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2024.1.14 「キリストに派遣された者」(全文) ルカによる福音書9:1-6

1:  選び出された者

 今日の箇所で、イエス様は、弟子の12人を呼び集め、福音を告げ知らせるために、派遣されていきます。この12人が選び出されたのは、今日の箇所の少し前、ルカによる福音書6:12-16の箇所となります。この6章12節において、まずイエス様は祈られました。そして、その祈りの中で、12人を選ばれていったのです。私たちは、この12人の選びの中に、イエス様の祈りがあるということを覚えておきたいと思います。

ヨハネによる福音書15章において、イエス様は【あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。】(ヨハネ15:16)と言われました。

イエス様は、神様の御心を求め、祈り、そして12人を選びだされたのです。それがこの12人の弟子となるのです。同じように、私たちが今ここに集められているということ、または動画の配信によって、共に礼拝をしているということ、このことも、このイエス様の祈りのうちにあるものだ、ということを覚えたいと思います。私たちがここにいること、神様を礼拝できているのはイエス様の祈りによることなのです。

 イエス様は、6章において、12人の弟子たちを選び出されました。ただ、イエス様が、この弟子たちを遣わしていくのは、その後すぐではなく、今日の箇所9章となります。イエス様は、この選び出した12人の弟子たちを、すぐに福音宣教のために遣わされていったのではありませんでした。そうではなく、イエス様は6章で選び出した12人の弟子たちと、まず、共に歩まれたのでした。 ルカによる福音書8:1には【イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。】(ルカ8:1)とあります。イエス様は、自分が神の国とを伝える中で、12人の弟子たちに、ただ言葉で教えるだけではなく、共に生きたのでした。イエス様は、共に歩まれ、共に旅をされる中で、神の国というもの、そして福音とういうものが、何なのかをこの12人と共に生きてくださったのです。

 

2:  悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能 

このイエス様が、共に生きてくださったこと、そのこと自体が、今日の箇所の1節に【あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。】(ルカ8:1)とありますように、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力となっていったのでしょう。この12人に与えられた権能とは、それは、ただ言葉通り、いわゆる悪魔みたいなものを追い払ったり、また病気の人をそこから回復させたりという、それだけのものではなかったのでしょう。むしろ、これまで、イエス様が、12人の弟子たちと共に歩まれる中でなされてきたように、弱い人間と共に歩まれ、そして、実際に社会から疎外されている人がいれば、社会の中へと回復されるように働かれ、そして、罪深い者とされている人がいれば、その罪を赦された。そのような権能、つまり「共に生きる」ことを、ここでは言っているのです。

 このイエス様の働きというものは、これまで私たちも、共に学んできました。その中で、一つの出来事として、7章でイエス様は、死んだナインの女性の息子を生き返らせるという奇跡をなされました。このナインの女性にとって、息子が死んでしまったことは、とても厳しい現実が待っていたことを表しているのです。夫に早く死なれ、そして今度は、息子にも死なれてしまった。当時のユダヤでは、長寿であることが、神様からの一つの祝福であると考えられていたので、その逆に、早死にしてしまうことは、何らかの罪によって、神様から罰を与えられているのだと考えられていました。ただでさえ息子の死によって、苦しい状態であるのに、この女性は、社会的にも、神様から見放され、罪ある者とされ、苦しめられていくのです。それだけではありません。この女性にとって、息子が死んでしまったということは、生活的な困窮の中に立たされていくことをも意味していたのです。働き手であった、息子が死んでしまうことは、生活が追い詰められ、それこそ精神的にも、肉体的にも追い詰められる出来事であったのです。

 この箇所においては、この女性が祈って神様を求めたわけではありませんでした。ただイエス様が、その信仰も、思いも、祈りも、まったく関係なく、歩み寄られていったのです。イエス様は、苦しみの中にある人に対し、その痛みへと無条件の中で歩み寄られ、共に歩む者となってくださったのです。イエス様の与えられる癒しとは、このようなもの、まさに無条件で共に歩まれる者となってくださったことなのです。イエス様は、このような自らの働きによって、「悪霊に打ち勝ち、病気を癒す権能」というものが、まさにこの、イエス様が共におられるということであることを教えられたのです。このような、実際にこれまでイエス様が、なされてきた働きを見て、その恵みに共に与る12人の弟子に、この権能が与えられていったのです。

 

3:  キリストを頼り出ていく

今日の箇所で、12人は、神の国、神様の愛の支配、イエス・キリストが共におられるという恵みを、伝えるために遣わされたのです。それは、イエス様が、私たち弱い者と共に、歩むことを決断してくださったように、罪あるとされる者、また社会的に疎外され一人ぼっちにされている人、そして多くの苦しみの中で、誰一人として話を聞いてくれる友達のいない人と、共に歩むため、そのように共に生きるためにこそイエス様は12人の弟子たちを遣わされたのです。私たちが、イエス・キリストが共にいてくださるという恵みを受け取っていく中で、私たちもまた、同じようにその愛と恵みを伝える者として、遣わされているのです。

