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2024.1.1 「神の愛を求め続ける」(全文) マタイによる福音書7:7-12

1:  新しい年を迎える

 私は、この教会に就任する前は北海道で牧師をしていました。北海道の牧師会は、とても仲良しで、お正月の元旦礼拝が終わったあと、1月2日から二泊三日で家族みんなが集まって、牧師家族の慰安旅行のような集まりをしていました。このことは、北海道の全教会が了解をしていたので、16教会の牧師家族みんなが集まって、洞爺湖や帯広など、様々なところに行きました。

ある、そんな牧師会の時に、私がお風呂である先生とお話をしていたときに、今回は長男さんだけがお休みしていたので、どうしたのかと聞いたところ、頭にけがをしてしまったということでした。少し前に、山登りをして、帰る時、急な坂を下りる中、下を見ながら歩いていたそうなのですが、下だけを見ていたため、頭の前にあった木に気がつかず、頭をぶつけてしまい、大きな怪我をしてしまい、今回はお休みしたということでした。先生は、「足元だけを見るだけではけがをしてしまいますね。下を見ることと同時に、前、そして上を見ることも大切ですね。今回の息子のケガから、人生においても足元だけではなく、前や上を見ることの大切さを学びました」と言われていました。いつも自分が自分の足元、一歩先だけ見て、前、そして上を見ていないと、人生でも大きな困難にぶつかって、大きな怪我をしてしまうということを学んだということでした。

私たちの教会の今年度の標語は「主に希望を持って幻を見よう」という標語です。今、新型コロナウイルスが少し収まる中で、私たちは神様が与えてくださる、もう一歩先、幻、ビジョンをもう一度見上げていきたいという思いからの標語となっています。ここ数年、新型コロナウイルスの影響もあって、まず自分が生きることが精いっぱいで、どこかで、前を向き、またその一歩先、そしてもっともっと先のことを考えることができない状態となっていたと思うのです。だからこそ、今年度は、もう一歩先、幻を見ていきたいと願っています。

今、私たちは、新しい年になり、来年度を迎える準備に入っていく時にもなります。その中で、これまでの教会の一年の歩みを振り返り、そしてこれからの歩みを考えていきたいと思います。皆さんは、これからの生き方をどのような形で考えられているでしょうか。今年の目標、来年度の計画、そしてもっと先のことをどのように考えられているでしょうか。

神様は、私たちにこのように言われます。【求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。】(マタイ7:7-8)。私たちは、これからのことを考える時に、まず神様の御心を求めていきたいと思うのです。

 

2:  求めなさい

 イエス様は「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」と言われました。

小学生の時に、私の友人の中に、「この前、教会の前を通ったら、『求めなさい、そうすれば与えられる』と書いてあったけど、もし本当なら、僕もキリスト教の神様信じてみる~何がもらえるのかな~」と言われたことがありました。それこそ、この「求めなさい、そうすれば与えられる」という言葉は、読み方を間違えれば、「宝クジでも、なんでも、欲しいものを熱心にお祈りをすれば与えられる。当たる。」「与えられないのは、お祈りが足りないから」という考えにもなります。ただ、今日の箇所は、そのような意味で「求めなさい」と言っているのではないでしょう。「何かが欲しい。欲しいものはお祈りすれば与えられる」という考えは、物質主義に囚われている考えで、私たち人間の弱さが表されている状態とも言うことができるでしょう。そしてある意味、これが人間の姿と言えるのかもしれません。ある雑誌には、「人間は、自分が欲しいものを求めて生きている。そのために働き、努力をする。そして、欲しいものを手に入れたら、次に欲しいものを見つけて、また生きていく。この繰り返しでしかない」書かれていました。

聖書が教える「求めなさい」という言葉は、そのような意味で語られているのではないのです。 実際、聖書には、願いを求めても、どんなに祈っても、願いは叶えられず、与えられないという場面がいくつもあります。それは、人間の自分勝手な欲求を満たすためのものであっても、そうではなく信仰をもって強く願った場面でも、神様が与えられないという時があるのです。聖書には、イエス様が病人を「癒し」たという箇所が幾つもあります。しかし、旧約聖書に登場する、ヨブがすべての財産、家族を失い、自分も皮膚病で苦しむ時、ヨブは、友人に「あなたが何か罪を犯したからではないか・・・」と言われたのです。また、異邦人伝道に向かい、いくつも教会を立ち上げたパウロに「とげ」が与えられた時に、つまり、病気で苦しむ中にあって、神様に苦しみが取り除かれるように願った中で、「取り除かれなかった」という場面もあるのです。聖書では、そのように、神様に願いを求めても与えられない場面が記されているのです。

 その一番大きな場面として、神様は、その御子、イエス・キリストの願いを取り下げられたのでした。イエス様が十字架に向かう場面で、イエス様はこのように祈られたのでした。【「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」】(マタイ26:39)イエス様は、「自らの杯、十字架の死という杯を過ぎ去らせてください」と願ったのです。しかしまた、そこには、「御心のままに」という願いがありました。そして神様は、「御心としての十字架の死」を選ばれ、自らの子イエスを死に向かわせられたのです。

