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2023.2.5 「神様の解放に立ち帰る」(全文)  ルカによる福音書6:1ー11

皆さん、おはようございます。今日も、私たちは、聖書から神様の御言葉を受け取っていきたいと思います。今日はこのバプテスト東福岡教会附属の幼稚園であります、東福岡幼稚園の作品展となります。作品展では、子どもたちが一緒に力を合わせて作った作品に、個人個人がそれぞれにこれまで描いた絵や、作ってきた作品などが並べられています。是非、子どもたちが、その作品に向き合う姿、そして成長していく姿、また、その作品を作るために子どもたちを見守る保護者の皆様、指導する先生たちの姿などを想像しつつ・・・そしてまた、なによりもその背後で働いてくださっている、神様のお働きを覚えつつ、礼拝後に見学していただければと思います。

東福岡幼稚園は、このバプテスト東福岡教会の付属の幼稚園として、皆さんの祈りによって、支えられ、立っています。私たちは、私たちの愛する幼稚園として、子どもたち、保護者の皆様、教職員、そして先日選挙をしましたが、理事の方々を覚え、共に神様の愛を喜ぶ幼稚園となるように、祈っていきたいと思います。

 

1:  安息日の論争 

 さて、今日の聖書の箇所では、安息日をめぐる二つの話が出てきます。先週は、「断食」において、イエス様が律法学者たちとファリサイ派の人たちと論争する話からみ言葉を聞いていきました。そのように、福音書の中には、イエス様とファリサイ派の人たち、律法学者たちとの論争の場面が何度もあります。その中でも、今日の箇所のように、「安息日」に関する論争は何度となく出てきます。それほどに、ユダヤの人々にとって安息日は大切な事柄だったのです。それこそ、今日の最後11節に【6:11 ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。】(ルカ6:11)とあるように、ファリサイ派の人々、律法学者たちが、イエス様をどうにかしよう、つまり殺意を持ったのは、この安息日を守らなかったことが大きな原因となっているのです。

最初の話、弟子たちが麦の穂を摘んで食べるという行為は、誰かの育てた麦の穂を勝手に食べてしまうということですから、現在のルールではそれだけで法に引っかかる行為となるでしょう。しかし、当時のユダヤの社会では、その行為自体は律法に触れる行為とはなりませんでした。このことは、旧約聖書の申命記23:26の、人の畑に関する規定の中で、次のように記されています。【隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない】(申命記23:26)。ここでは、手で摘んで食べるのは良いけれども、鎌を使って取ってはいけないとなっているのです。ちなみに、その1節前、申命記23章25節には、ぶどう畑に関するこのような規定が記されています。【隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。】(申命記23:25)まるでぶどう園のぶどう狩りみたいに、「その園内ではいくら食べてもよいが、お持ち帰りはいけません」といった規定となっているのです。

これらのユダヤの規定は元々、貧しい人たちや飢えた人たちに救いの手を差し伸べるためにあったものでした。ユダヤの人々の守るべき規定・律法は、なにかと人々を縛り付けた「悪いもの」という感覚があるかもしれませんが、実際は、自分中心に生きることから、神様に目を向ける規定となっており、貧しい人たち、飢えた人たちと共に生きるということを、大切にする教えとなっているのです。ですから、イエス様の弟子たちが麦の穂を摘んだのが安息日ではなかったのなら、彼らは咎められなかったことでしょう。問題は、麦の穂を摘んだのが、安息日であったということでした。

 

安息日を守ることは、エジプトから救い出されたイスラエルの民に、神様の慈しみを覚え続けるために与えられた十戒の一つの定めとして出てきます。安息日は、「天地創造」と「出エジプトにおける救い」の二つを理由として、仕事を休み、神様を礼拝する日として、イスラエルの民に大切にされてきました。しかしまた、この安息日は、次第に神様を礼拝することよりも、仕事を休むためのもののみが大切なこととして扱われるようになっていきました。

