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2024.1.28 「キリストの足跡に従う」(全文) フィリピの信徒への手紙3:5-11

1,人間の弱さと神の配慮

新しい年を迎えると、私たちは当たり前のように交わし合う「Happy New Year」という言葉、今年はこの挨拶を交わすことを躊躇してしまうほど、世界がいまだ深い闇に包まれています。新年をハッピーに過すどころか、戦争や紛争により、必要最低限の生活が保障されず、飢えや孤独、恐怖に苛まれながらさまよって歩く人々、政治・経済面において依然として不安定な状況に心が揺らいでいる人、様々な理不尽や困難に耐えてまで生きざるを得ない隣人、あるいは自分にどんな挨拶をすれば良いのでしょうか。

今年のお正月は、久しぶりに両親と一緒に福岡の家で過ごしました。1日の夜テレビをつけると、能登半島地震のニュースと津波警報が画面に出てきて、後の数日に続くのは、事故や火災などの報道でした。「なぜ新年にこんなことに?」という問いと、明日は、今年は、また何か起こるのではないかという不安、そして、今無事に日常を過ごしている自分たちのことでえさ非現実的なようなものを感じてしまいました。人間って何だろう。生きている私って何だろう。ずっと大切にしているものが一瞬で奪われてしまったり、決して消えないと確信した心の光や希望や信仰が見えなくなったりする、人は誰しも今がどん底と感じた経験があるのではないでしょうか。強い人とか、弱い人だとかという言い方がよくされるのですが、人ってみんな弱い生き物だなとつくづく思わされます。このような時によく思い出す詩があります。古代の詩人、イスラエルの王ダビデによって書かれたものです。「主よ、人間とは何ものなのでしょう。

あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう。あなたが思いやってくださるとは。人間は息にも似たもの、彼の日々は消え去る陰。」(詩編144:3-4)旧約聖書では、過酷な試練に耐え、信仰を貫いた人物として知られているヨブも、苦難のただ中で似たような言葉を語っていました。「人間とは何なのか。なぜあなたはこれを大いなるものとし、これに心を向けられるのか。朝ごとに訪れて確かめ、絶え間なく調べられる。いつまでもわたしから目をそらされない。唾を飲み込む間すらも、ほうっておいてはくださらない。」(ヨブ記717-19

 

2,希望の証人

確かに私たちは弱いものです。自分の力を過信して傲慢になったり、この世界には本当に頼れるものがない、変わらない思うものが変わっていく、この世界や自分たちの限界に気づく時には落胆し委縮したりしてしまうものです。しかし神様はこのような人間のことを愛してやまず、ご自分の独り子イエスキリストを与え、真の赦しと慰め、希望を届けてくださいました。

1 28 日、教会暦で言えば、私たちは今「公現節」を過ごしております。キリスト教の多くの教派では、クリスマスから12 日後にあたる16 日の日に、東方の博士が星に導かれてキリストを礼拝しに来たことから、異邦人に対する神の子の公現日として祝っています。そして、220 日までは、異邦人への救い主の公現を覚えて礼拝を捧げる教会もあります。2000 年ほど前、キリスト降誕の場に居合せた人々の中には異邦人、異教徒がいました。「異邦人との交わりが許されない」という当時のユダヤ教の禁止規定からすれば、そのことはある意味奇跡的な出来事だとも言えます。昨年12 月の待降節に、西南学院舞鶴幼稚園ではクリスマス降誕劇が行われました。本番前に、園の先生が練習に取り組んでいた年長児たちの様子を参加者に伝える場面がありました。子どもたちは、事前に話し合って演じる役を決め、セリフについても自分たちで考え、分かりやすい言葉への変更などしました。

「東方の博士」を演じる子どもの一人は、あるセリフについて次のように指摘したそうです。占星術の博士たちは、「ユダヤの王」として生まれた方の星を頼りに、幼子イエスを探し回ったところ、「星を見失わないように急いでいきましょう」というセリフがありますが、「星を見失わないって、この言葉の意味がみんな分かるかな…もっと分かりやすい言葉がないのかな…そうだ!『迷子にならないように、星についていこう』にしたらどう?」とその子が提案しました。「迷子にならないように、星についていこう」、この言葉が心に深く刺さりました。博士たちは、国境も宗教も超えてあるべき指導者の姿を探し続けました。そして、家畜小屋で幼子イエスの姿を見た時、彼らはこの方こそ、愛と平和によって人々を導く真実の神なのだ、ということに気づかされ、喜びに溢れ、感謝の贈り物を捧げました。この部分の物語を読めば、嬉しい結末になったかのように思われがちですが、しかし、彼らが経験したのはまさに迷いと不安の旅、危険の旅でした。彼らは最初にたどり着いのはヘロデ王の宮殿でした。結局そこで幼子イエスが見つかりませんでした。その時、彼らは迷ったはずです。その後、「ユダヤ人の王となる子」の誕生を知ったヘロデ王が、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を一人残らず殺したことを耳にした時も、彼らは言葉では言い表せない戸惑いや不安を抱いたでしょう。博士たちは、この

