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2023.10.1 「愛されて赦す力を得る」(全文)  エレミヤ書5:1-9

1:  エレミヤの時代の状況

 今日はまず、このエレミヤ書が記された時のイスラエルの状況から少し説明をしていきたいと思います。イスラエル王国はもともと一つの国としてありましたが、それもダビデ王、ソロモン王までであり、その後は、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂していったのでした。そしてこのエレミヤの時代は、すでに北イスラエル王国がアッシリア帝国によって滅ぼされた後の時代であったのです。この北イスラエル王国が滅ぼされる中、南ユダ王国はなんとか生き残ったのでした。ただ、南ユダ王国の人々はこのことから、神様への感謝の心を与えられたと同時に、「自分たちは何をしても、どのような時でも必ず神様に守られるのだ」という間違った思い、いわゆる「自分たちは神様に選ばれている」という選民意識を強く持つようにもなってしまったともされるのです。そして、そのような思いは「だから神様に繋がっていよう」という思いではなく、自分たちが偉い存在であるという勘違いを生み出し、結果として、神様からも離れていくこととなってしまったのでした。 このような南ユダの人々にエレミヤは「神様に立ち帰れ」「悔い改めよ」と語り掛けるのです。それこそこのエレミヤ書の3章、4章では、何度も何度も「立ち帰れ」と呼びかけています。

 

2:  正義を行い、真実を求める者はいなかった

 そのような中、今日の5章ではこの南ユダの人々に、神様の裁きが下ることを伝えることとなるのです。今日の一節で神様はこのように言われました。【エルサレムの通りを巡り、よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか、正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう。】(エレミヤ5:1)神様はエレミヤに、「エルサレムをめぐり歩いてみなさい。一人でも正しい者がいれば、この民を私は赦そう」と言われているのです。この神様の言葉を聞いて思い出すのは、創世記18章におけるアブラハムの執り成しについてです。

アブラハムは、神様がソドムとゴモラを滅ぼすと言われる中、もう一度考え直して、ソドムとゴモラを滅ぼすことのないように、執り成しのお願い、神様との交渉をしたのです。創世記18章のアブラハムの言葉です。【「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」】(創世記18:23-25)アブラハムはソドムに50人の正しい人がいるならば、その町を助けられるべきではないかと訴えるのです。それに対して、神様は【主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」】(創世記18:26)と、もし50人でも正しい人がいるならば、ソドムの町全体を赦そうと言われるのです。アブラハムの執り成し、交渉はここから続いていくのです。「では45人の場合は」から続き、40人、30人・・・とし、最後は10人でも正しい人がいればソドムは町全体が赦されるということになったのです。神様は、「たとえ10人でも正しい人がいれば、その町全体を赦そう」とされたのでした。

 これに対して、今日の箇所では、神様は「ただの一人でさえもいれば、エルサレムを赦そう」と言われているのです。これは神様がソドムとゴモラの時よりも、忍耐してくださるというよりも、むしろそれ以上に、失望していたと見ることができるのです。「ただの一人でもいればあなたがたを赦そう」。その言葉の裏には、ただの一人も今のエルサレムには、正義を行い、真実を求める者がいないという現実があった。そしてそのことを神様がわかっていたということです。もちろん神様がこのことを望んでいたのではなかったのです。むしろ、一人でも、正しい人がいて欲しかった。一人でも神様ときちんと向き合う人がいて欲しかった。しかし、ここにはただの一人も、そのような人はいなかったのです。

 2節ではこのように言われます。【「主は生きておられる」と言って誓うからこそ、彼らの誓いは偽りの誓いとなるのだ。】(エレミヤ5:2)イスラエルの過ちは、ただ神様を信じなかったということではないのです。「主は生きておられる」と誓っていながらも、信じているように見せていながらも、実際のところは偽りの誓いであり、信じてはいなかった。口先だけで、内実のない信仰となっていたのでした。

このことは、私たちも考えさせられることではないでしょうか。特に、神様を主と告白した者は、自らは神の子、キリストに繋がる者として生きていると思っていながらも、その内実はまったく神様を自らの主人として生きていないことがあるのかもしれません。

 