安息日には39の禁止規定、してはならないことが設けられ、さらにそれぞれに39の細則がつけられ、全部で1500あまりの禁止条項が設けられていたとされます。その中に、作物を収穫すること、脱穀すること、ふるいにかけること、料理をすることなども禁止されていました。イエス様の弟子たちが、麦の穂を摘んだことによって収穫の禁止令を犯し、手でもむことによって脱穀の罪を犯し、殻を剥ぐことによってふるいかけの罪を犯したとされるのです。ファリサイ派の人たちや律法学者たちにとっては、これらの規定に違反することは、十戒の安息日の規定を破ることであり、それは律法を守らない大きな罪の行為とされたのです。イエス様の弟子たちは、そのような大きな罪に問われたのでした。

今日の箇所では、もう一つ、イエス様が安息日に右手の萎えた人を癒した話があります。安息日でも命に関わる緊急性があること、たとえば、出血が止まらないとか、高い熱が治まらないなどというときには、治療行為は認められていたようです。しかし、安息日が終わってからでも遅くはないと考えられていた治療行為は、安息日に行うことは禁止されていたのです。そのような意味で、もう長年に渡って病にかかっている人、ここ言えば「右手のなえた人」が、治療を受けるのに、わざわざ安息日に行う必要はないと考えられたのです。

 

2:  解放を喜ぶ日 

安息日とはいったい何なのでしょうか。それを探るために、安息日の規定をもう一度、見ておきたいと思います。十戒に示される安息日の規定は、出エジプト記の20章と申命記の5章に出てきます。大きく分けるならば、出エジプト記では「神様の天地創造による規定」とされ、申命記では「出エジプトの救いによる規定」とされています。

今日は、申命記の5章の方を見てみたいと思います。申命記5章12節から、安息日に関する規定が出てきます。そこにはこのように記されています。【安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである】(申命記5:12-15)ここで神様は、イスラエルの民に向かって、「あなたがたは、かつては奴隷だったが、神様によって解放され自由にされた。だから、そのことを思い起こすために、安息日を守りなさい」と語られているのです。

昔、奴隷だった人たちが、今は救われて、自由にされている。解放されている。その神様の解放の恵みを思い起こすために安息日を守りなさい。安息日は主なる神様によって、自由と解放を得た解放記念日なのです。ですから14節では、「だから、あなたがたはいかなる仕事もしてはならない。自由と解放を記念して、あらゆる仕事から解き放たれなさい。あなたがただけではなく、息子も、娘も、奴隷も、家畜も、外国から来て滞在している人たちも、みんな解放されなさい」。このように教えられているのです。安息日はみんなで神様の救い、奴隷からの解放を喜ぶ記念日なのです。安息日の礼拝は、あらゆる人々が、すべてのしがらみから解き放たれたことを喜ぶのです。奴隷も自由人も、身分の差など関係なく、すべての人が主の御前に進み出て、解放されたことを感謝し、喜び、祝う時なのです。これは仕事だけではなく、あらゆる思い煩い、悲しみ、苦しみ、痛みからも解き放たれて、身も心も魂も自由にされて行う礼拝の時であり、その礼拝を守るのが安息日なのです。

 

3:  原点に立ち帰る

イエス様は今日の聖書の箇所で、安息日を、この解放という原点に立ち帰って考えることを教えられているのです。イエス様はこのように問われているのでしょう。「安息日とは元々、何の日なのか・・・。安息日は、イスラエルの民が奴隷から解放されて自由になり解放されたことを、みんなで喜び記念する日なのではなかったのか。その日は奴隷も家畜も外国の寄留者もすべて、自由になる時なのではなかったか。人の畑に関する規定は、そもそも、貧しい人や飢えた人を助けるためのものであったのに・・・、それを奴隷から解放された記念日としての安息日に、貧しい人や飢えた人を助けるための規定が、安息日に違反になるということは、いったいどういうことなのか。」

そして、「本来、奴隷が解放されたことを記念し、すべての人が自由と解放を喜び祝うはずの安息日に、長年の病から解放されることを一緒に喜ぶことができないということは、いったいあなたがたは、何のために律法を守っているのか」とも問われているのです。ですから、右手が萎えていることによって、社会の片隅に追いやられていた人、神様を礼拝する会堂でも隅っこの方に追いやられていた人に向かって、イエス様は「立って、真ん中に出なさい」と言われたのです。当時、病気になることは、何かしらの「罪」のためともみなされていました。そのため、「病のゆえに罪人と見なされ、片隅に追いやられていた者が立って、会堂の真ん中に出ること。それこそ奴隷からの解放を記念する安息日に行われる出来事ではないか。」と、イエス様は教えられているのです。

