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2022.12.25 「主イエスの豊かさにあずかる」(全文) Ⅱコリントの信徒への手紙8:8-9

 皆さん、クリスマスおめでとうございます。日本社会でもクリスマスには「贈り物」をする習慣があります。実は、イエス様のお誕生日のお祝いであるクリスマスと、贈り物をあげたり、貰ったりするサンタクロースの日は別のものです。ヨーロッパでは、126日にサンタ・ニコラウスの日があり、玄関のドアの前に靴を置いておくとよい子の靴に贈り物を入れてくれます。むろん、セント・ニコラウスさん自身も紀元3世紀~4世紀にイエス様を主と信じて、貧しい人々に贈り物をプレゼントした人で、現在でもそこら中にニコラウス教会が建てられています。欧米のクリスマスは、日本のお正月のように家族みんなが集まる日です。だからかえって「孤独」な人、一緒に過ごす人がいない人、デートをして一緒に食事をする人がいない人たちには、このシーズンは寂しくて、ストレスに満ちた日々ともなるかも知れません。それでも、神様から大切なイエス様をプレゼントされたことを喜ぶこと、誰かに「贈り物」をすることは心が少し豊かなものになりますよね。今年のクリスマス礼拝は、父なる神からイエス様という最高のプレゼントをいただいたことを喜び、「主イエス様の豊かさにあずかる」ということを思い巡らしてみましょう。選んだ聖書箇所はパウロがエルサレム教会のために「贈り物」をしようと教会に呼び掛けた箇所です。「贈り物」がテーマです。

 

1.信仰の出発点であり、大前提であること:主イエスの恵みを知っていること

 この個所の文脈はエルサレム教会に献金の贈り物をしようとの呼びかけです。エルサレム教会のための募金活動の出発点というか大前提は、「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。」と言うことです。すべてに先立って神は私たちに溢れる「恵み」を与えて下さった。それをキリスト者たちはすでに「知っている」とパウロは言います。募金はあくまで神の先立つ恵みへの喜びの応答なのです。この出発点というか大前提を心に刻んでおきましょう。

 エルサレム教会は、バルナバなどのように資産を売り払って教会に献金した人もいましたが、教会は、社会的により貧しい人々の集まりでした。それでも、身寄りのない孤児たちや寡(やもめ)たちに食事のクーポン券などを配ったりして互いに助け合っていたのでした。彼ら彼女らは原始共産制のような相互扶助の集団を形造っていたのです。しかし、お金を生み出す生産手段を持っていませんでしたので、早晩、行き詰ることが予想されていました。そこにユダヤ地方を襲った自然災害、飢饉があったようです。そこで、パウロは募金活動をしてエルサレム教会の物質的援助をしたいとギリシヤにある諸教会に呼び掛けました。それが、今朝読んでいる箇所の文脈です。

皆さんは主イエス・キリストの恵みを知っていますか?知っていますね。その恵みへの感謝の応答からすべてが始まります。キリストの到来によってもう私たちはすでに豊かになっているのです。ある意味でこの理解が不安定であると問題が起こります。「豊かになりましょう」「豊かになる努力をしましょう」ということになると「カルト」がつけこんでくるのではないでしょうか?「こんな悪いこと、不幸なことがあるでしょう。だから壺を買え、金を出せ」と言われるとつけこまれる弱さを私たちは持っているのではないでしょうか? 特に、しっかりした信仰の基盤のない日本人はまさにカルトにつけこまれてしまいます。みなさんは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っているはずです。いつもそこから出発していますね。

 

2.主の恵みの内容

その恵みの具体的内容は、「すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。」

ということであると言います。さらに、具体的には、神のみ子がイエスという名で、貧しい大工というか石工のヨセフとマリアの子としてこの世に生れてきたこと、この世にきちんと、しっかり根を伸ばして、触れて下さり、イエス様は30歳過ぎに、巡回伝道者として神の国の到来の間近さを宣教されました。そして、社会的に虐げられていた弱者や病気の者たちを癒されたのです。しかし、イエス様の余りの自由と平等の教えによってユダヤ人の指導層からは恨まれ、非暴力の道を歩まれたゆえに男の弟子たちにも裏切られ、棄てられ、十字架で殺されたのでした。そのすべての歩みを纏めて、「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。」と言っているのであると思います。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタイ8:20)という孤高の人イエス様の姿だけのことではないでしょう。

では、ここで言われる「豊かさ」と「貧しさ」とはどのようなものなのでしょうか。「貧しさ」とは、お金がない経済的なことでしょうか?ここでは簡単に「貧しさ」を精神の問題として「心の貧しさ」であると言ってはならないでしょう。お金がないことはやはり大変な苦しみであるからです。では、「豊かさ」とはなんでしょうか? お金が十分あることでしょうか? 昨今の政府筋は年収10億円以上の人により多くの税金をかける、しかも軍事力増強とセットにされたインチキ臭い議論においてですね。そう言っています。軍事力拡張に反対する人たちを誤魔化すためとは言え、年収10億円の人がいることはやはり驚きです。けれども、年収10億円の人がかならずしも豊かであり、幸せであるとは限らないと思います。貧しさとは自分のものは自分のもの、他人のものも自分のものと考える、分け与えることをしない「さもしさ」のことではないでしょうか。また、豊かさとは誰かと喜びと悲しみを分かち合うことではないでしょうか?この分かち合いの心から、その心の表現として、「主イエスは豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。」というのです。

 