これは、私が中学生の時の話となります。私の出身教会は夕方に、若者で賛美礼拝のようなものを行っていました。いつも、昼間の主日礼拝の後、夕方までは、時にはトランプなどゲームをしたり、賛美の練習、聖書の学びをしたりもしながら、待っていました。ある日のことでしたが、その日は、みんなでトランプをしていたのですが・・・ちょっと、いつもより盛り上がっていました。そのため、夕方の礼拝が近くなり、そろそろ準備をしなければ・・・というときに、当時、教会に来ていた神学生の方が、「そろそろ準備するよ」と言ってきたときに、一人が「今日は俺はパスする・・・」と言い出し、次々に「俺も」「私も」と言い出したのでした。もちろん私も「パス」と言ってしまいました。いつもはとてもやさしい神学生の方でしたが、そのような私たちの態度に、激しく怒られて「それぞれ、なんで礼拝をするのか、その奉仕をしているのか、もう一度考えてきなさい。もしそのような態度で礼拝、奉仕するなら二度としなくてよい」と言われたのをよく覚えています。その時、頭の中で、なんで礼拝をするのか、なんで賛美をしているのか、わかっていないわけではなかったと思います。ただ、やはり中学生です。トランプの誘惑に簡単に負けてしまったのでしょう。そして、それを、簡単に態度に出してしまったのです。ある意味、中学生だから、何も考えずに自分の思いを表したからこそ、きちんともう一度考える言葉を受け取ることができた、ともいうことができるかもしれません。これが今の私、大人であれば、また違ったのではないかとも思うのです。大人はもっと考えることができます。嘘も言い訳も上手です。赤ちゃんは嘘はつけないのですが、大抵、幼稚園児になれば少しずつ嘘がつけるようになります。ただ、ほとんど誰が聞いてもわかるような嘘です。しかし、成長と共に、嘘はわかりにくい嘘となり、時には、それがいつの間にか本当のこととするようにまでなります。そして、今日のエレミヤ書にあるように、心では神様を求めていなくても、「私はあなたを求めています」と、神様にまで嘘、偽りを言う者となってしまうのです。

そして、それが人間の本質だとも言うことができると思うのです。聖書はこのように教えます。ローマ書3章です。【次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。・・・なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(ローマ3:10-1220)人間のうちに、自らの行いで義とされる者は一人もいないのです。

 

3:  神の裁き

 今日の箇所では、このように続きます。4節からです。【わたしは思った。「これは身分の低い人々で、彼らは無知なのだ。主の道、神の掟を知らない。身分の高い人々を訪れて語り合ってみよう。彼らなら、主の道、神の掟を知っているはずだ」と。】(エレミヤ5:4-5)エレミヤは、神様に従うことができないのは、身分が低く、神様をきちんと知ることが出来ていないからだ・・・と、だから、知識を得ている者たちなら神様のことを主として生きているのではないかと考えたのでした。しかし、【だが、彼らも同様に軛を折り、綱を断ち切っていた。】(エレミヤ5:5)とあるように、結果、誰も、神様を自らの主とはしていなかったのです。むしろ7節からあるように、十分な食べ物を与えられた者は、そのことを神様に感謝するのではなく、むしろ神様を捨て、神様でないものを神とし他者を傷つける者として生きていたのです。これは今も変わらないかもしれません。神様が富を与え、恵みを下さる中、人間は、いつの間にかその富を自分のものとし、自分の力によって得たものだと考え始める。それが大きければ大きくなるほど、神様に感謝する心を失い、傲慢な者となっていく。そして7節の後半からあるように、人間は、その富をもって、隣人との関係を壊してしまう。それはその社会を崩壊させ、共に生きることが出来なくなるように、関係を破壊してしまうのです。ここに、この世の誘惑があり、私たち人間の弱さがあるのです。

 6節、9節にこのようにあります。【それゆえ、森の獅子が彼らを襲い、荒れ地の狼が彼らを荒らし尽くす。豹が町々をねらい、出て来る者を皆、餌食とする。彼らは背きを重ね、その背信が甚だしいからだ。】(エレミヤ5:6)【これらのことを、わたしが罰せずにいられようかと、主は言われる。このような民に対し、わたしは必ずその悪に報いる。】(エレミヤ5:9)神様はこのような人間の背きに対して「必ずその悪に報いる」と教えられます。罪に対する、神の報い。それはもちろん恐ろしいものです。ここでは、獅子、狼、豹に襲われるようなことだと教えるのです。神様は正義を行い、真実を求める者です。人間の背きを見過ごされる方ではないのです。

