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2023.8.20 「キリストに変えられて、キリストを宣べ伝える」(全文)  ルカによる福音書8:1-3

1:  出会い

 私たちは、人生の歩みの中で、様々な人と出会っていきます。皆さんは、その後の人生を変えることになったような、出会いをしたことがあるでしょうか。「家族」、「友人」、「先生」、「同僚や先輩」、「恋愛相手」など、これまでも様々な人との出会いがあったでしょう。私にも、牧師になるにあたって、友人や、先輩の神学生、教会員の皆さん、牧師先生などとの出会いがありました。

 私の出身教会では、朝と夕方と二回の礼拝を行っていました。夕方の礼拝では、若者が中心となり、ギターやドラムなどを使っての賛美に、司会、証しなども奉仕させていただいていました。今思えば、賛美などは、歌詞の内容をよく考えるというよりも、若者のノリ、曲調を楽しんでいた部分が大きかったと思います。ただ、そのような礼拝をしている中で、それこそ、友人が発した、なんとない一言・・・「賛美で、何回も歌っているけど・・・イエス・キリストの十字架・・・人が死んだこと、しかも2000年も前に死んだことが、どうして今の自分たちの罪の救いになるのか・・・誰かの死を喜び、自分の救いとすることって・・・実は、危険なことではないか」という言葉・・・イエス・キリストの十字架による救い。キリスト教としての基本中の基本と言ってもいいかもしれませんが、私は、その質問に明確に答えることができず、そこから聖書を勉強しようと思ったことをよく覚えています。

 

 現在は、インターネット、SNSというものが異常なほどに発達し、家の中からでも、様々な人、様々な言葉に出会うことができるようになりました。昔でも、ラジオ、テレビがありましたが、情報量が、そのようなものとは比べものにならないでしょう。インターネットでも、生きる勇気を与えられたり、励まされる言葉や情報に出会うこともあるでしょう。学校では人間関係をうまく作ることができず、引きこもりとなった人が、SNS上での出会いによって、励まされて、もう一度生きる勇気、外に出ていく力を持つことが出来るようになったといった話も聞いたことがあります。

ただ、そこでは誰が言っているのかはわかりにくく、何を言っても責任を取らなくてもいいという思いから、嘘や人を傷つける言葉、犯罪を促す情報も溢れています。現在ではこのようなものを、ほとんどの人が利用していると思いますが、利用するにあたっては、気をつけなければならないでしょう。 すべてではありませんが、誰が言っているかわからない・・・誰に出会っているのかがわかっていない。その言葉が、どのような表情で、どのような経験をしてきて、どのような思いをもって、言われているのかがわからないのです。

今は、出会わなくても、出会うことが出来る時代、または出会いたい言葉とだけ出会うこともできれば、出会いたくない言葉を突きつけられる時代とも言えます。

 

今日の聖書では、イエス・キリストに出会った人々が登場します。12人の弟子、そして悪霊、病気を癒していただいた女性たちです。今日は特に、このイエス・キリストに出会い、人生を変えられた女性たちから学んでいきたいと思います。

 

2:  神の国を宣べ伝える

 イエス様は、「すぐその後」神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせる旅に出ていかれました。 つまり、人々が神の国と出会うために歩みだされたということです。イエス様は、福音の言葉としてこのように語られました。マルコ1:14-15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。】(マルコ1:14-15)イエス様はもちろん、今も出ていかれています。イエス様は、私たち一人ひとりにところに来てくださり、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語っていてくださっているのです。わたしたちは、このイエス・キリストの語られる、福音の御言葉に耳を傾けているでしょうか。 

ボンヘッファーは『信仰の言葉を、それが本来聞かなければならない仕方で聞いている者が、どこにいるであろうか。』(ボンヘッファー『主のよき力に守られて』p.334)と嘆いたのです。「本来聞かなければならない仕方」というのが、どのような姿なのか、考えさせられますが、神様の愛の支配という神の国、その恵みを求め、耳を傾けている人がどれだけいるでしょうか。そしてその御言葉を受け取った者として生きている人が、どれだけいるのでしょうか。

 

