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2023.5.14 「生かせ、生きよ、生きてよい:殺してはならない」(全文)  出エジプト記20:1-2、13

 モーセの十戒の第六戒は語ります。「あなたは殺してはならない!」「一方的な恵みによって解放されたあなたは殺すはずがない。」私たち東福岡教会は今朝、全く何もなかったかのような真空状態の中でこの「あなたは殺すはずがない」という戒めの言葉を聞くことはできません。誰もがロシアとウクライナの酷い戦争を知っており、破壊されたビルや市街地などの映像がテレビに登場します。その背後には負傷したり、殺されている多くの人の嘆きや悲しみがあるでしょう。

また、私が住んでいる百道浜のマンションから徒歩で5分、毎週二回買い物に行っているマークイズという買い物センターで中学生が女性を刺し殺した事件がありました。現在はそのような事件はほとんど瞬時に社会的ネットワーク体系ややテレビニュースで流されますので、それらの事件に影響される人たちも現れます。先週は東京の大田区で中学1年生が61歳の男性によって刺されました。中学生による小学生殺害事件、親の子殺し、子の親殺しなど枚挙の暇もありません。「殺す」というような追い詰められかたをしないかも知れませんが、皆さんも、それに近い、イジメ・ハラスメントをしたり、されたりする経験されているのではないかと思います。「あなたは殺してはならない」。この戒めはまさに現代社会に生きる私たち一人一人が聞かねばならない、いや、聞くことを許されている言葉なのではないでしょうか?

 

1.「あなた」とはどなたか?!

「あなたは殺してはならない」。この戒めは、聖書が証しする神への信仰を持たない人でも同意できる戒めでしょう。これは、仏教の基本的戒律でもあるし、人間にとっての基本道徳でもあります。新共同訳は「殺してはならない」と翻訳していますが、口語訳ではきちんと「あなたは殺してはならない」と翻訳しています。この「あなたは」とはどのような「あなた」なのでしょうか、どのような「わたし」なのでしょうか。この「あなた」、この「わたし」とは神からこよなく愛されている「あなた」であり、「わたし」なのです。モーセの十戒をその前文、「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」という主なる神による奴隷解放宣言から聴くべきであることを繰り返し訴えてきました。「あなたは殺してはならない」と言われている「あなた」とは、エジプトの苦しい奴隷状態からイスラエルを解放した神を知っている「あなた」であり、み子イエス・キリストの犠牲において一人ひとりをこよなく愛する神の愛を知っている「わたし」です。より正確には、知っているというより、「知らされている」「あなた」であり、「わたし」なのです。この神の愛の深さを知って初めて、神から愛されている私のいのちもそして隣人たちのいのちも「殺してはならない」という戒めの重さを理解できるのです。「殺してはいけない」と分かってはいても、八方塞がりの苦しみや悲しみ、そして孤独に支配されて、闇の力に囚われてしまうのが私たちなのです。

ですから、苦しい奴隷の地エジプトからイスラエルを解放し、み子イエス・キリストのいのちの犠牲において私たち一人ひとりを愛する神の愛が、「あなた」を照らし、神様の救いの働きの豊かさを太陽の光のように浴びて、時には大雨で困りますが、聖霊がシャワーのように降り注ぎ、私たちの日々の生活に光と温もり与えてくれるようにしなくてはなりません。そして、その救いの尊さとそれを信じる感謝と喜びの中で、「あなたは殺してはならない」、「あなたは殺すはずがない」という言葉が響いてくるように聞かねばならないし、聞くことが許されているのです。

 

