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2023.7.23 「あなたも赦されている」(全文)  ルカによる福音書7:36-50

「あなたも赦されている」

2023.7.23 ルカによる福音書7:36-50

 

1: 罪深い女性

今日の箇所では、イエス様と共に、シモンと呼ばれるファリサイ派の人、そして、罪深い女と呼ばれる女性が登場します。ここで、ファリサイ派の人はイエス様から「シモン」と呼ばれます。しかし、この箇所に登場する女性は、ここでは「罪深い女」とだけしか記されていないのです。もちろん女性にも、ちゃんとした名前があったでしょう。このことは、この女性のこの町での立場を表しているでしょう。この女性は、その罪のゆえに、町の人々からは名前すら読んでもらえない存在とされていた。この女性が何をしようとも、何を考えようとも、彼女は、この町では、ただ「罪深い女」としてしか見てもらえない状態だったのです。そして、このことを一番強く思っていたのは、町の人ではなく、「罪深い女」自身であったのではないでしょうか。自分が生きてきた、これまでの人生を振り返る時、確かに自分は罪深いことばかりしてきた。自分は「罪深い女」だ。この町で、だれからも話しかけられなくて当然だ。誰かと一緒に、支え合って生きていくことなどありえない。本当は、心の底には、どうにかしたい。しかしこれまで生きてきた過去は変えられない。どうにか喜んで生きていきたい。しかし、自分は罪深い者であり、もうどうすることもできないと思っていたのではないでしょうか。

 私たちも、このように思うことがあるのではないでしょうか。私たちに過去を変えることはできません。一度してしまった行為も、そして発してしまった言葉も変えることはできないのです。私たちも、それが大きなことであろうとも、小さなことであろうとも、何かしら、「あのときあんなことをしなければよかった」とか「なんであんなことを言ってしまったのだろう」と思っていることが、あるのではないでしょうか。

 この女性にも、そのような思いがあったのでしょう。自分がこれまでしてきたことを考えると、自分は「罪深い女」だとしか思えない。だからもはや誰とも一緒に生きていくことはできない。誰にも受け入れられない。同時に、自分も自分を受け入れられない。そのような状態にあったのです。

 

2:  キリストとの出会い

この「罪深い女」とされる女性は、そのような思いの中にあった時に、はイエス様がこの町に来られるということを耳にしたのです。イエス様といえば、神様の御言葉を語り、病気の人を癒される方だ。そしてなによりも、罪人、徴税人とも食事をなされる方だと聞いていたのでしょう。この女性は、「イエス様が来られる。イエス様と言えば、目の見えない人が見えるようになり、耳の聞こえない人は聞こえるようにしてくださる。そして、死者を生き返らせ、貧しい人に福音を告げ知らされる方である。・・・もしかしたら、罪人として生きる、自分に、もう一度、生きる力を与えてくださるのではないか」と期待したのではないでしょうか。しかし、この時、イエス様は、シモンというファリサイ派の人の家に入って行かれたのです。時に、罪人とされる人や、徴税人の家に行かれるイエス様ですが、よりによってこの時には、罪人を嫌うファリサイ派の人の家に行かれたのです。当時の常識として、男性が食事をしているところに女性が立ち入るということは許されていなかったのです。まして、ファリサイ派のシモンが39節で、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った、とあるように、この女性は、この町では誰にも受け入れられていない「罪深い女」とされる者です。そのような者がこの中に入ることが許されるわけがないのです。しかし、ここで、この女性は、そのような中で、一歩踏み出しました。「ここで出ていかなければ、自分の人生は変わることはない。この暗闇の人生を自分ではもうどうすることもできない、自分では抜け出すことができないんだ。」そのように思い、この女性は、一歩踏み出したのでした。この女性はイエス様に出会うために、歩き出したのでした。

 イエス様は、この女性を拒否することなく、ただただ受け入れてくださいました。この罪深い女とされる女性は、イエス様の足を涙でぬらし、自分の髪でぬぐい、イエス様の足に接吻し、香油を塗ったのです。イエス様はこの女性のすべてを受け入れてくださいました。女性は、自分の行為を、そして自分の存在のすべてを受け入れてくださったイエス様に感激したのでしょう。この涙は、最初は罪に対する悔い改めの涙であったかもしれません。ただその涙は、自分を受け入れてくださるイエス様によって感激、感謝の涙と変えられていったのです。それこそ、自分のことを受け入れられなくて、悲しく、苦しかった思いが、イエス様に受け入れられることによって、喜びの涙へと変えられていったのです。

 

