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2022.11.13 「共に祈り合う教会」(全文) ルカによる福音書5:17-26

1:  癒しと罪の赦しと信仰

 今日の箇所では、中風を患っている人、その人をイエス様のところに運んだ人たち、そして、ファリサイ派の人々、律法の教師たち、そしてイエス様が登場します。新共同訳聖書では、この記事の小見出しは「中風の人をいやす」となっています。そのうえで、この場面では、20節に【イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。】(ルカ5:20)とあるように、イエス様が「中風の人」ではなく、その人を連れてきた人たちの信仰をみて、「罪を赦された」ことが記されています。イエス様は「人よ、あなたは癒された」ではなく、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われました。今日の箇所では、この人々の「信仰」からの、「罪の赦し・罪からの解放」、そしてそれに繋がる「癒し」という出来事が起こされたことを見ていきたいと思います。このあとファリサイ派の人々、そして律法の教師たちは、イエス様のこの「あなたの罪は赦された」という言葉に反応して、【「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」】(ルカ5:21)と考えたのです。当時のユダヤにおいては、罪の赦しは、レビ記によると祭司が行うとされていました。この祭司による贖罪の献げものをすることによって、罪の赦しを得るとされていたのです。だからこそ、ファリサイ派の人々、そして律法の教師たちは、「律法では罪の赦しは祭司が行うことになっている」、「これは神様がそう決められたのだから、この律法を守らない者は、神様を冒瀆している」と考えたのです。

このように、今日の箇所は、イエス様が、中風という病気を患っていた人の罪を赦されたこと、そしてそのことによって病を癒されたことを教えます。そしてまた、この出来事は、人々がイエス様の前に屋根をはがしてでも、連れて行ったことによって起こされたのでもありました。今日は、この病の癒しと罪の赦しの関係について、そしてその出来事を起こした、人々の信仰、つまり共に生きる信仰について見ていきたいと思います。

 

2:  病と罪の関係

 当時の社会では、病を持つこと、病気になることは、その人が、何らかの罪を犯したからだと考えられていました。神様に対して不信仰を抱いた。そのため神様からの御業として病を受けたと考えていたのです。中風というものは、脳卒中などによって、体が麻痺し、半身不随や言語障害などを患っている状態となります。つまり、このとき、この人は、自分ではまとも動くことも、話すこともできなかったと考えられるのです。このような状態、まともに動くことができず、話すこともできないという姿は、医学の発達していない当時は、特に、神様からの御業として見たのです。このような病になる時、周りの人々は、この人自身か、またはその人の家族、または血のつながる者だれかが、これまでの人生で、神様から離れ、不信仰に生きた。そのように「罪」を犯したから、神様からの御業として、そのような病を与えられたと考えたのでした。このような考えは、その当時の社会全体にありましたので、それこそ周りの人だけではなく、この時、この病の中にあった本人も、そして、この人をイエス様のもとに運んでいった者たちも、そう思っていたのではないかとも思うのです。

 中風の人、本人が、「自分は神様から離れてしまった」「だからこのような病を受けている」と、まさに自分がしたことに対する神様の御業、罰を受けていると考えていたのかもしれないのです。

私たちも同じように思うことがあるのではないでしょうか。自分が病気や事故に出会うとき、または家族や友人が病気で苦しんでいる時、「どうしてこのようなことが起こったのだろうか」「自分が何か悪いことをしたのか」「あのとき、あんなことをしたからか・・・」「自分が悪いことをしたから、神様から嫌われているのか」と考えていくことがあるのではないでしょうか。いわゆるカルト宗教などは、そのように、あなたが悪いことをしたから、過去の人がこんなことをしたから、この後、悪いことが起こります。これを買わないといけません、これをしないといけませんといって高額なものを買わせたり、無理難題を押し付けることがあるのです。人間、生きていれば誰でも、自分の価値観、社会的価値観において。良いこともしたこともあれば、悪いこともしたことがあるのではないでしょうか。「自分はまったく悪いことをしたことがない」と言われる方がおられるなら、それは、ちょっと危険な状態にあるかもしれません。

 

以前、わたしがこの教会に来てすぐのころに、「最近嫌いな人がいるのですが・・・ついつい、その人に良くないことをしてしまうのです。こんなことをしていると、たぶんこの後、私にも悪いことが起こると思いますので、お祓いをしてください。」と言ってきた人がいました。私が「お祓いする前に、ご自身で、良くないと思われるならば、行動を改められてはいかがでしょうか・・・」と言うと、「それができないので、困ったのでここに来たのです」と言われました。「人を傷つけてはいけないということはわかっている。でもそれができない。感情を抑えることができない」ということでした。これはとても素直な人間の言葉なのではないでしょうか。それこそ、私たち人間の心の奥底の思いをそのまま打ち明けたら、このような自己中心的な思いが詰まっているのではないか、とも思うのです。

  

3:  共に祈り合う

 イエス様は【「人よ、あなたの罪は赦された」】(5:20)と言いました。このとき、イエス様は、この中風の人を見て、その人の信仰を見たのではありませんでした。この時、中風の人は、どのような思いにあったのでしょうか。この中風の人が信仰深い者であったかどうかは、わかりませんが、この時の赦しは、この人自身の信仰によって、罪の赦しを得たのではないことは確かです。イエス様は、この中風の人を連れて来た、その人たちの信仰を見て、「あなたの罪は赦された」と言われたのです。ここに、私たちが、教会という信仰共同体で生きること、共に生きること、共に信仰を持つことの大切さを教えられるのです。

