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2022.12.24 「わたしたちの居場所」(全文) ルカによる福音書2:1-7

1:  失われた居場所

 先ほど読んでいただきましたが、今日のルカによる福音書2章の箇所では、ヨセフとマリアが住民登録のため、ガリラヤのナザレから、ユダヤのベツレヘムに旅に出かけていました。この道のりは、大変険しいもの、厳しいものだったのです。まずその距離はおよそ120キロ程度とされ、またその道のりは山あり谷ありの道でありました。そのような厳しい道のりをマリアが妊娠している中で歩んだのでした。ヨセフとマリアはどのような思いでこの旅をしていたのでしょうか。この旅は、住民登録のためとありますが、ローマの皇帝アウグストゥスの勅令によるものでした。

この時は「ローマの平和」と呼ばれるように、ローマが多くの地域を軍事力で支配することによって、平和を得ていたとされるのです。そのような中で、行われた住民登録です。これは、ローマが支配したそれぞれの場所から、どれほどの税金を徴収することができるのか、または、再び戦争になったときに、どこからどれだけ徴兵することができるのかなどを知るための命令でした。ヨセフとマリアは、この住民登録のために、旅に出かけました。

 そして、6節、7節にあるように、マリアはベツレヘムで赤ちゃんを産みます。これがイエス・キリスト救い主です。この時、マリアとヨセフ、そしてこの赤ちゃんには泊まる場所がありませんでした。ここでは、「宿屋に泊まる場所がなかった」とありますので、このとき住民登録のため、多くの人々が移動をしていたから、たまたま多くの宿屋がいっぱいで、マリアとヨセフの泊まるところがなかったとも考えられます。ただ、妊娠した女性、しかも旅で疲れ、今にも出産しそうな方を迎え入れることが、どこの宿屋にもできなかったのかと考えると・・・、どちらかと言えば、ただたまたま宿屋がいっぱいであったというよりも、マリアもヨセフも、そして生まれてくる赤ちゃんも、このとき生きるべき居場所が与えられていなかったと、そのように読み取ることができるのです。先ほど言いましたが、当時ローマによる平和が訪れていた時代です。ローマの軍事力によって、そこに争いはないように抑えられていた。しかし、このローマの支配による平和には、一人の赤ちゃんの生まれてくる場所さえなかったのです。

 私たちは、人間が作り出しているこの社会に、それぞれが居場所を求めて生きています。皆さんには、生きる居場所はあるでしょうか。それはただ、空間、場所としてではなく、生きている存在の意義をしっかりと感じ、生きていることを喜んでいられるところが、皆さんにはあるでしょうか。 このとき、マリア、ヨセフ、そして生まれてくる赤ちゃんイエス様には、そのように生きる居場所がなかったのです。

 

2:  共に生きるという居場所

 救い主、イエス・キリストは、生まれたその時から、この世に居場所がありませんでした。そして、このことを通して、神様は、生きる居場所を失っている人間に、生きる場所、共に生きる関係を作ってくださったのです。

神様は、自らが、生きる居場所を失っている者となることで、すべての人間に、自分の存在を喜ぶことができない者に、「あなたは大切な存在です」「私はあなたを必要としている」とメッセージを送ってくださっているのです。皆さんは、どこに自分の居場所があると感じているでしょうか。

 以前、ホームレス支援のボランティアをしていた時の話ですが・・・そのボランティアでは、ホームレスの方の、それぞれの場所に向かい、食べ物をお渡ししていました。ただ、その中では、なかなか心を開いてくださらない方が多かったのです。話をしてくれない人、顔を合わせない人、それこそ食べ物自体「いらない」と言われる方もおられました。そのような中で、ある時、一人の方が自分の人生について、話してくれたことがありました。その人は、生まれたときから独りぼっちで、父親も母親も顔も見たこともないそうでして。物心がつく前から、施設で育ち、家族というのは、施設で育った友人のことでした。いつも一人。それが彼にとって当然のことだったそうです。そのような中で、なんとか仕事をしていたのですが、その働いていた仕事場が倒産し、突然、解雇とされてしまったそうでした。家賃を払うこともできなくなり、他に行くところもなく、今、ここでホームレスになっているとのことでした。そのような中で、また独りぼっちか・・・と思っていたところ、このボランティア活動の人が来るようになったということでした。そしてそのことから、独りぼっちではないということを感じることができるようになった。一緒に生きる人がいるということを感じるようになり、そこから生きている喜びを感じるようになったと、感謝の言葉をいただきました。

 それに対して、逆に、これはマザー・テレサの本で読んだ話ですが、多くの財産を持ちながらも、誰も自分とは腹をわって話してくれる人がいない、誰も自分を気にかけてくれない方のお話がありました。それこそ、家にいようとも、そのことを隣の家の人すら気にもしてくれない。自分がどこにいても誰も知らないということでした。このことから、マザー・テレサは「愛の反対は無関心」だと教えているのです。生きている居場所。それは、ただ住む建物があるということではないのでしょう。そこに一緒に生きる人がいること、自分が生きていることを認められていること、自分がいることを一緒に喜び、また共に悩んでくれる人がいること、そこに、本当の居場所があるのではないでしょうか。