このイエス様の派遣。それは、私たちの中に、主であるイエス・キリストがおられる中でこそ、なされることであり、私たちが、そうでない、そのほかの何か、「杖や袋やパンや金」などというものに頼る中では出来ないことなのです。

私たちの周りには多くの物で満ち溢れています。特に、今は、便利なもの、生活を支えるもので溢れていると言ってもいいでしょう。人間はアイデアや知恵を尽くして、その生活が豊かになるために様々なものを作り出してきたのです。ただ、人間の造り出すものには、メリットもあれば、必ずデメリットもあるものとなります。便利で良いと思われるものでも、どこかに問題や副作用的なものを抱えている。それこそ、プラスチックや原子力など、もちろん、とても便利だと思えるものには、逆に問題が伴うものなのです。私たち人間は、そのようなものが溢れるこの世界で、いつの間にか、そのようなものに頼るしかないと思ってしまうようになっている。何もかも手放してしまうことはできない。そして、それが一番大切だと勘違いをしてしまってはいないでしょうか。つまり、この世的な多くのものに心を向け、一番大切なイエス様が共におられるということを忘れてしまっていくということです。すべてを共に担って下さる神の子、イエス・キリストが共に生きておられることを忘れてしまってはいないでしょうか。

ここで、イエス様は、共に生きる道を示され、そのために12人を派遣されました。誰かと共に、真剣に歩むことは、私たちの能力や、この世の道具ではできない。その人の立場に立ち、その人の必要を考え、そのために祈っていくことは、私たち人間の能力、人間の造り出した道具ですることではないのです。それはただ、イエス様がその間に立ってくださってこそできること。イエス様の愛を受けることから始まることなのです。私たちは、イエス様にまず頼り求めて、祈っていくことが求められているのです。

 

4:  神様に委ねる

しかしまた、実際には5節にありますように、迎え入れられない、私たちが共に歩むことを望んでいても、相手は望んではおらず、共に歩むことができない、そのような時が実際にあるのであります。マザー・テレサの日々の言葉ではこのようにあります。「私は人々を変えたいと思います。あなた方が思っているような改宗という意味ではなく、心を変えたいのです。全能の神でさえ、その人が望まない限り、変えることはできません。・・・人々は、回心とは突然に変わることだと思っています。そうではありません。神と顔と顔とを合わせる時には、私たちは神を自分の障がいの中に迎え入れて変わるのです。」(マザー・テレサ「日々のことば」p.298)どれほど、私たちが願っても、何をしても、変わらないとしている人間の「心」を変えることは私たちにはできません。それは、祈りが足りないのでも、イエス様に頼っていないからでもないのです。そのような私たちに、イエス様は、「埃を払い落としなさい」と語られます。イエス様が、ここで「埃を払い落としなさい」と語られた言葉は、ユダヤにおいて関係性の断絶を表す言葉でした。

この言葉には、様々な解釈がなされています。「福音、神の国を受け入れない人は、もはやあなたとは関係ない」そして「神の国を受け入れない人は、もはやイエス・キリストとは何も関係のない者とされる」ということを表すための行為と理解することが、一番多い、言葉通りの理解と考えられます。ただ、今日は、ここから人間の限界を知るということ、そして、主なる神様が働かれるということに目を向けたいと思います。ここまで見てきましたように、弟子たちが遣わされたこと、そしてその道は、簡単なことではありません。弟子たちは、イエス様の祈りによって選ばれ、イエス様が共に生きて下さり、そのうえで、イエス様の恵みを受け取ってきた。そしてその恵みをもって、出ていくようにされたのです。誰かと共に生きること、誰かのそばに寄り添うこと、それは、イエス様の命を懸けた出来事、十字架の上にある行為なのです。このような険しい道を、人間である私たちが、誰とでも、いくらでもできるということではないのです。隣人と、共に生きることはそれほど簡単なことではないのです。「埃を払い落としていく」。それは、その人との関係を断絶するというよりも、そのような弱さ、限界を持つ、人間が、最後にできること・・・それは神様に委ねることだということです。

神様はイエス・キリストの死をもって共に生きる道を開かれた。この命の主、どこまでも憐れまれ、慈しみ、愛してくださる神様に委ねるしかないことがあるということです。先ほどのマザー・テレサの言葉では「全知全能の神でさえ、その人が望まない限り、(心を)変えることはできません。」と言っています。神様でもできない。これは、ある意味、長年多くの違う宗教を持つ方々と出会ってきたマザー・テレサの実感、実体験を通したとても重い言葉として聞くことができます。ただ、私としては、このように思いたい。「神様はできないのではなく、その人が変わるのを待っておられる」と。「神様は人間の心を変えることができないから、されないのではなく、できるけれどなされない。」のだと。人間の意志、尊厳を大切にされており、それこそ、神様の愛を受け取らないことによる痛み、苦しみを生きる人間と、そのような者とも共に生き続けておられる。これこそ慈しみの神、愛の神様であると信じたいと思うのです。

私たちは、このイエス様の派遣の言葉を受け、出ていきたいと思います。イエス様に祈られている者として、祈りつつ、イエス・キリストが今も、私たちと共にいてくださること、そしてすべての人と共にいてくださることを信じて、新たに歩みだしていきましょう。(笠井元)