 すでに、皆さんには何度もお話していますが・・・私は「てんかん」という先天性の病気をもっています。わたしはよく、「自分は神様に見捨てられた者なんだ」と思い、生きることに希望を持つことが出来ないでいました。そんな私が、もう一度生きる希望を持つことができたのは、私のために祈ってくださる方々がいたからです。大学生の頃、祈祷会に出席した時のことでした。教会では、私のために、病気のため、信仰のため、ずっと祈ってくださっている方々がいたのでした。このことを知って、私は、もう一度神様と向き合うことができました。そして生きる意味として「共に祈る」という恵みを頂いたのです。私たちは、お互い、この教会の皆さんの祈りによって、神様と向き合うという「癒し」、「罪の赦し」を得ているのです。

 「癒し」。それは、もちろん病気が癒されることも一つだと思います。ただ、病気が癒されても、そこに生きる喜びがなければ、その命に意味があるのでしょうか。病を癒され、生きる力を得たときに、その力をもって、自分のためだけに生きたとして、本当に、生きる喜びを得ることができているのでしょうか。私のいただいた「癒し」は、病気がなくなることではなく、そこに生きる意味を頂いたこと、生きる喜びを得たことでした。主イエス・キリストが共にいて下さること、周りに一緒に祈ってくれる人がいること、一緒に生きていく人がいること、支え合い、祈り合い、愛し合う兄弟姉妹がいること。そして、自分は神様の愛が現わされるために生きている。この生きる意味を頂いたとき、私は病気による苦しみから解放されました。つまり「癒し」を得たのです。

今日の箇所では、中風の人をイエス様のもとに連れてきた人々がいました。ここに、この中風の人にとっては、すでに生きる喜びを得ていたとも言うことができるでしょう。イエス様は、この人々の信仰を見て、「あなたの罪は赦された」「あなたは癒されている」と言われたのです。

 

私たちは、共に祈っていきたいと思います。教会。それは、イエス・キリストを中心に、祈り合う集団です。それは、祈り、祈られる関係に生きる者なのです。そしてそのために、自分のこと、その悩みや苦しみを知ってもらうこと、また隣人の悩みや苦しみを知ることから始まるのです。これが教会です。

わたしが大学に入学してから少しした頃のことですが、・・・よくわからないのですが、とても怒っている人がいたので、「どうかしたの」と尋ねてみると、「あなたはわたしのことが知りたいのですか?」と言われたことがありました。私は、最初、その意図がよくわかりませんでしたが。よくよく話を聞いてみると、その人は、「祈ること」と「知ること」で悩んでいたそうです。「祈るため、祈られるためには、どれほど隣の人のことを知ればいいのだろうか・・・または、祈られるためには、どれだけ自分のことを伝えればよいのか・・・」と悩んでいたのです。わたしには、「あなたは私の何を知って、私の何を祈るのですか」「祈れるのですか」「祈ってくれるのですか」と尋ねてきました。

私たちは、隣の人のことを祈るためには、隣の人のことを知らなければならないですし、隣の人に祈っていただくためには、自分のことを隣の人に知らせなければならないでしょう。そして、この関係を作っていくところ、そして共に祈り、共に生きる者とされる。それが教会なのです。

 

そして、この教会の働きは、ただ隣の人、兄弟姉妹に留まるものではありません。私たちは、この争いの絶えない社会にあって、イエス・キリストを中心とした教会として存在します。この世界では、今も、お互いがお互いを傷つけあうことが続いています。私たちは、この世界にあって、それこそ、他者を傷つける者のためにも、祈り続けたいと思うのです。そのために、私たちは、この社会のことも知らなくてはならないでしょう。この情報のあふれる社会において、きちんとした情報を得て、社会のために祈っていきたいと思います。この世界に「神の御国が来ますように」、「神様の平和が来ますように」と祈り続ける。それが教会の存在意義であり、使命なのです。私たちは、ただ絶望するのではなく、この世に、神様の愛が来るように、祈り続けていきたいと思います。

 

4:  イエス・キリストが来てくださる

 マタイによる福音書18章18節~20節にこのようにあります。【「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」】(マタイ18:18-20

 共に祈りましょう。私たちが集まる時、そこにイエス・キリストは来て下さるのです。今日の箇所で、人々は、この中風の人をイエス様の前に連れていくために、屋根に上り、瓦をはがし、イエス様の前につり降ろしたのでした。人々は、そこまでして、この中風の人が癒されること、罪からの解放、つまりこの人がイエス様に出会うことを求めたのです。この人々の祈りが行動となり、そして、イエス・キリストと中風の人とを繋げていったのです。わたしたちも共に祈り、そしてお互いが、イエス・キリストに出会うために、祈り合い、共に生きていきたいと思うのです。

 そしてまた、この私たち人間のために、まずイエス・キリストが祈ってくださっていること、そして、私たちが神様と出会うために、その関係を繋げるために、十字架の上で死に、その行為をもって、私たちに「癒し」「罪の赦し」を与えてくださったことを覚えたいと思うのです。それこそ、私たちが神様から離れ、もはやどうすることもできないほどに、その心は頑なになっていたとしても。その私たちが、今一度神様に出会うために、イエス・キリストは、十字架で死に、復活してくださった。そして今も祈り続けてくださっているのです。人々は瓦をはがしてでもイエス様のところに連れて行きました。イエス・キリストは、私たちのために命をかけて、導いてくださる。祈ってくださるのです。このイエス・キリストの祈りを、私たちは共に受け取っていきたいと思うのです。私たちのところに、イエス・キリストは来てくださっている。このことを信じて、祈り続けましょう。そして、お互いのために、祈り、そして祈られて、共に歩んでいきたいと思います。(笠井元)