 神の子イエス・キリストは、居場所を与えられない者として、この世に来られたのです。それは、ただ生きる場所がないということではありません。そうではなく、この世に生きることを認めてもらえない者として、そしてそれは、生きることを認めてもらえない者と共に生きるために、すべての人間に関わるために、そのような姿で、この世にきてくださったのでした。それこそ、絶望の中、暗闇の中にある人のところに、その隣に、イエス・キリスト救い主は来てくださったのです。

 

3:  愛を現わすために、イエス・キリストが来て下さった

 今日は、クリスマス・イブ、イエス・キリストの誕生を共に祝うときです。このイエス・キリストの誕生によって、神様は、わたしたちに「わたしはあなたを愛している」というメッセージを送って下さっているのです。ここに、決して揺るぐことのない、私たちの居場所、生きる意味、生きている喜びを与えてくださったのです。神様は、わたしたちに「わたしはあなたを愛しています」「あなたの存在は、わたしにとって大切なのです」と語り掛けてくださっているのです。

 先ほどは、皆さんはどこに居場所があると感じているかと聞きましたが、・・・この自分の居場所を考えるときに、自分は誰に愛されているかということを考えたいと思うのです。皆さんは誰に愛されているでしょうか。そしてまた、皆さんは、誰を愛しているでしょうか。家族や友人でしょうか。仕事の同僚や学校の先生、教会の方々中に、愛している人、愛してくれている人はいるでしょうか。 

わたしたちは、色々なところで、自分の存在意義を捜し、そして、色々なところに、自分が愛されていることを感じようとしています。そして、そこに自分の居場所を見つけ、自分の生きている喜びを感じようとしているのです。だからこそ、その関係が崩れてしまった時、その生きている居場所を失い、生きている意味を見失ってしまうのです。 

 先日、ニュースでやっていたのですが、現在の高校生、中学生が、ODといったことをしているということでした。OD、オーバードーズという言葉です。それは薬の過剰の服薬ということでした。今の高校生などは、わざわざ大量の市販薬を購入し、それを服薬することで、一時的にでも不安をなくすということでした。ニュースでは、実際にそのようなことをしている人が出てきて、なぜそのようなことをしているのかという質問に対して、「誰かに認めてもらいたい。心配してもらいたい。承認欲求かな・・・」と答えていました。 

 認めて欲しい。これが人間の心の中にある叫びでしょう。自分が生きていることを、認めて欲しい。自分が存在することを受け留めて欲しい。愛してほしい。これが私たち人間の願いなのではないでしょうか。そして、この欲求を満たすために、私たちは何かをするのです。あれができる、これができる、あれを持っている、これを持っているということで、なんとか自分には生きている意味がある。生きている存在が認められる。自分は必要とされている。誰かが愛してくださるということを感じようとしているのではないでしょうか。

 そのような私たちに神様は、「大丈夫、わたしはあなたを愛している」「あなたが何もしなくても、あなたは大切な存在です」「わたしは、必ずあなたを放さない」「あなたを見捨てることはない」と教えてくださっているのです。イエス・キリストは、このことを伝えるため、この神様の愛を私たちに示すため、自らが、その存在を認められない者として、この世界にきてくださったのです。神様は、神として、すべてを持っておられる者から、何も無い者、それこそ、その存在意義をもたないような者となられた。そして、そのことによって、私たちに、「あなたがどのような者でも、わたしはあなたを愛している」というメッセージを送って下さったのです。どれほど小さな者、弱い者、貧しい者であったとしても、何も持っていない私たちのところに、イエス・キリストは来てくださった。そして、そこに愛を示されたのです。

 

4:  愛されている者として

 今日はクリスマス、イエス・キリストが人間となり、この世に来られたことをお祝いする時です。 神様は、何にも変えることのできないプレゼントを私たちにくださったのです。わたしたちは、イエス・キリスト、神様の愛を頂きたいと思うのです。今、この世界には不安が拡がります。それこそ、人が人を傷つけ、殺し合う。そのようなことが起こる世の中です。それは、どこか遠くで起こっていることだけではありません。わたしたちも、隣にいる誰かとの関係が壊れてしまうことで、生きていることに苦しむことがあるのです。

皆さんご存じだと思いますが、日本には、「いのちの電話」という相談するための電話があります。以前、この、相談の仕事をされていた方がこのように教えて下さいました。「自死をしようとしている人のなかでは、本当に死にたい人はほとんどいないのです。ほとんどの人は死にたいのではなく、大きな問題を抱え、生きていることが辛くなっている。生きていることに疲れ果て、そこから逃げ出すことができず、絶望しているのです。その問題、絶望に、せめて少しでも希望を見いだせれば、死のうという思いを立ち止まってくれるのです。」と言われていました。

私たちも自分が生きていることを、喜びではなく、苦しみと思うことがあるかもしれません。そのような時に、「わたしはあなたを愛している」「あなたは私の愛する者だ」と、自らの命をもって表してくださっている方がおられるということを思い起こしたいと思うのです。神様は、私たちを愛し、そのために、命をかけて、この世界に生まれて下さったのです。わたしたちはだから生きる。だから喜びたいと思います。神様が、私たちを愛してくださっているという、事実は変わることはないのです。このイエス・キリストの誕生を、共に喜びましょう。そして、喜んで生きていきたいと思うのです。(笠井元)