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2022.11.27 「宣教と伝道の視点で描く、新しいこれから」(全文) マタイによる福音書4:23-25

1、四年間、感謝!

アドベント第一主日礼拝、そして世界バプテスト祈祷週間礼拝を皆さまと共に捧げることができることを嬉しく思います。私はちょうど4年前のこの日、東福岡教会に転会し、福岡の地で、一人の信徒として皆さまと共に信仰の歩みを進めてきたことを心から感謝しています。

転入会の時に、協力牧師の役割も与えられましたので、主日礼拝の奉仕をはじめ、様々な活動に関わらせて頂いています。しかし協力牧師と言っても、勤務先の本務があり、また連盟や連合、他教会に奉仕者として呼ばれることも多くある中、教会に多く貢献や協力ができていないようにも思います。そんな中、松見先生は、「教会に礼拝に来る事」「この場に身を置くこと」自体が、素敵な「奉仕」だ、と言ってくださったおかげで、肩の荷が下りて、一信徒として毎週礼拝に参加し、メッセージを味わうことができました。

 

2、将来の展望~一人ひとりの願いから~

皆さまご存じのように、毎週礼拝が始まる前、朝10 時から当教会でCS 会も行われています。CS は昔「教会学校」「チャーチスクール」とも呼ばれていました。しかし、教会は交わりの場所ですので、学校のように、「教師」と「生徒」が教室に集まる時のイメージを与えたくないので、「CS」と呼ばれるようになりました。今はCS 中高科のリーダーに務めさせていただいていますが、中高生と一緒に聖書を読み、皆さんの感想や声を聞く時間は実に楽しい時です。『聖書教育』がテキストとして使われていますが、その中で示されている聖句を読み、分かち合っています。

先週まではネヘミヤ記を一緒に読んできました。バビロン捕囚から解放されたユダヤ人たちは、廃墟となったエルサレムの地で、様々妨害を受けながらも、町の城壁や神殿の再建をやり遂げるまでの歴史がネヘミヤ記に記されています。捕囚から逃れ生き残った者たちは、大きな困難の中にあったにも関わらず、そのうえ、エルサレムの城壁が崩れ、その門は火で焼き払われたままでした。エルサレムは廃墟の地なり、悲惨な状態にありましたが、しかし、そこに何もなかったというわけではありません。ユダヤ人の伝統や神に従って歩んできたイスラエル民族の歴史、そして信仰と宗教が残っていたと思います。そうでなければ、神殿の建設も、民族の復興もあり得ない話になってしまいます。そんな話を中高生と分かち合いながら、皆さまに質問をしました。「コロナ後、新しい時代に向けて、皆さんはこれからどのような信仰・礼拝共同体を作っていきたいのか」。そこで、子どもたちは、実に大切で、ユニークな答えをしてくれました。少し紹介させて頂きますね。

まず一人目、「私は、沢山の人に知ってもらう教会を作りたい。ここに教会があるよ。どんな人も歓迎しているよということを宣伝し、発信していきたい」、二人目「様々な違いを持つ人たちが集う教会を作りたい」、三人目「信仰の有無を問わず、信仰を強要せず、色んな人と共に集える礼拝を作りたい」、四人目「統一教会の問題がニュースになっているので、宗教団体に対して不信感を持つ多い。しかし私たちの教会は統一教会とは違うよ、と発信しながら、多くの人にとって安心して集える場所、教会を作りたい」。五人目「地域と良い交流を持つ教会を作りたい」。私はこれらの答えを聞きながら、本当にそのとおりだなと思いますし、皆さん一人一人はしっかり自分の考えを持っていることに驚かされ、励まされました。

私たち東福岡教会は、来年創立70 周年を迎えます。歴史を振り返りながら、皆さんと共に今後の教会の歩みを考えていきたいと願います。皆さんは、どのような教会を作りたいのでしょうか。信仰歴が長く、教会を支えてこられた先輩の方であれば、より信仰に基づく答えを出されるのではないかと思います。先月、教会では特別伝道集会が行なわれ、また本日から世界祈祷週間を迎え、世界伝道のための献金が呼びかけられています。教会にとって最も重要な業が、やはり宣教と伝道だと思います。では宣教、伝道とは何でしょうか。今日は二つの言葉の意味を一緒に考えていきたいと思います。

 

