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2023.12.3 「平安を与える牧者が来られる」(全文) エレミヤ書23:1-8

今日からアドベントとなります。アドベントはイエス・キリストの誕生を待つ時となります。私たちはイエス・キリストがこの世に来て下さった事を覚え、待ち望みつつ、日々を過ごしていきたいと思います。

 

1:  神を神としない

 今日はエレミヤ書から見ていきたいと思いますが、この1節、2節では、神様の裁きの言葉が語られます。この「神様の裁き」の言葉はエレミヤ書21章から続いている言葉で、そのまま23章の2節まで続いています。イスラエルは、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂し、北イスラエル王国はアッシリアに、南ユダ王国はバビロンに滅ぼされたのです。このイスラエルの歴史において、主の民、イスラエルを牧する牧者、つまりイスラエルの王様は、「羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった」とあるのです。このイスラエルの王の最大の罪は、神様に目を向けず、神様の言葉に耳を傾けることもなく、神を神としなかったことにあります。

イスラエルは、北にはアッシリアやバビロン、南にはエジプトという大国に挟まれた状態でした。そのため、アッシリアに攻められた時は、エジプトに助けを求めることもあり、確かにエジプトの助けを受けて、何とかアッシリアの攻撃を退けたこともあったのです。ただ、そのような中で、イスラエルは、神様を一番とすることを忘れてしまった。恐怖を前にする中で、神様ではなく、エジプトを頼った。つまり軍事力に対して、軍事力で対抗することを考えていったのです。神様は、このことを「災いだ」「わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と言うのです。

 これは、決して私たちにとっても、他人事ではないでしょう。私たちもまた、神様を神様とすることを忘れ、自分の思いを中心に生きる時、暴力、または暴力的な言葉を用いて、隣の人を悲しみに陥れていることがあるのです。そして、そこには悲しみ、嘆き、呻きの声が響いているのです。

 

2:   神の牧者 イエス・キリスト

 神様は、そのような人間のもとに、一人の牧者を立てると言います。このエレミヤの預言は、直接的には、バビロン捕囚からの解放の預言であるとされ、そのうえで、メシアの到来を預言したものでもあるとされ、または終末の時の預言であるともされています。クリスマスを待ち望む、この時は、まずこの言葉からメシア、キリストの到来として聞いていきたいと思うのです。

神様は、3節、4節で、「羊をもとの牧場に帰らせる。羊が恐れることも、おびえることも、迷い出ることもないように、牧者を立ててくださる」と言うのです。神様は、私たちを導いてくださる牧者、イエス・キリストをこの世に送ってくださったのです。

 牧者である、イエス・キリストは、十字架をもって・・・、神とは何か、どこにおられるのか。神は一体、私たちにとって何の意味を持ち、どのように関わってくださる方なのか・・・そのすべてを教えてくださり、私たちを神様へと導く方、牧者となってくださったのです。 

 イエス様はこのように言われました。【わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」】(マタイ16:24-25)「自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」。これが牧者であるイエス様が、この世、私たちに示された神様への道なのです。

イエス・キリストの道。それは決して暴力に対して暴力で対抗する道ではありません。イエス様はこのように言われました。【「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」】(マタイ5:43-45

イエス・キリストの十字架を見る時、私たちはどのように生きるべきなのでしょうか。今一度考える必要があるでしょう。私たちが生きる社会では、暴力に対して暴力で対抗することが、ある意味当たり前のようにあります。他者に苦しめられた分だけ、復讐することを、この社会は否定しませんし、むしろ「倍返し」といった言葉が流行ったこともあるように、当然のように、やり返すことを肯定するのです。暴力的行為を受けたとき、「あの人が私にしたからやり返す」ということもあれば、「自分もこれまでされてきたのだから、今度は、自分が別の人に同じようにする」と考えることもあります。ただ、私たちは、その道が本当に、神様に繋がる道なのか、考えなくてはならないでしょう。他者を苦しめること。復讐や倍返しといったことが、本当に神様に従う道なのでしょうか。

 

