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2022.12.11 「とこしえの安らぎを目指して」(全文) 出エジプト記20:1~2,8~11

アドヴェント(待降節)の第三週を迎え、アドヴェントクランツの3本目の蝋燭に火が灯りました。今年の夏は牧師家族に多少長い休暇を差し上げるということで、替わりに私がモーセの十戒に関して4回説教をし、その後十戒からのメッセージを中断したままでした。そこで、今朝は、待降節と関連づけて、十戒の第四番目の戒めを共に味わってみたいと思います。十戒の第四戒は、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と言います。「心に留める」とは、心に刻んで意識し、記憶することです。「聖別する」とは、神を礼拝するために、神の祝福に預かるために、この日を具体的に選んで、決断し、そのために時間と空間を確保しておくことです。私たちはこの戒めの持つ大きな喜び、自由への招きを本当に理解できているでしょうか。

 

1.安息日の言葉の由来

「安息日」(šabbāt シャバート)は「シャーバト」という動詞から由来すると言われています。「シャーバト」は「止める」、「休む」という意味です。私は西南学院大学神学部の教授時代に、半年間チェコのプラハで在外研究の時を持ちました。それを「サバティカル」と言います。これは単に休むというより、「充電期間」と言いますか、人に何かを教える立場でありますと、自分自身が飢え渇いてくるので、いつもとは違う研究をする訳です。また、今朝読んでいます11節にあるように、主なる神が天地万物の創造の働きを6日間でやめ、「7日目に」休まれたとありますように、「7」を意味する「シェビア」(šəbî‘)に関係しているという理解もあります。「シャーバト」も「シェビア」も似た響きですね。いずれにせよ、月の満ち欠けに由来する1週間、7日間のリズムで生活していたのです。7日間の内1日を休むという生活リズムです。

 

 2.ユダヤ人の「安息日」の決まり

それではユダヤ人の「安息日」の決まりについて話を進めてみましょう。1週間の最後の日である土曜日にあらゆる労働から解放され、休みを取り、神様を礼拝すること、これはユダヤ人にとって決定的な重大事でした。「安息日」を心に留め、聖別することは、国土を失い、全世界に流浪の民としてバラバラに散らされたユダヤ人にとって、ユダヤ人としての自覚を与え、彼らを結束させた証でした。現在でもイスラエルでは、例えばテレアビブ空港は、安息日=土曜日は一日中お休みです。旅行の時は要注意です。また、次の出来事はヘブライ語聖書の「外典」に登場するので皆様には馴染みがないかも知れません。紀元前167年より始まったマカバイ戦争の時のことです。北の隣国シリヤの余りに理不尽な占領政策や偶像礼拝の無理強いに耐えかねてユダヤ人のマカバイ家の面々が反乱を起こしました。荒野に逃れた敬虔なユダヤ人に敵の軍隊が押し寄せてきます。敵軍は安息日に戦いをしかけてきたのでした。ユダヤ人は安息日に労働すること、戦うことができないので、無抵抗のまま約千人を虐殺したのでした。(Iマカバイ23538)まさにユダヤ人は命がけで「安息日」を守ったのでした。その後、このような場合は武器をとって闘っても良いという規則に変更されたようです。このような厳格な安息日の決まりは、守り方はますます込み入ってきます。ユダヤ人のラビたちは39種類の労働を禁止しています。種を蒔くこと、狩りをすることはもちろん、火をおこして料理することも労働ですから禁止です。女性たちが台所で働かなくてもよいので、今でも欧米では「カルトテーラー」=火を使わない料理を実践している家庭もあります。また、6スタジオン(185×61110メートル)以上歩くことも労働と見なされていますので土曜日の散歩は1キロ少し以上はできません。アルファベット文字を2文字以上書くことも労働とみなされるので、日記を書く場合には日曜日に書くことになります。安息日である土曜日に産んだ鶏の卵を食べて良いかどうかという議論もありました。鶏が卵を産んで労働したので、汚れているというわけです。決まりというものの可笑しな逸脱であると思いますが、ユダヤ人はそれほどまでに十戒の第四戒を守ろうとしたし、しているのです。

 

