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2022.10.16 「仕える者として出ていこう~み言葉に押し出されて」(全文) ルカによる福音書4:38-44

1:  シモンの姑の癒し

  今日の箇所において、イエス様は、会堂を立ち去り、シモンの家に入られました。このシモンとは、このあと5章において、イエス様に従ったシモン・ペトロ、いわゆるイエス様の一番弟子とされるペトロのことです。このシモンの家でシモン・ペトロの姑が高い熱のため苦しんでいたのです。人々は、この「シモンの姑が癒されるように」とイエス様に願ったのです。そのため、イエス様は、「熱」を叱りつけ、シモンの姑を癒されたのです。ここから、まず、イエス様の言葉の力と権威を見るのです。イエス様は、今日の箇所の前、35節では、悪霊をお叱りになられたとあります。この時は、熱ではなく、汚れた悪霊に対して、「黙れ。この人から出ていけ」と叱りつけられたのです。このイエス様の言葉に対して、人々は、36節で【4:36 人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉は一体何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」】(ルカ4:36)と、その権威と力に驚いたのでした。イエス様は、汚れた悪霊を追い出したように、今日のシモンの姑の熱に対して、その言葉をもってお叱りになられ、癒されたのです。ここにイエス様の言葉の権威と力を見るのです。 

 イエス様は、4章18節からは、ナザレにおいて聖書からこのように言われました。【「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、4:19 主の恵みの年を告げるためである。」】(ルカ4:18-19

イエス様の言葉は、権威と力を持っていた。そしてその言葉は、「貧しい人に福音を告げ知らせる」言葉であったのです。イエス様は、福音の言葉をもって【捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由に】(ルカ4:18)されたのです。イエス様の癒しの出来事は、ただ、病が癒されるのではなく、捕らわれている者に解放を、目の見えない者に回復を、圧迫されている人に自由を与えて下さる出来事であり、それは、まさに、み言葉によって新しい命を頂く出来事なのです。

 

 このとき、人々は、ペトロの姑の癒しをイエス様に求めました。 私たちも、同じように、イエス様のみ言葉、そしてみ言葉からの解放、回復、自由、そして新しい命を求め、聞いていきたいと思うのです。ルカによる福音書の、この後11章においては、イエス様の癒しの業を「悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」(ルカ11:15)と言い、イエス様の御業を受け入れなかった人々の姿があります。私たちは、日々の生活において、多くの奇跡によって生かされているということに目を向けたいと思うのです。夜寝て、朝起きる。朝起きたときに、命を与えられていることも、本来は、奇跡の出来事ではないでしょうか。 神様の奇跡は、まず私たちが日々生きていることから始まり、一日の歩みが守られているところに続き、その人生のすべてにおいて、大きな恵み、奇跡が起こされているのです。そしてそれは、ただ、私たちが生きているということではなく、そこに、神様の愛が注がれ続けていることこそ、何よりもの奇跡です。イエス様は、私たちの救いのため、自由のため、解放のために。それこそ私たちが喜んで生きるために、命の言葉を送ってくださっているのです。私たちは、日々、イエス様のみ言葉を受け取っていきたいと思うのです。

2:  重荷を共に担われる方

今日の箇所では、続けて40節から、人々がイエス様のもとに病人を抱え、連れて来たとあります。ここでは、日が暮れてからとありますが、これは、安息日には荷物を運んではいけないという戒めが解除されたことを意味しています。このときは31節にあるように「安息日」であったとされます。安息日について、エレミヤ書にはこのようにあります。

【主はこう言われる。あなたたちは、慎んで、安息日に荷を運ばないようにしなさい。エルサレムのどの門からも持ち込んではならない。また安息日に、荷をあなたたちの家から持ち出してはならない。どのような仕事もしてはならない。安息日を聖別しなさい。】(エレミヤ17:21-22

安息日には荷物を運ぶこと、持ち出すことが禁止されていたのです。そのため、日が暮れて、安息日を終えてから、人々はイエス様のところに病気で苦しむ人々を抱えて連れて来たのでした。病の人が来たのではなく、病で苦しむ者を抱えている人が、病人を連れて来たのです。ここでは、もちろん病に悩む人の、「イエス様に癒していただきたい」という思いを見ることもできます。ただ、ここでは同時に、病に苦しむ者を抱え、共に生きる中で、苦しむ人々の痛みをも見ることが出来るのです。