2.「生かせ、生きよ、生きてよい」

そうであれば、「あなたは殺してはならない」という戒めは、もっと積極的に「あなたは人を生かせ、あなたは勇気を持って生きよ、生きてよい」という戒めなのではないでしょうか!むろん、「あなたは殺してはならない」の原語であるヘブライ語「ロー・ティレツァー」の「ラーツァー」という言葉は「正当な理由のない殺人行為」を意味しています。しかしいったい、人を殺す「正当な理由」などあるのでしょうか?今日の礼拝はアモス書5:4「まことに、主はイスラエルの家にこう言われる。わたしを求めよ、そして生きよ。」で始めました。5:6には「主を求めよ、そして生きよ」と繰り返されています。この言葉を私はかつて協力牧師をしていた東京の恵泉教会の書道家石川満寿子(ますこ)さんに書いてもらいました。彼女はいろいろな人に書を贈りましたが、私がおねだりしたアモスの「主を求めよ、そして生きよ」を「石川静寿書作集」に掲載して下さいました。「あなたは殺してはならない」を「あなたは、生かせ、生きよ、生きて良い」と解釈をしてもあながち間違いではないでしょう。この戒めを心に留めて話をもう少し進めてみましょう。

 

3.神の主権侵害としての殺人行為

 まず考えておかねばならないことは、殺人は神の主権の侵害であるということです。人を殺す人は、たとえ加害者が被害者でもあり、孤独の中で苦しみ悶えている人であったとしても、また、それが、意識的であれ、無意識であれ、殺すことは、自分自身を生と死を手中にした主人にしてしまうということです。例えば自死について考えてみましょう。ショーペンハウエルという哲学者が『自殺について』という本を書いています。彼の考えの基本は、人間は自由なんだ。しかし、死だけは人間の運命として、あちら側からやってくる。それゆえ、運命に任せるのではなく、自らの自由によって死を選び取れば、人間は最後まで自由で、自分の主であるのだ、というわけです。このショーペンハウエルの主張の背後には、自殺を禁じるために、英国で行われた自殺者に対する過酷な、理不尽とも考えられる扱いがあったことを知っておくべきでしょう。それでもなお、このショーペンハウエル考えの中には、人間は人間の生命の主ではないのだということ、自由とは勝手気まま、何でもできるということではなく、神のみ心に従う時にのみわたしたちは自由であるという聖書の視点が欠けているのではないでしょうか。ある意味で、私たちは自分の命の主人ではないということは何と軽やかなことでしょう。神様が私たちのいのちの主であり、私たちはそれを受けさえすれば良いのです。神の主権を侵害してはならないということは厳しい戒めではありますが、私たちはあくまでも「二番手」でよい、という考え方は、嬉しい、みなさんを軽やかにする福音であるのです。

 

 4.主なる神は解放者であり、救い主である

 考えておきたい第二のことは、神は解放者であり、救い主であるということです。最近は短絡的にみえる殺人もあるようですが、人を殺すということは、やはり、隣人に加える最後の行為でしょう。しかし、私たちにはいかなるときにも希望があり、救いがあるのです。人を殺す行為は隣人からも、そして自分自身からもその希望を奪い取ることです。再び自死の問題を考えるならば、先行きの経済的不安で絶望して自死したり、仕事に成功しなかった、あるいは正しく人に評価されなかったと悲観して自死したり、いじめ、ハラスメントで傷つき絶望することもあるでしょう。他者に対する絶望的な報復行為として自死をしたり、もはや逃げ場がないと感じられ、子どもを道ずれにするという殺人を含む自死などはなくてよいことなのです。なぜなら、私が自分自身と他者の解放者でも救い主でなくても良いからです。私たちのなすべき最後のことは、絶望することではなく、救い主のみ手の中に逃げ込むことであり、神様に重荷を委ね、希望を持つことなのです。ここでも「生かせ、生きよ、生きてよい」「あなたは殺してはならない」という愛の戒め、和解の戒めが響いているのです。

 

 5.赦される余地がある

聞き取りたい第三のことは、もし神が主であり、救い主であれば、過ちを犯してしまった、いかなる殺人者にも、赦され、生かされる余地が残されているということです。少し「死刑制度」について考えてみましょう。殺された人の家族・親族・友人たちの嘆きの深さや復讐心を分からないわけではありません。しかし、加害者に復讐することで本当に気が晴れるのでしょうか。また、死刑による脅しはそれほど効果がないことも知られています。イスラエルでさえ死刑を禁止しています。そして、冤罪の可能性です。先日は、ほぼ冤罪である死刑囚袴田巌さんの死刑執行停止・釈放の措置に高等検察庁が控訴をしないことになりました。私も二度控訴しないように検察庁に電子メールを入れました。近く無罪判決が出ると思いますが、死刑が執行されなくて本当に良かったです。

