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2023.8.27 「隣人に開かれた真実」(全文)  出エジプト記20:1-2、16

モーセの十戒の九番目の戒めは「隣人に関して偽証してはならない」と命じています。ここでは一般的に、単に「人は嘘をついてはいけない」という原則が問題になっているというよりも、イスラエルの町の門で行われた裁判において、偽りの証言をして人を陥れることが禁じられています。イスラエルでは、その町や村の成人男子が町の門に集まり、日常的な裁判を担っていたのです。わたしたちの「クニ」

でも「裁判員裁判制度」が始まりました。市民が裁判を担うということは必ずしも悪いことではありません。候補者名簿2万8千人の内から籤で50~100人を選び、各々の訴訟においてその中から6人の裁判員と数人の補充裁判員を選ぶそうです。4600人に一人の確率で裁判員にならねばなりませんから、そのうち、この教会に集っている皆さんも「裁判員」になる可能性があるかも知れません。

 また、証人として裁判所で証言をするという機会もあるかも知れません。私は202193日新安保関連法違憲訴訟の原告として原告本人尋問というのを行いました。法廷に立って、「良心に誓って嘘をつかないこと」を裁判官3名、弁護団、そして被告の国側の代理人3名の前で宣誓を行いました。尋問の中で私が米国の教会で説教した際のことを証言しました。説教後ヴァージニア州ノーフォーク基地に勤めている「中将」という人が私の説教をほめてくれたことを証言しました。キリスト教会は武力行使ではなく、イエス様に倣って非暴力抵抗・対話を行うべきであると説教したわけです。説教後大柄な男性が前に出てこられて握手を求められました。彼はこのように言われました。「米国の教会の牧師たちはあなたのような説教をしない。政治家は簡単に戦争を始めるが、軍人は部下が殺されるのがいやなので、あなたの説教に感激した」と。私が法廷で証言した際に戸惑いを覚えたことは、その人がvice-generalと言われたので私の貧しい英語力で「中将」と理解したことでした。ノーフォークは海軍基地であり、海軍の場合は中将はvice-admiralですので、あるいは誤解したかも知れないという恐れでした。しかし、宣誓書には「故意に」「意図的に」嘘をつかないとあったので、少なくとも「故意」ではないと自分を納得させたわけでした。証拠として裁判所の公文書に載るので少し緊張しました。

 

1.「証言」:真理・真実な人間関係

「あなたは、隣人に関して、偽証してはならない」。イスラエル人にとっては、隣人との具体的な関わりは、いつも真理の問題に関わり、真理の問題はまた、いつも具体的な人と人との関わりの中で考えられました。真理を意味するギリシヤ語「アレテイア」は「覆いを取り除く」を意味しており、この世のうわべの姿を剥ぎ取って、隠れていたものを露にすることです。この世のうわべの姿を剥ぎ取ると、そこには何か本当のものが現われてくると考えられたのです。これに対して、ヘブライ語聖書の伝統は全く違います。ダイナミックです。ヘブライ語における「真理=エメト」は「アーメン」と同じ言葉でありますが、神と人、人と人との出会いの中で誠実であること、人格的な信頼性を意味しています。神に対して「アーメン」と言えるか、人の言葉に「アーメン」と言えるかが問題となります。このように新約聖書のギリシヤ誤とヘブライ語の「アーマン」には違いはありますが、エフェソ書にはこんな言葉があります。「愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである」(4:15)。ここでは愛と真理とが堅く結びつけられています。フレーズ・パスカルも有名な「パンセ」の中で、「人は真理を偶像にする。なぜといって慈愛をよそにした真理は神ではないからである。慈愛をよそにした真理は神ではなく、神の影像であり、偶像であり、これを決して人は愛してはならない。また崇めてはならない」(582)と言っています。つまり、真理はいつも愛と結びついて いなければならないというのです。もし、真理が愛と切り離されると、それは真理の名において、人の落ち度を暴露することになり、逆に、愛が真理と切り離されると、偽りの愛、盲目的な愛、自己愛となってしまうのです。度々、強調しているように、十戒はその序文「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」という、主なる神による救いと解放の体験から読まれねばならないとすれば、人と人との出会いの中での真実は、神と人との出会いの中での真実さによって、そして何よりも人間に先立つ神様の私たちへの真実と、それへのアーメンの応答によってはじめて可能になると言ってよいと思います。こうして、イスラエル人にとって、人と人との出会いの中で生きることは、真理の問題であり、信仰の問題なのです。正しい裁きにおける「証言」はまさに真実なコミュニケーションの問題です。