 

私自身も、てんかんという持病を持っていますが、お医者さんからいつも言われていることは、「あなたが今、このように生きていられるのは、周りの人々の理解と支えがあるということを忘れないように」と、よく言われます。私の持病は先天性のもので、生まれた時からのものです。そのため、「神様はなんで自分をこのように造られたのだろうか」と悩む事もありました。ただ、そのような中で思わされるのは、この自分の病がなければ、わたしは人に支えられているということも、神様のために生かされているということも、受け入れることはなかったと思うのです。是非、皆さんにも覚えていてほしいことは、私たちの弱さは、神様の助け、隣人の助けを知るために、とても意味のあることだということ、このことを覚えていてほしいと思うのです。

これから「超高齢化社会」と言われる時代を生きる中で、私たちは、それこそ「老々介護」という状態が多くなり、自分が一人で生きることも難しい者が、隣人を助けなければならないという状態が増えていくのです。そのような中では、弱さを持つ者だからこそ、お互いが、お互いを支え合って生きていくことを覚えて生きていきたいと思うのです。

 

ただ、それでも、確かに、病を持つ人を支えることは楽なことではないのです。病気の痛み、苦しみという重荷を一緒に背負うのですから、軽いわけがないのです。重荷は確かに重く、時には押しつぶれそうになることもあるでしょう。特に、病にある人、または介護が必要な人の隣にいる時、そのことはしなければならないことと思い、「疲れた」「もうできない」ということを、言ってはいけないと、思ってしまい追い詰められていくこともあります。少し前の事ですが、それこそ介護に疲れ、それでも誰にも相談できず、誰にも愚痴も言えず、最終的に無理心中をしてしまったという事件がありました。

私たちは、誰かに寄り添い、生きていこうとするとき、いつの間にか、自分に寄り添ってくれている人がいること、自分も寄り添って生きてよいということを忘れてしまうことがあります。自分は、この人を助けなければいけないと頑張る中で、自分が助けてもらうことを忘れてしまう、またはそんな弱音を吐いてはいけないと思ってしまうことがあるのです。

ここでは、イエス様は、病を持つ者、一人一人に手を置いてくださいました。ユダヤでは、病人に触れることは基本的には禁止されていました。しかし、そのような中でも、イエス様は、病気で苦しむ者、その一人一人に手を置き、触れて下さったのです。このイエス様の行為、病人に触れるということは、病に苦しむ者と共に生きることを表します。イエス様は、その病人の痛みや苦しみ、その重荷を共に背負い、担う者となってくださったのです。ここにイエス・キリストによる「癒し」が起こされたのです。

イエス様が共に重荷を担ってくださる。それは重荷に苦しむ病人だけではなく、その隣で精一杯関わる者の重荷を共に担う者となってくださったということでもあるのです。イエス・キリストが共に重荷を担ってくださる。決して一人ではない。どれほどの病にあろうとも、どれほどの苦しみにあろうとも、私たちは一人ではないのです。ここに、私たちは生きる希望を見るのです。そして、この生きる希望を持つ命にこそ、癒された命を見るのです。私たちは、隣に主イエスがいること。そして隣にいつもイエス・キリストを通して与えられている兄弟姉妹がいることを覚えていたいと思います。

 

3:  癒しに応答する

このイエス様の癒しを受けて、42節からは、イエス様を探しまわす群衆の姿が表されます。人々は、イエス様のそばに来ると、「自分たちから離れて行かないように」と引き留めたのです。このとき群衆がイエス様に求めていたのは、自分にとっての「奇跡」、自分のためだけの「素晴らしい行為」、もっと言えば「自分に利益を与える行為」です。この時、イエス様が人々に与えられたのは「癒し」という業をもって、神様の救いを与えてくださったのです。熱に苦しむシモンの姑に、力ある言葉、捕らわれている者を解放する言葉を与えて下さいました。そして病にある者、病の苦しみを共に担う者に、自分が共にいるという愛の恵みを示されたのです。ここに神様の救いが示されたのです。