 

6.戦争:武力の威嚇の幻想

更に殺人行為を正当化し、奨励さえする戦争の愚かさについて触れておきましょう。日本政府は軍備増強・拡大の道を行こうとしています。武力に対しては武力で脅かし、武力を使わせないようにするという理屈です。その問題を取り上げれば、何時間もの議論が必要であり、また、それは説教の課題ではないでしょう。「剣をさやに納めなさい。剣を採る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52-53という主イエスの言葉だけを思い出しましょう。そして、簡単なキリスト者の生き方ついて触れるだけにします。今朝の礼拝の最初の讃美歌はイタリアのアシッジのフランチェスコの「太陽の賛歌」を歌いました。裕福な商人長男としてフランチェスコは若い頃、吟遊詩人と騎士に憧れ、遊び仲間の英雄となることを目指していました。まあ、「いい恰好しい」、チャラチャラ青年です。隣町ペルージャとの戦争に従軍して一年間獄中で捕虜として過ごしました。その経験からでしょうか、彼は悔い改めて「平和」と自然(被造世界)を愛する人となったのです。小鳥たちとお話ができたというフランチェスコについていつかまたお話する機会があるかもしれません。すると、人間たちが荒廃させてしまった「自然」世界との和解も大きな課題として視野に入ってきます。武力による威嚇と殺し合いと、太陽の恵みと自然世界を愛する生き方とどちらがリアルでしょうか? 彼の女性の弟子クララはフランチェスコに従い、すべてを棄てて、清貧、瞑想の道を選びました。「小さい兄弟たち」から発展したフランシスコ修道会は今でも生き続けています。聖フランチェスコの「平和の祈り」は笠井先生が二度くらいお話しくださいましたね。

 

7.和解への道

今朝のメッセージも終わりに近づきました。殺人行為は他人事ではなく、実は私、そして、皆さんの事柄でもあることに目を向けてみましょう。マタイ5:21~24のイエス様の教えです。「昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。」私たちが兄弟姉妹に対して怒るとき、姉妹に向かって「愚か者」(ラカ)、兄弟に向かって「ばか者」(モーレ)というとき、私たちは自らの正当性を主張し、自らを絶対化し、自らを神の座において姉妹、兄弟の希望を奪い取るのです。主イエスは私たちがそのような危うい立場に立たないように、救い出したいのです。他者を馬鹿にすることは、自分自身が賢く、人より高い所にいるように見えながら、そして自らの腹立ち・憤りにいかにも正当な理由があるように思えたとしても、実は自分を神に祀りあげるという危険な考え方であり、殺人行為に近づいていると警告されているのです。この危うさから主イエスは私たちを自由にしたいのです。

こうして、新約聖書は私たちが知らねばならない大切なことを教えています。つまり、「兄弟と和解すること」です。単に殺さないという消極的なことではなく、隣人を生かすこと、愛することにおいて、「殺すな」ということが考えられるのです。

 

「あなたがたは殺してはならない」という戒めは、すでに述べた具体的課題に加え、「生の質」をいう考え方から来る「尊厳死」そして「安楽死」の問題、妊娠中絶の問題、多数の餓死の問題など多くの課題を私たちに投げかけます。「あなたは殺してはならない」「殺すはずはない」という戒めはまさに私たちの生きる現代社会において、もっと真剣に聞かれ、語られねばならない福音であり、課題であると思います。もういちど、結論的に、「生かせ、生きよ、生きてよい」という呼びかけを思い起しながら説教を終わります。今日の聖書箇所から、戦争、力による戦いではなく、和解と平和の使者として生きよと皆さんに勧め、殊に自分自身に向かって勧告したいと思います。(松見俊)