 

4:  ただ一人の正しい人

 神様は、人間に裁きを下されます。すでに下されました。それは、この世界には、一人もいないとされる「正しい人」に下されたのです。神様は義であり正しい方です。そして、同時に、慈しみ深く、救いの方、愛の方なのです。神様は、その裁きのために、御子、イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。神の子でありながらも、人間としてこの世に来られた方、イエス・キリストがすべての人間の罪を引き受けられ、十字架で死なれたのです。これが、神様の選ばれた裁きの業でした。神様は、「ただの一人でさえも、正しい人がいるならば、すべての人を赦そう」とし、その一人として、イエス・キリストを送ってくださったのです。

 聖書はこのように教えます。先ほど読みました、ローマの3章の続きとなります。ローマ3:22~26【すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。】(ローマ3:22-26

 私たちは弱い者です。しかし、それでも、神様は、そのような私たち人間を愛してくださっている。そしてその愛の恵みによって、私たちを赦されたのです。それは私たちが何かをしたからではなく、ただ神様の一方的な愛の恵みなのです。

5:  赦しを受けて、赦す力を得る

 私たちは、このイエス・キリストが裁きを受けるという業をもって、赦されているのです。私たち人間は、この赦しの上で生きることが許されているのです。わたしたちは、このイエス・キリストを、自らの主と告白して生きていきたいと思います。それは、赦された者として生きるということ。つまり、愛の赦しを受けた者、つまり「赦す力」を頂いて生きるということです。私たちは愛されています。そのような私たちの生きる道、それは赦された者として、「赦す力」を頂いて生きる、生き方ではないでしょうか。 

 先日、読んだ本の中にこのような記事がありましたので、皆さんにもご紹介いたします。 2015年にアメリカのサウスカロライナ州のエマニュエル・アフリカン・メソジスト・エピスコパル教会という教会で、牧師を含む黒人9名が白人至上主義者の若者によって射殺されたという事件がありました。この逮捕された若者に対して、遺族の方々はこのように語りかけたそうです。「あなたは私から大切な人を奪いました。もう彼女と話し、抱きしめることもできません。でも私はあなたをゆるします」「私は自分がとても憤っていることを告白しますが、憎むことはありません。ゆるさねばなりません。あなたの魂のために私は祈ります」。事件後初の礼拝では、このように言われたそうです。「悪魔が(教会に)侵入し、支配しようとした。(だが)神のおかげで、悪魔は人々を支配することはできない。教会を支配することもできない」

このような思いにたどり着くことは簡単なことではないでしょう。激しい憎しみ、怒り、心の痛み、そのような思いが心を覆いつくしたでしょう。誰が自分の愛する人を奪った人を赦すことができるでしょうか。しかし、神様の「赦す力」は、そのような人間を憎しみから解放していくのです。憎しみに囚われている時、本当に苦しいのは憎まれる方ではなく、憎んでいる方でしょう。「あの人だけは赦さない・・・」「この行為だけは赦すことはできない・・・」そして、このような思いを、この世は否定しません。むしろそのような思いから復讐へとつなげることを「良し」とします。

しかし、神様は、神様ご自身が、その痛みを背負うことによって、すべての人間に寄り添う者となられた。その人間の心の苦しみを共に生きて下さっているのです。私たちは、まず自分の、すべての業が赦されている、私たちは、神様の義の前に立つことが赦された存在であるということを覚えたいと思います。「あなたは愛されている。」「あなたは赦されている」のです。

 

そして同時に、神様は、「わたしがあなたと共にいる」と言われ、「同時に、あなたが憎む者も、私は愛している」「私は、すべての人間を赦しているのだ」とも教えられているのです。私たちは、その憎しみも、復讐の思いも、すべてを神様に委ねて、ただひたすら、赦されている恵み、変わることのない愛を頂き、感謝のうちに生きていきたいと思います。(笠井元)