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2024.1.31 「苦しまれたからこそ苦しむ者を助けることができる」 ヘブライ人への手紙2:10-18

1: ふさわしいこと

 救いの創始者が数々の苦しみを通して完全な者とされたことは「ふさわしいこと」であったとします。私たちは、神の子イエス・キリストが十字架で苦しむことを聞き、感動しているでしょうか。神の子が苦しむということに慣れてしまっている。本来、万物の目標であり源である方、この世界の創造主が、被造物のために苦しむことは「ふさわしい」ことではないのです。

自分から苦しむ者となる人がいるでしょうか。聖書は、多くの子らを栄光・救いへと導くために、御子イエス・キリストが苦しみを受けたことは、ふさわしいことだったとするのです。【実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。】(ローマ5:6-8

 ここでの苦しみは、【数々の苦しみ】となっています。イエス・キリストの最大の苦しみは「十字架」です。ただ、イエス様の受けられた苦しみは「数々の」複数の苦しみです。イエス様は、人間の受けるあらゆる苦しみ、そのすべてを受けられたのです。

今年は、まさに苦しみから始まった年です。能登半島において大きな地震が起こりました。復旧が難しく時間がかかり、未だ水道が使えないところもあります。このような中、人間は、時に、神を呪い、人を呪い、自分が生きていることに絶望し、他者の存在を否定することがあります。神様は、人間が苦しみを受けないようにはされませんでした。ただ、そのあらゆる苦しみを共に受けられる道を選ばれたのです。これが、神様が選ばれた救いの形であり、自らの命を懸けた決断でした。

私たちは隣におられるイエス様をどのように見ているのでしょうか。隣で、同じように、もがき、悲しみ、死を求めるほどに苦しむ姿を見ているのでしょうか。私たちは、「ふさわしい」ことではないイエス・キリストが苦しまれていることを受け入れたいと思うのです。

 

2:  兄弟と呼ぶことを恥としない

 11節で【イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない】(2:11)と言います。イエス様は、人間を「兄弟」と呼ぶことを恥とはしません。今の時代では「兄弟・姉妹」と言うことも問題とされますが・・・イエス・キリストは、「兄弟・姉妹」と私たちを呼ぶことで、私たちを家族として認められ、それほどの関係にあることを恥とはしないとされたのです。

知り合い、家族、兄弟姉妹が恥ずかしいことをしている時に、「他人のふりをしよう・・・」と言うことがあります。兄弟でも恥ずかしいことをしている人とは、「私には関係のない人だ」と言おうとするのです。

神であり、神の御子である方が、私たち人間を「兄弟」として呼ぶことを恥としないということは驚くべきことなのでしょう。世間で言うところの自己肯定感というものの、究極的なものは、本当はここにあるのです。私たちが、社会において間違った行為をしても、自分で自分を受け入れられない時も、神との関係を断ち切ろうとしても、イエス様ご自身を傷つける時も、そのような私たちをイエス様は「兄弟」と呼んでくださるのです。

 

3: アブラハムの子孫を助けられた

 14節からは、イエス様は、死をつかさどる悪魔を自分の死によって滅ぼし、死の恐怖の奴隷とされていた者たちを解放されたと言います。イエス様は、血と肉を備えている者たち(新改訳では「血と肉とを持っている」、口語訳では「血と肉とに共にあずかっている」となっています。)のために、同じようになられたのです。

そして天使ではなくアブラハムの子孫を助ける者となられたのです。イエス様は十字架上で、「父よわたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)と叫び死なれました。イエス様は、神様との信頼関係をもって、死に打ち勝たれました。死を主とする者から、死のうちにあっても神を主として信頼し続ける者となられ、神様との関係を造り出されたのです。

【天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。】(ヘブライ1:14)天使は、救いを受け継ぐ者ではなく、その者たちに仕えるために遣わされた、奉仕する霊とされています。イエス様は、「天使」ではなく、苦しみ、どうすることもできないような死の底に堕ちていく人間と同じところに来られたのです。

 

4: 大祭司イエス・キリスト 

イエス様は、すべての点で、兄弟たちと同じようになられました。そして、イエス様は、ご自身を罪を償うものとすることよって、神様の忠実な大祭司となられたのです。イエス・キリストはご自身を罪を償う供えものとすることで、私たちが神様に繋がる道を作ってくださったのです。

 

イエス・キリストは、私たちの隣で、鞭で打たれ、いばらの冠をかぶせられ、手に釘を打たれた姿で立っています。私たちは、このイエス・キリストが共に苦しんでおられることを覚えたいと思います。私たちは、試練を受ける時、その隣に試練を共に受けられているイエス・キリストを見ましょう。