語っています。【イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。】(マルコ6:31

マルコでは、疲れをいやすために、休もうとされていたとされるのです。弟子たちが神の国を宣べ伝えてきて、仕事を終え、休むもうとしたとき、そのことを遮るように、群集は追いかけて来たのです。本来であれば、「今は休息が必要なのだ」と言って、話すことを断っても普通のことですし、私たちには休息が必要な時もあるのです。それでも、イエス様は、この群衆を歓迎し受け入れたのです。

このことは、私たちに向けて、「休まず伝道しましょう」と言っているのではないでしょう。そうではなく、どのような時も、イエス様は受け入れてくださるということです。イエス様は、まさに命を削ってでも、私たちを迎え入れてくださるのです。どれほど忙しくても、どれほど自分の時間が削られようとも、それでも、私たちを歓迎してくださるのです。それこそ、ここに「イエスとはキリスト・救い主」であると導く姿があるとも言えるでしょう。イエス様は、自分の命を懸けてまでも、神の国を宣べ伝え、語って下さる。そして私たちが求めれば与えてくださる。それがどのような時であっても、必ず受け留めてくださるのです。

 

3:  福音の恵みを止めることはできない

 「イエスとは誰なのか」。そのような疑問を持つ群衆がやってきました。そのような人々に、イエス様は神の国を伝え、病を癒されたのです。その中で、だんだんと日が傾きかけてきました。そのためここで弟子たちは、イエス様に「群衆を解散させるように」進言したのです。この弟子たちの進言が間違っていたかと言えば、人間の常識としてはまったく間違っていない、必要なことを言ったということができると思うのです。この時、ベトサイダという町に来ていたはずですが、弟子たちは「人里離れた所」と言っています。この「人里離れた所」とは、別の訳では「荒野」とされており、食べるものも何もない場所を意味していました。しかも人数は14節に「男が五千人」とあるように、子どもや女性を合わせれば、一万人以上いただろうと考えられるのです。マルコによる福音書では、この人数の人々を満たすためには、200デナリオンが必要とされ、それは、労働者一人の一年分の年収にあたる金額が必要であったとされるのです。弟子たちが、「それほどの人々を養うことはできない。」「一度解散しましょう」と考えるのは当然のことだったのです。ただ、そのような弟子たちの進言をイエス様は受け入れられませんでした。

解散を求めること。それはイエス様が神の国を語ることを中断することになります。イエス様が語るのをやめれば、「帰って下さい」と言わなくても、だれもがそこから離れていくはずなのです。イエス様は、この神の国を語ることをやめられなかったのです。これは弟子の姿、その言葉が間違っているとか、正しかったということではなく、ただただ、イエス様は神の国、福音の恵みを止めることはできないということを教えているのです。福音を止めることはできない。イエス様が神様の恵みを語ることをやめることはないのです。

 弟子たちは、人間の常識としては決して間違ったことをしたわけではないのです。ただ、それでも、この時の弟子たちは、やはり、神様の業よりも、どこかで人間の知恵、知識を先行させていた姿として見ることができるのです。これは弟子たちが悪いということではなく、人間が人間の常識、社会では当たり前とされることを行う時、それは神の国を宣べ伝えることを中断させることになるということです。人間の常識。それは神様の意志、神様の恵みを止めようとしてしまうことがあるということです。 

 このような中で、イエス様は五つのパンと二匹の魚をもって、そこにいたすべての人を満腹にされ、そのうえ、パンを集めると12かごものパンがあった、という御業をなされたのです。ここに、どれほどのことがあってもなかなか信じ切ることのできない人間に対して、決定的に、イエスこそが救い主、キリスト、メシアだと言わせる出来事を起こされたのでした。

  

4:  十字架と復活を指し示す業

 イエス様は、ここで、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰ぎ、賛美の祈りを唱えて、それらを裂かれ、それを弟子たちが群集に配ったのです。このイエス様の業は、ただ、イエス様が、群集がお腹いっぱいになるためになされたことではありませんでした。この祈り、パンを裂くという行為は、このあとイエス様の復活の後のエマオの途上にもあるのですが、まさにイエス・キリストの十字架と復活を示すことなのでした。特に当時の教会では、このイエス様が祈り、パンを裂いたという言葉は、イエス・キリストの十字架上での死を意味し、そこにある神様の命をかけた救いを読み取っていたとされるのです。「イエスとは誰か、何者なのか」この問いに答える業として、イエス様は、パンを取り、天を仰ぎ、賛美の祈りをし、パンを裂かれた。つまり、イエスとは自らの命を懸けて死に、復活された方、この世のキリスト、救い主であるということを示されたのです。

 

5:  教会として聞く

このイエス様の業は、ただ、イエス・キリストの十字架として、個人個人の救いを表わすだけではありませんでした。この出来事は、出エジプトの時に荒野を歩んだイスラエルの民に救いの恵みをくださる神様の姿を想起させる出来事でもあったのです。先ほども言いましたように、ここは「人里離れた所」、つまり「荒野」でした。荒野で男性だけで5,000人といった大変多くの人々がお腹をすかしている。イエス様は、その人々を満腹にされたのです。そしてこの残った12のかごというのは、十二のイスラエルの部族を表わすともされているのです。

この業は、まさに、昔、神様がエジプトで奴隷の立場にあったイスラエルを救い出してくださったように、人々を満たしてくださる方、救い主であることを示したのでした。イスラエルの民にとって、この業は、まさに神の救いの業であり、この方こそ神様が遣わされた救い主であると告白できる業だったのです。この時、人々は、エジプトからのイスラエルの民の救いに合わせて、イエスこそキリスト・救い主と見ることができたのです。このように、群集がイスラエルとして聞くことは、私たちが、教会として聞くことへとつながることなのです。

ここでイエス様は【「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」】(ルカ9:14)と言われました。イエス様は群衆を50人ずつのグループに分けられたのです。この50人というのは、共に宴会をするのにちょうどよい人数とされていました。つまり、共に食事をし、共に喜び、分かち合うためのグループに分けられたということです。群集というのは、もともと良い意味ではなく、むしろ最後は「イエスを十字架につけろ」と言った集まりを意味する言葉であり、無秩序で無責任な集団を意味していました。イエス様は、そのような群衆を50人ずつに分けられた。つまり、無秩序な集まりを、秩序ある集まりと分けられたのです。

この秩序ある集団として、教会があるのです。教会とは、もともとは無秩序で、何を目的としているかもわからないような人間たちが、神様の恵みによって集められ、一つの目的「イエスを主と告白する」という者として集められた、そして、そのために生きる人の集まり、共同体とされたのです。私たちは、このイエス様の恵みを教会として頂いていきたいと思うのです。キリストが、祈り、パンを裂き、その命をもって、私たちを集め、共にイエス・キリストの十字架に繋がる者としてくださったのです。これは、この世において、いずれ訪れる、神の国を表わす集団と言うこともできるでしょう。イエス・キリストは、様々な違いを持ちながらも、ただ、キリストを主と告白する者として、教会を作られたのです。

私たちは、この教会という集団に、神の国の幻を見るのです。ここにいずれくる神様の愛の支配、神様の平和、神様による恵みを表していきたいと思うのです。私たちは、この今日の箇所から、イエスを自らの主、救い主として告白していく者として、そしてそのような集団、教会とされていきましょう。(笠井元)