イエス様は、律法学者やファリサイ派の人たちに向かって、こう言われます。【「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」】(ルカ6:9)イエス様は、「かつて、奴隷であったことから自由にされ解放させられたことを祝う安息日に、今、罪人とされている人が解放されていくことを行うことが、なぜ咎められるのか。安息日に、人が解放されないままで放って置かれているのは、善なのか、それとも悪なのか。病に捕らわれている人を救いだすことは、善を行うこと、命の救うこととなるのではないか」と、問われているのです。

 

4:  復活を覚える日

このようにして、安息日の本来の意味、「神様の恵みによって解放されたことを、みんなで喜び祝う礼拝を行う日だ」、ということを、身をもって示されたイエス様です。

しかし、その行いは律法学者の人々やファリサイ派の人たちの反感を、一層駆り立てたのでした。11節にありますように、この一連の出来事によって、彼らは怒り狂い、イエス様を何とかしようと企み始めるのです。そしてその怒りが、やがてイエス様を十字架刑へと送ることとなるのです。文字通り、イエス様は御自身の命を掛けて、貧しい人、飢えている人、病んでいる人、そういった罪人の命を救っていったのであります。このあと、このファリサイ派の人々、律法学者の人々の怒りから始まり、イエス・キリストは、十字架において、死へと向かわれました。イエス・キリストは、神の子でありながらも、人間としてこの世に来られ、死なれていった。しかも、その死は、すべての人々に、軽蔑され、罵られ、そして見捨てられて死んで行かれた出来事だったのです。神様は、このイエス・キリストの十字架を通して、すべての貧しい者、そしてすべての飢えている者、孤独で悲しむ者のところに来られたのです。

そして、そのイエス・キリストの死は、十字架で終わるのではありませんでした。イエス様は、十字架の死の三日後、よみがえられたのです。イエス・キリストは、復活された。神様はこのイエス・キリストの復活によって、すべての人間に自由と解放を与えられたのです。これが、解放という、私たちに与えられている、最大の救いの出来事なのです。イスラエルがエジプトの奴隷から解放されたように・・・私たちすべての人間が、このイエス・キリストの十字架と復活によって、罪の奴隷から解放されたのです。これが私たちに与えられている、喜びの出来事、解放の出来事なのです。

私たちキリスト教は、このキリストの復活を記念して、土曜日だった安息日から、主がよみがえられた、日曜日を主の日と定め、この日に礼拝をするようになったのです。かつてエジプトの奴隷であったイスラエルの民を解放し、自由を与えてくださったことを記念して行われていた礼拝は、新しい意味を持つようになりました。私たちはこの日、主エス・キリストによって罪から解放され、自由になったことを記念して感謝し、祝いの礼拝を行うのです。そしてその礼拝では、社会の片隅に追いやられている人たち、罪人と言われて肩身の狭い思いをしている人たち、貧しい人たち、飢えている人たちが「立って、真ん中に出なさい」といわれる礼拝なのです。私たちは、この本当の意味での礼拝、本当の意味での安息日を守っていきたいと思うのです。それはつまり、この世において悩みを抱えている人たち、悲しみの重荷を負っている人たち、苦しみに押しつぶされそうになっている人たち、また文字通りの貧しい生活をしている人たちや、飢えている人たち。そしてそれは、私たち自分自身が、そのように苦しみに耐えきれないような痛みの中にある中で、皆さんと共に主イエスにあって解放されたこと、自由にされたことを共に喜びたいと思うのです。

私たちの礼拝は、イエス・キリストの復活を記念して行われているのです。このイエス・キリストの復活を記念して行う私たちの礼拝、この意味をしっかりと私たちも受け取り、神様に感謝の礼拝を捧げていきましょう。そして、その慈しみによる解放の出来事、救いの出来事をもって、また新しい一週間を過ごしていきたいと思います。(笠井元)