 現在は、「自己肯定感」という言葉がよく使われます。幼稚園の多くの研修では、何をするにしても、この自己肯定感をどれだけ持つことができるようにするかが、とても大切だと言われます。 この女性は、これまで自分のしてきたことによって、全く自己肯定感を持つことが出来ていなかったと言ってもいいでしょう。私たちは、どのようにしたら、自己肯定感を持つこと、自分の存在を認めることができるようになるのでしょうか。私は昨年度から私立幼稚園連盟の研究委員をしています。そのため多くの研修の司会などをするために、これまで以上に研修に参加しています。幼稚園の研修でよく言われることは、端的に言いますと「怒らないように」ということです。「子どもには怒らないでほめるようにしましょう」、「命の危険がない限り、悪いことをした場合は、見なかったことにして、良いことをしたときだけを見て、ほめるようにしましょう」と言われます。これは少し極端な言葉となりますが、実際に、自己肯定感を持つためには、何かができるようになること。誰かに認めてもらうことによって持つことができるようになるとされます。

 ただ、少し人間の成長に合わせてみてみると、人間は生まれたときから、自己肯定感がまったくないという人はあまりいないと思うのです。大抵の場面では「良く生まれて来てくれた」という思いに包まれているのだと思います。そのような意味では自己肯定感は、生きる中で失っていくのです。特にそれは競争が始まる小学生から明確にされていきます。「なんでこんなこともできないのか」「どうしてこんな子なのか」「自分は他の子と比べるとできが悪いのか」と、しかもそれが数字や評価として表されるのです。誰かだけを大切にし、誰かを振り落としていくことは、間違っていることです。それぞれの命に「善い」「悪い」「必要だ」「必要ない」と評価をつけ、分けていくことは、間違っていることなのです。ただ、そのように、自分の生きていることを否定されるときが、誰にでもやってくるのです。そしてそのような時に、私たちは「自分はなんで生きているのだろうか」と考えさせられるのです。私たちの人生には、そのように、生きる意味を考えさせられる時がやってくるのです。その時に、これまで、私たち人間が造り出してきた土台は、時に失われ、時に消えてしまうことがあります。そして、このときの、罪深い女性とは、まさにそのような状態にあったと言えるでしょう。自分の生きる意味、その土台が崩れていまい、生きる希望も、生きる意味も見失っていたのです。 

しかし、この罪深い女性は、イエス様に受け入れられたということによって、その「生きている意味」をもう一度与えられたのです。それは、自分がこれまでしてきたすべてを受け入れてくださる方がいるということです。私たちは、このことを覚えたいと思うのです。自分がこれまで何をしてきたとしても、今、すべての人にその存在を否定されたとしても、それでもイエス・キリスト、救い主は、私たちの存在を愛して受け入れてくださるのです。イエス・キリストが自分の人生の土台となったとき、それは失われることのない、希望となります。これこそ決して失われることのない、「自己肯定」となるのです。

 

 

3   ファリサイ派シモン

 この女性の行為を見て、一緒に感激するのではなく、ここから、イエス様とはどういう人なのかを試して見ていた人がいました。ファリサイ派のシモンです。シモンもイエス様の噂を聞いていたのでしょう。「イエスという素晴らしいお話をされる人がいるらしい。いったいどんな人なのだろう。一度、家に呼んで聞いてみようか・・・」と思ったのでしょうか。シモンは、イエス様を自分の家に招いたのです。そして「さて、この人は、いったいどんな教えをするのだろうか」と、期待をしながら待っていた。その時に、突然、この町でとても評判の悪い、罪深い女がその中に入ってきたのです。ファリサイ派とは、「分離する人」たちでした。神様から与えられた律法を守り、自分たちは正しい者とし、そうでない者を罪人とし、そのような不信仰な人たちと自分は関係を持つ必要はないと思っていた人たちなのです。シモンも「自分は、自分は律法を守る正しい人間だ」と思っていたのです。そして、このような不信仰な罪深い女とは、関わる必要もなければ、関わらないことで清さを保つことができると考えていたのです。シモンは、この罪深い女性が家に入ってきたときに、最初は「お前は、いったいここへ何しに来たんだ。ここはお前のような者が来るところではない」と言いそうになったかもしれません。ただ、ここでシモンはむしろ、イエス様を試すように・・・イエスが本物の預言者なら、この女が、罪深い女だということが分かるはずだ。イエスがこの人を追い出すだろう。」と思ったのでしょう。シモンは、何も言わず、イエス様が何と言うかを待っていたのです。

