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2023.5.28 「閉ざされ、開かれる神の導き」(全文)  使徒言行録16:6-10

今日は、ペンテコステ礼拝です。ペンテコステは聖霊降臨日、イエス・キリストの霊、聖霊が、この世界に降ったことを覚え、共に喜びお祝いする日です。ペンテコステのこの日、イエス様の弟子たちの上に、聖霊が降り、弟子たちは様々な国の言葉で福音、良い知らせを語り始めたのでした。十字架でイエス様が殺されていく中、逃げ出し、おびえて、家のなかに鍵をかけ閉じこもっていたイエス様の弟子たちです。そのような弟子たちが、聖霊を受け、福音を語る者と変えられたのです。それまで、おびえて何もできなかった弟子たちが、聖霊を受ける中、イエス・キリストの十字架、そして復活による神様の救いを力強く語りだしたのです。ペンテコステは聖霊がこの世界に降り、教会ができた教会の誕生の日でもあります。聖霊とは・・・というと「交わり」「導き」「とりなし」など様々な意味、働きを見ることができるのですが、今日はその中でも聖霊の「導き」ということに目を向けてみていきたいと思います。

 

1:  聖霊に禁じられた道

 今日の箇所は、パウロが2度目の伝道旅行の時に起こった出来事となります。パウロは御言葉を語るためアジア州に行こうとしました。しかし、その道を聖霊によって禁じられ、その道は閉ざされたのです。この後の第3回目の伝道旅行で、パウロは、このアジア州を通って、コロサイ、ラオデキア、エフェソなどに向かったのでした。そこから見ても、パウロは本来はこのアジア州へと行きたかったのだろうということはよくわかるのです。しかし、この第2回目の伝道旅行のとき、その道は、聖霊によって閉ざされたのです。それでも、ここでパウロは伝道旅行をやめてしまうのではなく、気を取り直して、ミシア地方から、今度はビティニア州に行こうとしました。しかし、今度は、イエスの霊が許して下さらなかったため、結局西のトロアスに到着したのでした。

 「聖霊に禁じられた」、「イエスの霊に許されなかった」ということですが、この時、パウロが病気になったなど様々なことが推測されますが、実際にこの時に何があったのかはわかりません。確実なのは、計画していた伝道の道が二度も何かによって閉ざされたということ、そして計画を変更して、別の道を歩いていったということです。当時の旅行は、車や電車などで、サッといけるものではなく、色々と計画を練っては、必要な経路を調べ、準備し、一日一日、一歩一歩、歩いていくものでした。その計画が、途中で閉ざされ、歩く道を変更しなければならないということは、簡単なことではなく、そこで旅行を中止にしなければならなかったかもしれない出来事でもあったのです。それほどに大きな問題が、このとき起こっていたのです。

 

2:  本当に道は閉ざされているのか

 このように進んでいこうと計画をしていた道が閉ざされてしまうということは、私たちも、これまでの人生において実際に何度も経験したことがあるのではないでしょうか。私たちの人生には、良いこともあれば、悪いこともあります。私たちは、自分で人生設計をし、自分なりに夢を見て、こんな風になりたいと思い、歩んでいきます。その人生のすべてがうまくということはなかなか難しいと思いますが、それでも何度も挫折をしながらも、山あり谷ありの道を歩きながらも、なんとかその道を歩いていくのです。しかし、それが単なる挫折ではすまないほどの、大きな困難・・・病気やけが、人間関係など、様々な理由がありますが、もはや少し道を変えることでは、どうにもならないような出来事が起こることで、人生設計をし直さなければならないということもあるのです。そのような時、私たちは、自分に与えられたその境遇を恨んだり、神様に「なんでこんなことをするのですか」「あなたの与えた道は間違っていませんか」と訴えることもあるでしょう。

 

ここで、パウロは、み言葉を語る道として、アジア州、ビティニア州に行くことが閉ざされました。しかし、これは、本当に、道が閉ざされたのでしょうか。聖書では、「禁じられた」「許されなかった」とあります。これは、ただその道が閉ざされたというだけではなく、むしろ新しい道があることを教えようとしていたと読み取ることができるのだと思うのです。

パウロの願いは閉ざされた。しかし、そこには、もっと奥深くに、神様の御心があったのではないか。パウロが「こっちに行きたい」という願いの道は閉ざされたのですが、神様の御言葉を語る道は、「そちらではない」と教えられているのではないか。この出来事は、神様の御心に目を向ける出来事、チャンスであったということができるのです。

私たちは、自分の人生の道が閉ざされた時、神様に見放されたと思うことがあります。しかし、今日の箇所が教えるのは、そのような時、私たちは神様に見放されたのではなく、むしろ、神様が、もっと必要な道を示されていると読み取ることができる。それこそ、困難に出会ったときこそ、その時こそ、神様の御心を求める機会だと教えているのです。

 

3:  神様の御心を求める

今日の箇所9節からこのようにあります。

16:9 その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。16:10 パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。】(使徒言行録16:9-10