3.「安息日」の豊かな意味

それでは安息日の決まりは意味のないものなのでしょうか?決してそうではありません。そこまでしてユダヤ人が心に刻みつけようとしていることは、人間の労働がいかに多くの物を生み出すとしても神の力には及ばないという事実です。また、外国に抑留されている一週間の生活がいかに困難であっても神は自分たちを休ませ、自由にし、祝福されようとしているということ知ることです。安息日を覚えることは、人間のこの限界性を覚えることです。人は人であって神ではない!この世はあくまでもこの世であり、人間やこの世が「主」ではなく、愛の神が主権を持たれるということです。確かに、一方で、勉強を含めた労働と競争は私たちにストレスと不安を与えるのではないでしょうか。そして、他方、いつしか労働することができなくなる時が来ること、突然解雇されるときが来るかもしれないのです。自分の労働・働きが適切に評価されていないと感じること、健康を害したり、老化で家事をすることができない時が来るかもしれないのです。それが人間を不安にするのです。しかし、第四戒は「六日の間働いて何であれあなたの仕事をせよ」と語り、人間の働きを六日で限界づけ、六日で良いんだよ、と言うのです。そして、第七日目を語るのです。七日目、神の喜びと休みに私たちも共にあずかること、これこそが神のご計画と私たちの人生の最終的目標なのです。このような安息への招き、自由への招きは大切にしなければならない豊かな伝統です。日本社会は、江戸時代までは休みはせいぜい月に一日か二日でしたでしょう。しかし、日本社会もこのような聖書の伝統を採り入れ、七日に一度休む権利を与えている訳です。「労働基準法」第35条には「使用者は、労働者に対して、毎週少なくとも一回の休日を与えなければならない。」と規定されています。私たちはこのような伝統を受け継ぎ、静かに休む土曜日と、神礼拝という聖なる労働というか人間の本来の「働き」の両方のバランス、リズムに心を留めて生活したいものです。

 

4.私の父は今もなお働く。だから、わたしも働くのだ

 今朝、私たちの礼拝はヨハネ5:1617の言葉に耳を傾けることで始まりました。もう一度読んでみます。この個所は、主イエスが安息日に病人を癒されたことに対して文句を言ったユダヤ人に対する言葉です。「そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスはお答えになった。『私の父はいまなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。』なんと言うことでしょう。病人の癒しを安息日にしてはならない労働と見做して批判するとは!しかし、もっと驚くべき言葉は「私の父はいまなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」という主イエスの言葉ではないでしょうか。天地万物の創造の際に父なる神は6日間働かれて、7日目に休んでいるはずです。それにもかかわらず、そこに神を必要としている人がいたとすれば、癒しを必要とする人がいれば、命が脅かされているならば、父なる神は働かれるというのです。そして、イエス様も敢えて安息日を破ってでも働く、いのちを救いたいという自由な聖書解釈です。一方で休むことが自由への解放であるし、他方、他者のための働きをすることもまた自由への解放なのです。

「私の父は今もなお働く。だから、わたしも働くのだ」というイエス様の自由宣言を、ユダヤ人指導者たちは、「神を御自分の父と呼んで、御自分を神と等しい者とされた」と考え、もうこの時点でイエスを殺そうと考え始めたというのです。

 

5.終わりの日の到来の希望の中で生きる:とこしえの安らぎを目指して

今朝はキリスト・イエスの到来を待ち望むアドヴェントの第三主日であり、主なる神による安息日への招きを終わりの日の到来の光で味わってみようと言いました。土曜日の安息日の次の日は主なるキリストが死者の中から引き上げられた日、太陽の日です。日曜日です。私たちはこの日を「主の日」と呼んで復活の証人として神を称えるのです。創世記1:3の言葉に耳を傾けましょう。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。素晴らしい、力強い言葉と出来事です。クリスマスを境にして日が長くなり始めます。陽の光の到来に向かい合う、アドヴェントです!天地万物の創造の業が今、この時に開始され、とこしえの安らぎ、とこしえの安息日を目指して進みます。私たちはどこかで環境を破壊してはいないでしょうか? 豊かな緑が失われ、大気も汚染され、神にかたどり、似せて造られたはずの人間が人間として失われていないでしょうか?確かに生きにくい世界です。しかし、神は「光あれ」と言われ、この世界、私たちの感受性も知性も闇としか思えない不条理と理不尽さに満ちているように見えるこの世界は「極めて良かった」(1:31)と言われています。「私たちが生きる世界はこの世界なのだ」、「この世界を神の祝福に満ちた世界にしよう」と呼び掛けられているのです。「光あれ」と言われ、イエス様はまさに「光」として来られたと告白するのがクリスマスです。クリスマスはとこしえの安らぎを目指す歩みの始まりなのです。「光あれ」と言われた!このような聖書理解が決して間違いでないことは新約聖書が語っています。そのことを示すために、終わりにIIコリント:6を朗読します。

 

「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいます。」私たちが「とこしえの安らぎを目指して」歩んでいるとすれば、万物の創造の完成のためにこの世界での働きを僅かでもさせていただきましょう。私たちの小さな愛の働き、いのちを助け合う働きを「とこしえの安息日、とこしえの安らぎ」を希望する中で行いましょう。

 

祈り:アドヴェントの第3主日を迎えています。キリストの到来とさらにその完成を待望している私たちにあなたからの平安と祝福をお与えください。第四戒にあるように、私たち自身だけでなく、息子たち、娘たち、男女の使用人たち、家畜にも、一緒に生きる「寄留する人々にも安息を与えて下さいますように祈ります。(申命記5:15参照)(松見俊)