3.神からの贈り物

 話しをもう一歩進めてみましょう。父なる神はみ子を遣わし、私たちに愛といのちを分かち合ってくださったのです。贈り物をする心をお持ちでした。また、み子イエス・キリストはこの世に来られてそのいのちと愛を分かち合って下さったのです。贈り物をする心をお持ちでした。この父なる神と子なるキリストの両者を聖霊が繋いで「喜び」の「いのち」の「愛」の出来事にして下さっているのです。私たちに贈り物を受け取る謙虚さと贈り物をする思いを聖霊が起こして下さるのです。

オー・ヘンリーという人の短編集の中に「賢者の贈物」と言う話があります。皆さんすでにご存じでしょう。明日はクリスマスだというのに、若い女性のデラさんには1ドル87セントしかありません。その内60セントは銅貨で、乾物屋や八百屋や肉屋で値切りに値切って、爪に火を灯すようにして貯めたものでした。夫のジムさんもまだ22歳になったばかりですので、あまりよい給料を貰っていたわけではありませんでした。しかし、この若い夫婦には自慢したいものが二つありました。その一つは、ジムが祖父から父へ、父から彼に譲られた金時計でした。もう一つはデラの美しい長い髪の毛でした。二人はクリスマスに何かプレゼントをしようと考えていました。デラは夫の自慢の金時計の鎖をプレゼントするために、自慢の神の毛を20ドルで売ってしまったのでした。他方、ジムもデラに何かプレゼントをしようと思いましたが、お金がありません。そこで、彼は自慢の金時計を売って、デラの美しい髪の毛を梳かす櫛を買ったのでした。プレゼントを交換する時がやってきました。ジムは神の毛を切ってしまった、デラを見つめるので、デラは「そんなに見つめないで」と叫びます。「髪の毛なんてすぐ伸びてくるよ。あなたにクリスマスプレゼントをあげないわけはいかないので、髪の毛を切って売っちゃった!でも私の短い髪の毛を見ても、私を嫌いにならないよね。あなたに対する私の愛情はだれも勘定なんかできないでしょ!」むろん、ジムもびっくり。ポケットの中から、箱を取り出してテーブルの上に置きます。なんとその中からは、ブロードウェイの飾り窓にあって、憧れていた、縁に宝石をちりばめた鼈甲の美しい櫛が出てきたのです。それからデラはおもむろに自分が買った時計の鎖を出したのでした。ジムはベッドにひっくり返り、微笑して、御免! 君に櫛を買うために、金がいるので、あの金時計を売っちゃったんだ!と叫んだのです。この物語はむちん、夫婦の考え方の「すれ違い」を強調しているわけではないでしょう。皮肉屋の私でもそうは考えません。

 神学的には「自己犠牲」はいけない、家族や自分を犠牲にしてはいけないという高名な学者たちがいます。しかし、ジムもデラも自分が失ったもの、犠牲にしたものを見てはいないのでしょう。髪の毛を切ったら寒くなるとか、金時計を失ったら祖父や父との繋がりが切れてしまうとは考えなかったでしょう。ただただ、喜んでくれる相手の笑顔をみていたのでしょう。何かを犠牲にする自分のことを考えたら、自分を犠牲にしないように見える人への不平不満が満ちてくるであろうし、自分の惨めさに敗けてしまうことでしょう。ですからある神学者が語るように、自己犠牲というより「自己投与(Self-giving)」という表現の方が良いかも知れません。このオー・ヘンリーの「賢者の贈物」という物語はキリストの愛に応えて、互いのことをまず考え、喜びと苦しみ、悲しみを分かち合うことの素晴らしさ、豊かさを示しているのではないでしょうか?デラは髪の毛を失い、ジムは金時計を失った訳ですが、失うことでもっと豊かなものを獲得しているのではないでしょうか。あまり、短編小説のことを話すと肝心なイエス様の物語が霞んでしまうので、このくらいにしておきましょう。神からのみ子イエス様のプレゼントで心を動かされた人々の数えきれない物語が2000年に渡って語られてきました。今年は、皆さんはこのクリスマスの時期、これらの素敵な物語にどのような物語を加えるでしょうか。

 

4.富めるものとなっているかどうか? 

 テキストの9節後半は、「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。」ということの目的、なんのためかが記されています。それは、「主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」とあります。皆さんは、主イエス様の貧しさによって豊かになっていますか? これは日本社会ではある意味深刻な問いでもあります。笠井先生が先週の説教で触れて下さったように、2022年の世相を表す漢字は「戦(いくさ)」だそうです。ロシア・ウクライナ戦争、中国、北朝鮮の横暴とそれらを睨んだ日本の軍備拡張の争い、コロナウイルスとの闘いも三年です。経済格差、富める者と貧しい者の戦いは熾烈です。諸物価の高騰もあります。かつて小泉首相が語った「勝ち組と負け組」の戦いです。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13名」を私は余り見ませんでしたが、戦いに次ぐ戦い、騙し合いと駆け引き?の内容であったようです。また、カルトと政治の関りの重大問題もサッカーワールドカップの話題でマスメディアから消し去られてしまう危険も感じています。先日九州バプテスト神学校で私の下で事務を担当して下さっている方が、クリスチャンではないお連れ合いから「あなた本当に喜んで奉仕しているの? ただ選ばれたから責任感だけでやっているだけではないの?」と言われてしまったと言っていました。教会での「奉仕」が恵みへの応答であり、「豊かになるためである」という出来事、主イエス様が貧しくなってくださった目的が実現されているかどうか考えさせられたそうです。日本社会の雰囲気はどうであれ、私たち教会は、「豊かに」されているでしょうか?自分と異質な他者を受け入れ、喜びと悲しみを分かち合うことができているでしょうか降誕節から始まる新しい年も、失った大切なものを悲しみつつ、しかし、「豊かにされた者」として生きましょう。(松見俊)