 トロアスに到着したパウロは幻を見ます。9節ではトロアスに下った「その夜」とありますので、トロアスに到着したその日の夜と読み取ることができます。ただ、この言葉は、原語の意味としては「その夜」というよりは一言「夜」と言うのが、本来の意味とされます。そのような意味で考えるならば、パウロが幻を見たのは、トロアスに到着したその当日ではなく、何日か経った夜とも読み取ることが出来るのです。パウロはみ言葉を宣べ伝えに出かけようという目的をもって、計画を立てていました。パウロが、計画していたことは、自分の生きていきたいという道ではなく、神様に従おうとした道なのです。

パウロは、神様に従うために、どうしたらよいのか。何度も祈り、何度も悩み、決心して歩き出したはずです。この道こそ、神様の御心として受け取り、歩き出したのだと思うのです。しかし、その道が閉ざされた。そして違う道を歩くこととなった。しかも2度もです。パウロはもはや神様の御心がどこにあるのか、わからなくなり、悩んだのではないでしょうか。何度も祈り求め、神様の御心だと信じて歩き出したのに、その道が閉ざされた。自分がこれからどうすればよいのか、悩み、立ち尽くす日々を過ごしていたのではないかと思うのです。

 

私たちには、神様の御心がどこにあるのか、はっきりとわかることはなかなかありません。人生を振り返ってみて、あの時は、神様の御心だったのだろうと思うことはあります。ただ、実際は、悩み、苦しみ、自分の願いが、神様の御心となっているのか、いつも悩まされます。パウロも悩んでいたのでしょう。この神様の御心を求めるということ。苦難や困難に立ち尽くして、神様の導きを求めること。私としては、この悩みの時、すでに神様の導きの中に入れられていると思うのです。そのあと、どのように進んでいったかということももちろん大切かもしれませんが・・・この神様の御心を求めること。その神様に目を向けるという姿勢をもつこと、悩み、苦しみ、それでも神様に願い求めること。その中で、すでに、私たちは、神様の導きのうちに置かれているのではないかとも思うのです。

 

4:  開かれた道

 パウロは、その中で、幻を与えられたのです。パウロは、立ち尽くし、神様の御心を求める中で、一つの言葉を聞いたのです。それは、マケドニア人の言葉で「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」(9)という言葉でした。パウロに与えられた道。それは、マケドニアの人が「助けてください」と願う言葉でした。そして、パウロは、この言葉に神様の導きがあると確信に至ったのです。何度も何度も祈ったのでしょう。様々な御言葉に目を留め、色々な思いを与えられていたのかもしれません。しかし、それらが神様の御心だと、確信に至らなかったのです。

 

そのような中、マケドニアの人が「助けてください」と求める言葉を受けて、パウロは、そこに神様の御心があると確信したのでした。パウロは、このとき自分自身も「どうしてよいかわからない。神様、助けてください」と願っていたでしょう。パウロは、その中で与えられた「自分が助かる道」ではなく、「他者が求める助ける道」に神様の御心を見たのです。

 私たちは、ここに神様の導き、開かれた道を見ることが出来るでしょう。聖霊によって開かれた道。それは、自分の人生の問題が解決される道ではなく、自分が願う道でもなく、「他者を助ける道」でした。

私たちは、今、何を求めて生きているでしょうか。私たちが生きる道は、どこに向かっているでしょうか。私たちは、自分の命、自分の人生なんだから・・・自分の生きたいように生きていくのでしょうか。私たちの主イエス・キリストは、どこまでも、神様に従い生き、そして死なれたのです。聖書はこのように教えます。【2:5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。】(フィリピ2:5-8

 イエス・キリストは、神でありながらも、人間となられた。そして十字架の死に至るまで、へりくだり、仕える者となられたのです。

 2020年の4月、新型コロナウイルスが急速に拡がり、緊急事態宣言が出されたとき、教会としてどのように対応をするべきかということを話し合いました。その中で、松見先生は「隣にいる一番弱い人のためにどうしたらよいのかを考えていきましょう」と言ってくださいました。私の中では、この言葉がとても残り、そのような基準を持って考えていこうと思わされました。

 

 

聖書は、私たちが自分の生きていたい道を歩んではいけないと言っているのではないでしょう。ただ、その道が閉ざされた時、困難に出会い、どうしてよいかわからなくなった時、その時に・・・神様の御心を求めていきたい。苦しみの中、諦めるのでも、恨み、絶望するのでもなく、この時こそ、神様の備えられた時、神様の備えに気付く時であるということを覚えたいと思います。そしてそのような時にこそ、神様の御心を求め、神様に目を向けていきたいと思います。悩んだ時、どうしてよいかわからない時こそ、神様の示される道がどこにあるのかを考える時です。私たちは、悩む時、考え、どうしてよいかわからないときにこそ、神様の御心を求め、もう一度祈りましょう。そしてそこに、聖霊による開かれた道があることを信じて、求めていきたいと思います。神様は、私たちに聖霊を送り、必ず最良の道を備えてくださいます。そのことを信じて歩んでいきたいと思います。(笠井元)