 

2.偽証のかたち 隣人を陥れること

それでは、私たちの目を現代社会に向けて、私たちの社会を見てみましょう。真理の証言を、何かを暴露することと考え、真理の証言を神の憐れみと人間の愛から切り離すこと、いつも誰かを訴え、いつも誰かから訴えられていると感じて生きることになります。それが現代に生きる私たちの姿ではないでしょうか?無記名のSNSで誹謗中傷されて自死に追い込まれたケースもあります。偽りの証言の背後には単に「面白がる」だけではなく、自己保身というか自己弁護と自分を大きく、偉く見せようと思う屈折した心が潜んでいるように思います。シュヴェーベという人は次のように言っています。「新聞、ラジオ、テレビによって、われわれの生活の公的な場面が毎日法廷となる。・・・そこではたいがいジーナリストが検事を演じ、彼は告発し、証人をつれてきて、刑を提議する。・・・最後の審判は毎日行われている。昔は「生ける神のみ手にかかることは恐ろしいことである」と言われていた。今日では、人の手にかかることがどんなに恐ろしいことかを多くの人々が日常体験しなければならない」。学校でのいじめの問題、教師による生徒のいじめ、生徒や生徒の保護者による教師いじめ、生徒同士のいじめも、ある意味で真理の証言を「暴露」として考える考え方の歪みであり、自分がいじめられる側になりたくないという自己保身と自己弁護があるのです。

 

3.偽証のかたち 嘘について

それでは、私たちの目をもっと身近な日常生活に向けてみましょう。子育てにおいて、子どもはよく嘘をつくことを経験します。親としては、なんとかして嘘をつく人間になって欲しくないと思い、戦います。子は「パパは僕のことを疑った」と言ってポロポロ涙を流して嘘をつくのです。しかし、ふと立ち止まり、嘘をつかざるを得ないように追い込んでいるのは、実は、他ならぬ親の方ではないのか、本来、子どもの弁護人であるべき親が告発者として振る舞っていることに気がつかされます。嘘は確かに、自己保身あるいは自己防衛のためなのです。私自身のことを白状すれば、自己弁護は私の中にもあるのです。 学生の頃、阿佐ヶ谷で焼き肉・朝鮮料理屋でアルバイトをしていた時、誤ってコップを割ってしまったことがありました。二年間で一つですから上出来で、食器を割らない、注意深さが私の自慢でした。私はその時つい、「済みません、コップが割れてしまいました」と言ってしまったのでした。コップがあたかも自然現象のように割れてしまったのではないのですから、「コップを割ってしまいました」と言うべきでしょう。微妙は言い逃れです。

 

4.傍らにいますキリスト・イエス

  兄弟姉妹たちは少し長い引用ですが、ローマ8:31~35aを読んでみましょう。そこには、「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜わらないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるのでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができるでしょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのためにとりなして下さるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」とあります。