今日の箇所の前、7章36節からの場面では、イエス・キリストに出会い、神様の愛に出会った人の姿が記されているのです。ここでは名前も記されず、ただ「罪深い女」とされる者でしたが、そのような者にイエス・キリストに出会って下さったのです。そして、最後にこのように言われました。【「あなたの罪は赦された」、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」】(ルカ7:48,50)女性は「罪深い者」として、自分の罪の深さから、生きる希望を失っていました。しかし、この女性は、イエス・キリストに出会い、神の国を受け入れることによって大きく変えられたのです。不安の中にあったのに、イエス・キリストを土台としての平安をいただいたのです。そして、その涙は悲しみの涙から、喜び、感謝の涙と変えられていったのです。

 

3:  病の癒し

今日の箇所では、イエス様に従う弟子12人に加えて何人かの女性が記されています。この女性たち、その他多くの女性たちは、イエス・キリストに出会って、変えられた人たちでした。名前を挙げられているのは、マグダラのマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、スサンナという3名です。この3名については、様々な逸話がありますが、今日は、この3名の一人一人が、どのような女性であったのかということには深くは触れないことにしておきます。2節には、【悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち】(ルカ8:2)とありますが、この時、イエス様に従っていた女性たちは、「悪霊を追い出してくださった者たち、また病気を癒していただいた者たち」でした。この時に「悪霊に憑かれた者」というのは、心と体の疾患を持つようになった者を意味することが多く、そのような意味では病気を癒していただいた者と悪霊から解放されたということは、共通する癒しを頂いていたということとなるのです。イエス様に出会い、心の病、身体の病を癒された多くの女性たちが、イエス様につき従い、奉仕をしていたのです。

 病気を癒されるということ。それは、実際に肉体的にも精神的にも癒されていくことでもあるでしょう。イエス様は事実としてそのように病を癒されたのです。ただ、では、この世において、今、生きる、私たちのすべての病気が、イエス・キリストを信じると、癒されるかというと、そうではないでしょうし、そのためにイエス・キリストを信じるのでもないのです。皆さんの中にも、何度も「神様、癒してください」と願いながらも、実際のところ、その病気が癒されなかったという体験をされた方もおられるのではないでしょうか。私自身がそうです。病気が癒されるということ。悪霊から解放されるということ。それは、実際に癒されるということも大事かもしれませんが、それと同時に、自分の病気と向き合い、受け入れていくことができるようになる。病を持つ自分を受け入れるということにも、確かな癒しがあると思うのです。

 病を持つ時。そしてその病が治らないとされるとき、人間は、自分は神様から見捨てられ、見放されたと思うのではないでしょうか。このような人間の姿を表した者を、聖書は旧約聖書のヨブ記で表します。ヨブは神様に許された悪魔によってすべてを失い、自分自身も皮膚の病に侵される者とされたのです。ヨブは最初は【「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」】(ヨブ記1:21)と、どのようなことがあろうとも、神様を賛美したのです。しかしまた、このヨブ記では、そのようなヨブが、それから友人との問答の中で、神様を恨み、「生まれなければよかった。神様はなぜ自分を造られたのか」と、神様を呪い、神様を憎む姿が表わされていくのです。これが、本当の苦しみ、痛み、困難に落とされていった人間の姿なのでしょう。 

 病や事故、死といった苦しみに出会うとき、人間は、神様に対する憎しみ、または怒りや呪いを持つ者となるのです。そしてそれはこの世、社会にも向けられ、人々を受け入れず、悲しみの中に陥れられるのです。まさに悪霊に憑かれた者です。

 

イエス・キリストは、そのような怒り、憎しみ、呪い、苦しみに囚われる者に出会い、解放してくださるのです。そのような悪霊に憑かれ、神を呪い、憎む者の心のうちに来てくださり、その思いを変えてくださる。そのために、イエス・キリストがこの世に来られたのです。イエス・キリストの癒しの業。それは、自らの命を献げるという、十字架による業でした。イエス・キリストは、自らが神様から見捨てられ、苦しみ、神様を呪い、神様を憎む者となられたのです。神の御子でありながら、私たちの苦しみを共に生きる方となってくださった。このキリストに出会うことによって、人間は癒しを得るのです。