3、ミッション&エヴァンジェリズム

宣教と訳された言葉は、ラテン語「missio」、英語「ミッション」から来ています。これは特定の使命、任務のために「派遣されること」を意味します。ミッションを聞くと、旧約聖書の預言者派遣や、新約聖書のキリストの弟子派遣の場面を思い浮べるでしょう。世界宣教の歴史を見ると、16 世紀宗教改革以降、この言葉は特別な意味で用いられるようになり、キリスト教の各教派が「ミッション」を、「キリストの教えを諸民族に伝え、回心を促し、人々にバプテスマを施しキリスト教信者に入信させる」というふうに捉え、20 世紀半ばまでの約400 年間、ミッションは「外国に宣教師を派遣すること」「外国伝道」を意味する用語として使われていました。そんな背景の中、19 世紀、多くの宣教師が派遣され、アジアやアフリカなどの地域に行き渡りました。しかし20 世紀後半になると、世界情勢が変化し、キリスト教を信仰するアジア人が増えたことから、「宣教」の聖書的意味を捉え直す声が上がりました。その参考となる聖書箇所は、マタイによる福音書28 章にある「宣教命令」です。「あなたがたは行って」というのは、自分自身を越えて、他の人、別の地域やグループへと遣わされていくということを表します。続いて「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授ける」とあります。一見して、「ミッション」は全ての人に洗礼を授け、キリスト教に入信してもらうことを目的としているように見えますが、その本当の目的は、神の独り子であるイエスキリストの愛を証すること、キリストによって与えられた救いと解放の出来事は、全ての人のために既に起こっていることを、告げるためなのです。そして、人々を回心に導く働きは、本来的には神に属する事柄なのです。

宣教命令の最後に、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」とありますが、ここでは、遣わされた者に与えられた役割について語られています。その役割とは、聖書が教える「神の国の価値観」この世界や社会、周りの人に共有し、実践することです。命の尊厳、キリストの愛と赦しを伝え、和解と平和に務めること、不正な社会問題を批判し、人権問題に取り組み、弱い立の人を支援すること、このような社会活動に関わることはすべて、「ミッション」の働きであると言えるでしょう。

「伝道」「エヴァンジェリズム」は、新約聖書によく出てくる「良きお知らせ」(エウアンゲリオン)から来ています。この言葉は19 世紀初期から使われるようになりました。「宣教」との違いで言うと、「伝道」は「宣教」の広がりであり、示す方向性はより狭い領域に限定すると言われます。伝道の目指すところは、教会が自ら直接的に関わりを持つことが可能な近隣地域、そこに住む人々、それらを取り巻く社会です。そこに向けて「良き知らせ」を伝え、実践するのです。言い換えれば、伝道することは「奉仕すること」でもあります。伝道を担う教会は、近隣地域に住む人たちに向けて、魅力ある生き方を示しつつ、弱い立場や苦しみを抱える人に手を差し伸べ、キリストの愛にまったく触れることのなかった人々に寄り添い、奉仕する業をなしていきます。「宣教」と「伝道」の定義は多少違っても、目指す究極的な目標は同じです。それは、クリスチャン人数を増やすことや教会を伸ばすことではなく、キリストの愛と自由の中に、全ての人を招き入れることです。そのために、私達は学び、伝え、奉仕し、自らを捧げていくのです。そしてイエスキリストこそが、宣教と伝道の真の担い手であることを覚えておきたいと思います。

 

4、イエスの宣教と伝道~私たちの新しいこれから~

「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者などを癒された。」その後、山上の説教を語られました。イエスご自身が、宣教者、伝道者のあるべき姿を示してくださいました。福音の著者は、ここでイエスの奇跡の働きがもたらした効果や影響力を強調しているとは思えません。もちろん、当時は奇跡を求めてやってくる人も大勢いたでしょう。しかし、その群衆たちは本当に必要としていたのは、自分を受け入れ、愛してくださるイエスご自身であり、その出会いによって感じられる温もりではないでしょうか。苦しむ者を決してお忘れにならず、置き去りにしない神が存在するという確信を、彼らはイエスとの出会いを通して得たのです。「イエスの優しい眼差しに触れ、冷たく固くなった心が癒された」、「当たり前の社会の価値観に縛られていた私は、神の国の価値観に触れて解放され自由にされた」、このように証言する人たちは、やがて「良き知らせ」「福音」を信じる人となりました。

私達現代の教会を取り囲む社会の状況は、新約聖書時代の状況とは大きく異なっています。しかし、いつの時代も共通しているのは、苦しみ、悩み、弱い立場に置かれている人がいるということです。教会はイエスキリストの体です。ここに神の真理と命の泉が溢れ出て、更に外の世界へ流れ出ていきます。疲れた人、重荷を負っている人が集まる場所、温もりと癒しを与える場所は教会なのではないでしょうか。私たちに先立って進まれる主は、これからの時代も、東福岡教会に、ここに集っている私たち一人ひとりに、宣教と伝道の働きを託されておられます。そして、東福岡教会は他の教会と同じ活動をする必要はありません。東福岡教会にしかできない働きがあると思うのです。その宣教と伝道のビジョンは、これから出会う一人一人と共に歩み、対話する中で描き出されるものだと信じています。

 

ある日、中高科の皆さんに、「東福岡教会内にあるものの中、これは絶対失いたくないと思うものは何か」と聞きました。皆さんは、礼拝堂の椅子、教会の面にある大きな木、そして、会堂上にあるLED ライト、真正面にある木造の十字架だと真剣に答えてくれました。これらは目に見えるもの、形あるものですが、目に見えないものとして、これからも大切にしていかなければならないもの、そして今後新しく創り出していかなければならないものは何かを、これからは皆さんと共に考え、祈り求めていきたいと願います。お祈りします。(劉雯竹)