 イエス・キリストは私たちの罪の告発者としてではなく、私達の傍らにいて私たちをとりなして下さるのです。イエス様がその兄弟のため、姉妹のためにも命を捨てられたのであれば、私たちは真理の名の下にどうして兄弟の告発者となることができるでしょうか。もしイエス様が私のために命を捨てて下さったのであれば、私たちはどうして自己防衛、自己保身の不自由に閉じこもる必要があるのでしょうか?もし、神がわたしたちの味方であるとすれば、もし、神がご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたとすれば、どうして私たちは、自分を大きく、偉く見せるような努力をする必要があるでしょうか。モーセの十戒の言葉で言えば、「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」からには、どうして隣人のことを偽証して、自らの身を守り、また、自らの大きさを誇示するような必要があるでしょうか。どうして神から愛されている隣人を陥れることができるでしょうか。キリストは私達、皆さんの傍らにおられます。

 

5.歴史的事実に向き合う勇気

  随分前になりますが、沖縄における集団自決に日本軍が関与していたかを巡って裁判がありました。小説家大江健三郎の『沖縄ノート』に書かれていることが本当かどうか、偽証による名誉棄損あたるかどうかの最高裁の判決がありました。軍人が民間人に自決用の「手榴弾」を渡したという証言はこれまでたくさんありました。当然無罪判決でした(2011年)。このような歴史認識の問題を裁判で判定すること自体が可笑しなことでありますが、大江健三郎を告発した人がやはりいるわけです。日本軍の名誉のためか、あるいは戦争の犠牲者でもあった、愛する肉親たちや遺族の名誉を守るためでしょうか。起こった事の真偽を確かめることは難しいのですが、いまだに過去に犯してしまった罪を認められず、自己弁護が必要であると考えているならば、悲しいことです。沖縄をどこか売り渡してしまった私たち、本土の人間である私が偉そうなことは言えませんが、日本バプテスト連盟「平和宣言」の告白を心に刻みつけておきたいものです。「私たちは偽証をしない。主イエスの赦しを受けた私たちは、もはや保身のための偽証を必要としない。教会は罪をありのままに告白することによって隣人との和解を願う」。

 

 6.終わりに:神の信実の前での虚言者として

最後に神学者カール・バルトの言葉を引用します。『教会教義学 神の言葉II/4///』の最後の文章です。「しかしわれわれは次のこと - われわれが教会の宣教と教義学の中で真理について思惟し真理を語る時、また真理を思惟し語る限り、人間を僕として用いつつ、ご自身の考えを思惟し、ご自身の言葉を語るものは神ご自身であり、ただ神ご自身だけであるということ - を一瞬たりとも忘れることはできないであろう。この意味で自分の分に安んずることなしに、われわれは真理について思惟し、真理を語ることはないであろう。そしてこの意味で分に安んずることは、次の認識 - われわれ自身が神の光の中で闇として明らかになり、神の裁きの中で虚言者として見抜かれているという認識、われわれは真理を常にわれわれ自身に逆らって考え、語るであろうという認識 - をそれ自身の中に含んでいるのである」。神学者の言葉であり、ドイツ語からの翻訳でややこしい文章ですが、考えさせる文章です。私たちが真理について考え、語るとき、実は神様ご自身がご自身の言葉を語っておられる。そしてそのことは、私たちがどんなに頑張っても、嘘つきにすぎないこと、わたしたちはいつも真理に逆らって自分自身良いように考え、語る者だという認識を含んでいるというのです。「われわれ自身が神の光の中で闇として明らかになり、神の裁きの中で虚言者として見抜かれている!」なんと恐ろしい、しかし、真実な言葉でしょうか。わたしたちは、み子イエス・キリストを戴いておりながら、世の中で起こることが余りに絶望的であるように思えて、世の中はまるで真っ暗闇であるかのように偽証し、その悲観的な影響力で隣人の希望を奪っていないでしょうか? わたしたちは、エジプトの奴隷状態から解放されているにもかかわらず、世の中は所詮こんなものだといってどこか開き直って生きて、隣人たちの悔い改めるチャンスを奪っていないでしょうか? 「あなたは、隣人について、偽証してはならない」。私たちの生き方、私たちの証が他者にも影響を与えるということを覚えて、いやそれ以前に真の証言者イエス・キリストがおられること、その愛といのちの勝利を証言するものでありたいと願います。(松見俊)