 ここに神様と人間との関係性が表されているのです。それは私たちの祈りが、神様を操り、操作をするために、「願い、求める」ものではないという関係性です。神様は私たちの上に立ち、私たちの上、そして心の中にいて、神様が御心を私たちに教えてくださる。それが本当の神様ということです。人間がお参りして神様にお願いして言うことを聞かせようとする神様のように、人間の「お願い」に「下」から言うことを聞く、まるで人間の奴隷のように働くのが、キリスト教の神様ではないのです。私たちの祈りは、私たちが神様を操るために、「求める」のではなく、神様の御心を聞くために、祈りがあるのです。

 

3:  与えられるもの

では、今日の箇所で、「求めなさい」という言葉、それは何を求めなさいと教えているのでしょうか。神様は、私たちに、何を求めて欲しいと願っているのでしょうか。9節からはこのように言います。【あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。ましてあなたがたの天の父は求める者に良い物をくださるにちがいない。】(マタイ7:9-11)「あなたがたの天の父は求める者に良い物をくださるにちがいない。」と言うのです。神様は、私たちが困った時、苦しい時に、私たちが望んでいる以上に素晴らしいものをくださるのです。神様が私たちに与えてくださるものは、「私たちの欲求を満たすもの」ではありません。神様が私たちに与えてくださっているものは私たちの想像を超えた、神様の恵みです。そして、それは、私たちの欲求を満たすのではなく、本当に必要なものを与えてくださるのです。

私たちの人生には、避けようと思っても、避けることが出来ない困難があり、時に、病気や大きな問題に出会うことになります。その中で、わたしたちは、自分自身の弱さや欠点に向き合わされます。どれほど「助けてください」と願っても、困難から逃げることができないことがあるのです。神様が与えてくださること。それは、そのような時に、ただ困難を取り除くことではなく、私たちと共に困難に立ち向かうために、共にいてくださること、イエス・キリストが私たちを支え、手を繋ぎ、時には背負っていて歩んでくださるのです。私たちが求めたいこと。それは、このイエス・キリストの恵みを知ることです。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」それは、神様が共にいて、愛して下さっている。神様が、私たちの命を喜んで下さっているということです。

今日から一年が始まりますが、一年には「始まり」があり「終わり」があります。そして、それは、私たちの人生にもかならず「始まり」があり「終わり」ということでもあるのです。私たちは自分には、時間がいくらでもあり、今日も、明日も、自分がいつでも普通に生きているかのように思っている時があるのです。しかし、明日があるか、それは、だれにもわかりません。明日は神様が造るのです。だからこそ、私たちは、与えられている「今」という命を大切にしたいと思います。

神様から与えられている今を喜んで生きていきましょう。そしてまた、「今」生かされているからこそ、その先、こらからの命をどのように生きるのかも考えていきたいと思うのです。「終わり」という言葉のギリシア語の意味には、「目的」「目標」「完成」があるようです。私たちの一年の目的も大切です。そして人生の目的はもっと大切でしょう。私たちの人生の目的は何でしょうか。この教会の目的、そして「幻」は何でしょうか。私たちの人生の目的は、具体的になると、それぞれに違うものとなるでしょう。ただ、その意味としては、神様の愛に包まれて生きて、そして神様の愛の完成に出会うことになります。そのために、私たちは、ただ、神様にすべてを委ねて生きる決心、神様の御心を求める決断が必要なのです。

「求めなさい」これが神様の御言葉です。私たちは、「神様の愛」「神様の御心」を求めて生きていきましょう。この一年、神様の御言葉を、一番にして生きてみましょう。その時、イエス・キリストが共に生きていることを実感するときとなるのです。

 

4:  良いもの「聖霊」をくださる

今日の箇所11節では【あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださる】と言います。ここで「良い物」と記されている言葉は、別の聖書では「聖霊」とも訳されている言葉となります。神様は、私たちに聖霊を送って下さっています。聖霊が私たちを導いてくださる。私たちは、この聖霊の導きを信じて、イエス・キリストが共にいてくださるという恵みをいただき、共に生きる者とされていきたいと思うのです。そして、この世に神の国が来る。この世界に神様の愛が広がることを求めていきましょう。私たちはいずれ来られる、「幻」、神の完全なる愛の支配の時を、求めていきたいと思います。私たちの祈りの先頭に立って、イエス・キリストが祈って下さっています。だからこそ、私たちは、神様の愛、イエス・キリストをいただいて、神様からの聖霊を受け取って、共に歩んでいきたいと思います。イエス様は、私たち一人一人の間にきてくださいます。この聖霊の導き、キリストの愛を受けとって、この一年、神様の御心を求めて共に歩んでいきましょう。(笠井元)