イエス様は、神を憎む者の隣に来て、「わたしがあなたと共にいる」、どれほど苦しい中にあっても、「わたしがあなたの重荷を共に担おう」と言ってくださるのです。私たちが信じるのは、このキリストの業。そしてそれは、心から私たちを愛し、私たちが喜んで生きることを求める神様の御業なのです。このとき、イエス様に従っていた女性たちは、まさにこの命の御業、イエス・キリストが、命を懸けて自分たちを愛して癒して下さるという、福音、神の国、神の愛の支配に出会い、変えられた者たちなのです。

 

4:  神の国を受け入れ変えられた女性 

 この女性たちが担ったことは、イエス様が福音を伝えるための奉仕です。3節では【彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。】(ルカ8:3)とあります。この女性たちは、自分たちの持ち物を出し合い、経済的な支援をしたのです。この世における大きな誘惑の一つに、お金、富があります。聖書では神か富かどちらかにか仕えることはできないと教えます。【「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」】(マタイ6:24

 私たちは、「神」か「富」か、どちらに仕えているでしょうか。キリストに出会うことがなければ、人間は必ずといってよいと思いますが、富に仕える者とされていきます。それがこの世の誘惑の大きさです。そしてだからこそ、イエス様は私たちの所に来てくださって、出会い、その道を変えてくださるのです。「私たちの主人は神である」。ここに登場する女性たちは、この福音の恵みを受けて、キリストに従ったのです。そして自分たちのお金を福音のために献げたのでした。

 

 私としては、この女性たちの奉仕の業は、本来ならば不可能なことなのではないかと思うのです。 今でも、ジェンダーの問題はなくなりません。ただ、イエス様の時代は、もっとはっきりと「男」と「女」とで分けられ、男が財産を持ち、女性はその財産の一つと考えられていたほどでした。そのような社会にありながら、女性たちによる経済的な支えがあったということは、常識的に考えればありえないようなこと、不可能に近いことではないかと思うのです。しかし、この女性たちは、そのような不可能に近いことを行ったのです。そして、神様に仕えたのです。

 人間が、神を主人として生きること、奉仕をして生きるということは、それほどに不可能に近いこと、困難なことだと教えられるのです。しかし、イエス様に出会うとき、私たちは変えられる。イエス・キリストによる神様の愛は、私たちを変えてくださるのです。「富」「自分」を中心とした生き方から、「神」を中心とした生き方へと変えられるのです。今、この世界には「自分を中心とした生き方」が蔓延しています。そこに「人間が人間を支配するといった暴力」があり、「お互いの存在を認めない差別」があるのです。これが、人間の作り出す世界です。私たちは、この世界に絶望してしまうのではないでしょうか。しかし、ここにイエス・キリストはきてくださったのです。 私たちは、この神様の愛、イエス・キリストに出会っていきたいと思います。神様の「私があなたを愛している」「あなたを必要としている」という言葉に出会い、変えられていきましょう。イエスを自らの主としていきましょう。

神の奇跡。それは、イエス・キリストの復活です。神様は、私たちが神様に仕えるという不可能とされることを、復活のイエス・キリストに出会うことによって、新しい命の創造として成し遂げてくださるのです。

 

5:  共にキリストに仕える

 私たちは、まず、このイエス・キリストの福音に出会いましょう。神様の愛に触れましょう。この世においてどれほどの苦しみの中にあろうとも、生きることに希望と喜びがある者と、変えられていきたいと思うのです。神様は、私たちを愛してくださいます。「わたしがあなたを愛している」「あなたの命は、わたしが造った。」「あなたの存在は、私があなたを愛しているというところに意味がある」「希望をもって生きていきなさい」と神様は私たちに語ってくださるのです。そして、この神の愛に変えられた者として、神様の愛を伝える者とされていきたいと思うのです。

 今日の箇所で、女性たちは、持ち物を出し合って奉仕をしました。女性たちは一人ではなく、神様によって繋げられた者として、共に奉仕の業を行ったのです。私たちも、神様を主とする者として繋げられ、共に、歩み出したいと思うのです。神様は、争い、分裂する者を、共に生きる者と変えて下さるのです。私たちが、神様に仕えるのは、一人で行うのではないのです。共に、力を合わせ、神様に仕え、神様の愛の業を成していきましょう。そして、そこにイエス・キリストを現わしていきたいと思います。(笠井元)