しかし、群衆が求めたのは、この神様の救い、神様の愛の出来事ではなく、ただ、その目の前で起こされた出来事だけでした。それこそ、それは、お金などと、変わらないものとして、自分の思いが叶うための道具として、自分の欲望が満たされるためのものとして、イエス様の癒しを求めたのです。

使徒言行録の16章では、人々が占いの霊に取りつかれている女奴隷によって、多くの利益を得ていた人々がいたことが表されているのです。現在でも占いなどありますが・・・イエス様の奇跡、癒しは、利益を得るためのものではなく、あくまでも神様の救いが起こされるため、そして人間が人間としての尊厳を持って生きること、そしてお互いに愛し合い、そこに神様の御国が表されるためになされている出来事なのです。

 

この神様の恵みを、シモンの姑は、癒される中で受け取っていきました。シモンの姑は、癒されるとすぐに、起き上がり、一同をもてなしたのです。シモン・ペトロの姑はイエス様の愛の業を受け、癒された者として、仕える者となったのです。ここから、イエス・キリストの恵みに感謝し応える姿、仕える姿を見るのです。私たちは、イエス様のみ言葉による救い、イエス・キリストが共にいてくださるということから、どのように生きていく者とされるのでしょうか。

 

キリスト教の歴史を見るならば・・・このイエス・キリストの愛の恵みを受けて、教会は、いつも仕える者として歩むことができていたわけではないことを感じるのです。むしろその恵みを独り占めし、自分たちは優れている、自分たちだけが救いの恵みを得ている。キリストを信じない者は切り捨てられていくのだとしてきたこともあります。また、その恵みを押し付け、信じないことは許されない。信じない者は罪人だと決めつけ、差別し、迫害してきた歴史があるのです。

シモンの姑はイエス様の癒しを受け、仕える者として応答したのです。そして、この仕える者としての道は、イエス・キリストご自身が生きられた道でもあります。私たちに示されている生きる道。それは、イエス・キリストが歩まれた道。「十字架の道」であり「仕える道」なのです。私たちはキリストによって神様の救いを受ける時、その恵みを共に分かち合うこと、そしてそのために仕える者とされていきたいと思うのです。傲慢な者から謙遜する者、仕えられる者から仕える者とされていきたいと思います。

 

4:  仕える者として出ていく

43節において、イエス様は、この群衆に対して、【「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」】(ルカ4:43)と言われ、ユダヤの諸会堂に行って、宣教を続けられたのです。イエス様は留まることなく、神の国の福音を告げ知らせるために出ていきました。私たちも神の国の福音、神様の愛を告げ知らせるために出ていきましょう。イエス・キリストが共に重荷を担って下さるということ、そしてどのようなことがあったとしても、決して一人にされることはないという救いと希望を持って、神様の愛を告げ知らせるために、歩みだしたいと思います。この時、イエス様は、安息日に教えられ、そこから癒しを行われ、そしてまたユダヤの諸会堂に出ていかれたのです。これは、ただ、そのような場所に行ったということだけではなく、イエス様が、神の宮から出ていき、またその神の宮に戻ってくることを教えます。

私たちは、今日、ここに集まったように、礼拝に集まり、そしてこの世に出ていきます。神様のみ言葉を受け取り、神様の溢れる愛を頂き、この世に押し出されていくのです。そしてまた、私たちはこの礼拝に帰ってくるのです。私たちには、押し出すみ言葉を受け出ていき、そして、また帰ってくる場所があるのです。この世で生きること、仕える者として生き続けることは、疲れと痛みを伴います。共に、重荷を担って生きることは、とても大変なことです。そして、そのように生きる時に、時に神様の忘れ、時に、心は、カラカラに、空っぽになってしまうのです。私たちの心には限界があります。だからこそ、私たちは、毎週このように礼拝に集まり、時にはオンラインでも、共に神様のみ言葉を受けていくのです。そして神様のいっぱいの愛をいただいて、また新たに歩き出していきたいと思います。私たちは、どのような時にあっても共にいてくださる方、救いの主を信じて、出ていきましょう。(笠井元)