ような「なぜ」と問うことしかできない、深い闇のただ中にあって、闇を突き抜けて到来する一筋の光を見、希望の証人となったのです。

私たちも生きる中で、様々な迷いや悩み、痛みを抱えることがあります。キリストによって与えられた信仰は、それらを避けるためではなく、迷いや悩みに打ち勝ち、愛と平和の神の国にたどり着くためにあるのです。この信仰を与えられている限り、私たちは真実を失い、人生の迷子にならないでしょう。

 

3,目標を目指してひたすら走る

さて、カトリックや聖公会の教会では、先週木曜日、125 日は使徒パウロの回心の記念日となっています。パウロはもともとサウロと呼ばれ、熱心なユダヤ教徒で、ユダヤ教の律法に反するキリスト教徒を徹底的に排除しようとした人物です。ある日、サウロはキリスト信者たちを逮捕するためにシリアのダマスコへ向かう途上で、突然、天からの光を受け、「サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」というキリストの声を聞き、地面に投げ出され、一時的に目が見えなくなりましたが、自らの闇とイエスの光と出会って回心しました。パウロは、3 回にわたる宣教旅行をし、キリストの福音をユダヤ人以外の人々に広めた、「異邦人の使徒」とも呼ばれています。今日は、パウロがフィリピの信徒宛てに書いた手紙の内容の一部を読んでみたいと思います。

「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。」(フィリピ35-8)パウロはここで何を語っているでしょうか。

昔の人もそうですが、現代の私たちの誰もが若い頃に一度「人生の目標」について真剣に考え、悩むものです。その目標の一つは「持ち物」、あるいは持ち物を増やすことではないかと思います。持ち物にはいろいろなものが考えられますが、お金に代表される財産、更に地位や名誉や権力などが挙げられます。また知識や能力も持ち物に入るでしょう。現代の社会では、ある人が何をどれだけ持っているかで、その人の値打ちが決められる傾向があります。しかしこれらの所有物は、本当は命の外にあるもの、いわば生きる手段や条件、あるいは飾りに過ぎません。実際、物質的に豊かな現代社会のなかで、人間の心はうつろで、貧しくなっています。

ドイツの社会心理学者、哲学者のエーリッヒ・フロム(1900-1980)は、『生きるということ』の著書のなかで、生きてゆくうえでの二つの基本的なあり方を、「持つ様式」と「在る様式」に区別しています。「持つ様式」は先ほど話したような、所有物を増やすことを人生の目標とすることです。そして持ち物の多さによって自分と他者の価値をつけたりします。「在る様式」では、どのような人間であるかが眼目で、人生の目標としては、どのような人間になるかが問題となります。この二つは、私たち人間の基本的な存在様式で、そのどちらが支配するかで、「人の思考、感情、行為が決定される」とフロムは言います。現代の人間は、持つ様式が最も自然な存在様式であると思っているだけでなく、唯一の生き方であるとさえ思っていて、別の在り方、すなわち「在る様式」が理解できなくなっているのではないでしょうか。

パウロは、主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見なしていると語っています。さらに「それらを塵あくたとみなしている」(3:8)と書いています。極端な言い方だと思われるかもしれません。なぜパウロはこんなドギツイ言葉を使ったのでしょうか。パウロは誇れるものをたくさん持っていました。正真正銘のユダヤ人、しかも由緒ある一族で、高度な教育を受けていました。知識が豊かで、論理的思考力も並はずれています。パリサイ派に属し、律法を厳格に守った人でした。そのパウロにとって、誇りを捨てることはそれほど簡単なことでなかったから、そのような言い方をされたのかもしれません。打ち消してもすぐに鎌首をもたげてくるのが誇りです。パウロにそのような罪との深刻な闘いがあったと思われます。彼は、自分を「罪人のかしら」(I テモテ1:15)と呼びます。それはキリスト教徒を迫害したからだけではないでしょう。現に今、そして常に罪と闘っているからではないでしょうか。それゆえ、パウロは言います。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピ3:12-14

「後ろのもの」とは、過去に犯した罪であるという解釈もあれば、自分の成し遂げた業績であるとの解釈もあります。あるいは、今この瞬間は、次の瞬間には過去になりますので、現在持っている信仰であるという解釈も可能です。信仰をはじめ、全てを忘れる。なぜなら信仰による義でさえも、知らぬ間に、自己義認になりかねないという危うさを持っているからです。パウロにとって肝心なことは、「キリストを捕らえようと努める」こと、「日々繰り返しキリストに倣って生きる」ことです。信仰には「立ち止まる」「現状維持」「これでもう大丈夫」はないと思われます。立ち止まるとたちまち、生まれながらの自分が生きてしまいます。持ち物で自分を意味づけてしまいます。キリストは、絶えず繰り返し捉え直さなければならないのです。

 

4,キリストの足跡に従う

宗教改革者マルティン・ルターは、次の言葉を残しています。「キリスト者の信仰は今の状態(sein)の内にはなく、生成、繰り返し生み出す中、創造(Werden)の内にある」「キリスト者は日々新たに回心しなければならない」。キリストは今なお生きておられ、働いておられ、創造の業を続けられていま

 

す。私たち個人や教会のあるべき姿、目標を達成するために、今生きておられるキリストの足跡に従うほかに道はありません。新しい年、キリストに問われつつ、日々新たにされつつ、共に目標を目指して歩み出しましょう。(劉雯竹)