3:   出エジプトを超えた救いの出来事

 今日の7節で、聖書は【人々はもはや、「イスラエルの人々をエジプトの国から導き上った主は生きておられる」とは言って誓わ】(7)ないと言います。衝撃の言葉です。イスラエルの人々において、奴隷の状態から救い出された、出エジプトの出来事は、神様からの最大の救いの業とされてきたのです。ここでは、そのイスラエルの人々にとっての救いの中心、出エジプトの出来事を超えた出来事が起こると言うのです。ここでの言葉【イスラエルの家の子孫を、北の国や、彼が追いやられた国々から導き上り、帰らせて自分の国に住まわせた主は生きておられる】(8)という言葉から、当時の意味としては、バビロン捕囚からの解放を意味する言葉と理解できます。バビロンによって滅ぼされ捕囚の民とされたイスラエル。そのイスラエルがバビロンから解放される。そのとき、それは出エジプトを超えた救いの出来事となるということです。 

そして、今、私たちは、そのバビロン捕囚からの解放をも超えた救いを、イエス・キリストの誕生を見るのです。このクリスマスを前に、私たちは、イエス・キリストが来られることの喜びを、受け取りたいと思うのです。これまでイスラエルの人々のすべての喜びの中心であった、「出エジプト」「奴隷からの解放」、そして「バビロン捕囚からの解放」という出来事を超える恵みが与えられるのです。イエス・キリストの誕生は、これまで持っていたすべての喜びを超える恵みを頂くことになるのです。それほどに、主イエス・キリストに従うことは、恵み、喜びとなるのです。

私たちは、「神を信じる」ということは、何の得にもならないと思うこともあるかもしれません。先日、召されました川口雅子姉も、多くの人々に「神様を信じてもお金は降ってこない」「良いことが起こるわけではない」と言われたと言っていました。そしてこれまでの人生を振り返る時に、確かに、この世で良いことが起こったわけではないけれど、それでも、神様を信じてきてよかった。神様から多くの恵みを頂いたと教えてくれたのです。

十字架に従うこと。敵を愛する道。自分を捨て十字架に従うこと。そのことは、人間的に見て、苦しみの始まり、良いことなどなくなってしまうと思われるかもしれません。しかし、その道を一歩歩みだすとわかるのです。その道が、本当の救いに繋がっていると。そしてここにこそ本当の喜びがあることを教えられるのです。

 

 

4:   再び来られるキリストを待ち望む

最後に、今日は、このクリスマスを待つ、アドベントの時に、イエス・キリストが再び来られること、再臨の出来事にも目を向けていきたいと思います。主イエス・キリストは、確かに、私たちの生きるこの世界に、来て下さいました。そして十字架で死に、復活され、天に昇られたのです。聖書は、このイエス・キリストがまた、いずれ来られると教えるのです。今日の5節と7節では、【見よ、このような日が来る、と主は言われる。】(エレミヤ23:5,7)と言われます。

イエス・キリストはこの世に来られました。そして十字架の主として、神様と私たちを繋げて下さったのです。そしてまた、いずれ、この主イエス・キリストは、この世に来られるのです。私たちは、今、この希望を持ち、キリストの到来を待ち望んで生きるのです。私たちがこの世を見渡す時、本当にこの世に神様がおられるのか疑問を持つほどに混乱と紛争、差別が蔓延しています。この世に希望はあるのか。どうしてこの世はこのように理不尽なことばかりが起こるのかと思わされるのです。ただ、私たちは、「だから神はいない」とはならないのです。神様は、イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。私たちは、「いずれもう一度来られる」、「イエス・キリストが必ず来て下さる」、「イエス様、来てください」、「御国を来たらせたまえ」と覚えて祈るのです。

 

今日の箇所6節では「イスラエルは安らかに住む」と言います。私たちにとって「安らかに生きる」とはどのようなことなのでしょうか。それこそ平安で心が満たされるとは、どのような時なのでしょうか。私たちはここに主イエス・キリストに目を向けた希望、幻をみたいと思います。いずれその日が来る。いずれ、キリストの愛にすべての者が触れ、愛を持つ者と変えられる時がくる。いずれイエス・キリストが、この世を、本当の愛の世界へと導いてくださる。私たちは、この主イエス・キリストが来られるという希望の内に、その幻、その夢、その未来をみつつ、今、この時を過ごしたいと思います。 この希望を見る時に、私たちの心には、変わることのない平安が与えられるのです。イエス・キリストは来られました。そしてまた、もう一度必ず来て下さるのです。私たちは、このことを信じて、希望と平安をもって、イエス・キリストを待ち望み、生きていきたいと思います。(笠井元)