 すると、イエス様が「シモン、あなたに言いたいことがある」。(40)と言われました。この言葉に、シモンは、「さすがは評判の高いイエスだ。この女が罪深い者で、ここに来るはずではないと気付いたのだろう」と、期待しながら「先生、おっしゃってください」(40)と尋ね返したのです。しかし、イエス様から帰ってきた言葉は予想とは全然違う言葉だったのです。イエス様は言われました。【イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」】(7:41-42)シモンは、内心、「一体なんでこんことを聞くのだろう」と思ったかもしれません。そのような中で、【7:43 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。】(7:43)です。イエス様はこの答えに「そのとおりだ」と答えられました。

 

4:  すべての者が受け入れられている

そして、イエス様は、今度は、罪深い女性とされる、女性に目を向けて、続けてこのように言われました。【そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」】(7:44-47

ここでは、借金、罪が大きければ大きいほど、それを帳消しにし、赦されたときに、許された者の愛の大きさも大きくなることを教えています。イエス様は言われました。【だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。】(7:47

 私たちが神様を愛するという思いは、まず神様が私たちを愛してくださっている愛がどれほど大きなものであるのか、どれだけ自分が赦されているのか、そのことを知ることによって生まれるのです。

 

 ファリサイ派のシモンは、「自分は正しい」と考え、そして、この「罪深い女性」のような人間とは関わるべきではないと考えていたのです。自分は罪人ではない。だからこそ、自分には罪の赦しも必要ない。赦してくださる神様を愛する必要もなければ、ここでいえば、借金もないのだから、その金貸しを愛する必要もない。そして、だからこそ、借金をしている人を蔑(さげす)み、偏見を持ち、差別し、受け入れない者となっていくのです。私たちは、自分をどのように見ているでしょうか。自分は弱い者だと思っているでしょうか。自分には、神様の救いが必要だと思っているでしょうか。それとも、自分でどうにかできると思っているのでしょうか。

 今日のこのイエス様の譬え話からは、いくつものことを学ぶことができます。その一つとして、誰もが借金をしているということを教えられるのです。ここでは50デナリオンか、500デナリオンとなっていますが、少ないか、大きいかはありますが、借金をしていない人はいないのです。だれもが、借金をしているのです。そして同時に、この金貸しは、そのどちらの借金も帳消しにしてくださったのです。つまり、この罪深い女性も、ファリサイ派のシモンも、どちらも罪を持っている。しかし、神様は、そのすべての者を受け入れ、赦されたとのです。神様は、どのような人間であっても、すべての人間を愛してくださっているのです。

 

5:   あなたの罪は赦された 安心して行きなさい

 私たちは、神様に愛され、赦され、受け入れられていることを、しっかりと覚えていきたいと思います。イエス様は女性に、このように言われました。「あなたの罪は赦された」(48)この言葉を私たちは、自分自身に向けられた言葉として受けとりましょう。私たちは赦されている。愛されている。神様の愛に包まれているのです。そしてこれこそ、私たちが決して失うことのない「自己肯定感」の土台なのです。

続けてイエス様はこのように言われました。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(7:50)イエス様は、「安心して行きなさい」と言われたのです。この町に、この罪深い女と言われる者が生きる場所はなかったのです。しかし、イエス様は「安心して行きなさい」と言われました。この女性には失うことのない「安心」を頂いたからです。この女性にとっての「安心できる場所」。それは、場所としての「どこか」ではなく、イエス・キリストに繋がっていることでした。キリストの変わることのない愛に繋がる時、どの場所にあっても、どのような場面に遭遇しても、どのような偏見と、差別の眼差しで見られようとも、イエス・キリストによって、与えられる平安がある、安心が与えられているのです。だからこそ、イエス様は「安心して行きなさい」と言われたのです。

 

 この女性が安心して歩む道。それは安心して、人を愛する道です。キリストの愛に繋がるこの女性が、生きる道とは、自分が安心できる場所を探すのではなく、むしろ、自分が、他者の安心できる場所となることでした。それがこの女性に与えられた恵み。生きる道です。私たちは、キリストの愛を受け、そのように「安心を与える道」を生きていきたいと思います。それは、言葉を変えると「自己を肯定する道から、他者が生きることを肯定する道に生きる道とされることです」。そしてキリストの愛を信じる信仰共同体である、教会は、そのような、愛を受けた者として、愛しあい、また生きる意味を見失った者を受け入れ、安心して来られる場所となるためにあるのです。私たちは、イエス様の言葉「安心して行きなさい」という言葉に応答して、安心する場所と作り出す者として、歩んでいきましょう。(笠井元)