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2022.10.9 「希望を造り出す神の知恵」(全文) 箴言8:22-31

1:  すべては神様が創造された

今日は、箴言から、神様の御言葉を頂いていきたいと思います。「箴言」と言いますと、箴言1章7節に【1:7 主を畏れることは知恵の初め。】(箴言1:7)とあるように、「知恵の書」というイメージがとても強いと思います。2章にはこのようにもあります。【2:1 わが子よ、わたしの言葉を受け入れ、戒めを大切にして、2:2 知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら、 2:3 分別に呼びかけ、英知に向かって声をあげるなら、2:4 銀を求めるようにそれを尋ね、宝物を求めるようにそれを捜すなら、2:5 あなたは主を畏れることを悟り、神を知ることに到達するであろう。2:6 知恵を授けるのは主。主の口は知識と英知を与える。】(箴言2:1-6

「知恵を授けるのは主、神様であり、知恵は神様を知る道へ導き、神様を知るということは、神様を畏れることだ」と教えているのです。今日の箇所では、最初に【8:22 主は、その道の初めにわたしを造られた】(箴言8:22)とあります。ここでは知恵のことを「わたし」とし、「わたし」とされる「知恵」は、神様の天地の創造の前に、まず神様の御業の一番最初に造られたと言うのです。天地の造り主である、神様は、すべての命の源であり、私たち人間はあくまでも被造物、神様に造られた者なのです。

 

この神様は創造主であり、人間はあくまでも被造物である、ということをはっきりと教える箇所として、聖書にはヨブ記という箇所があります。ヨブ記は、今日読まれました「箴言」の前「詩編」の前に記されています。ヨブ記ではヨブという人物が登場しますが・・・。ヨブは、【無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた】(ヨブ1:1)とあるように、神様の前に誠実に従い生きていた人物です。しかし、そのようなヨブを見たサタンが、神様に、【「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。」】(ヨブ1:9)とし、「ヨブは祝福されているから、信じているだけであり、困難にあえば、すぐに神様を呪うだろう」と言うのです。この言葉に対して、神様は、サタンに「では、したいようにしてみるがよい」とするのです。そして、サタンにより、ヨブのすべての財産は失われ、また子どももすべて殺されることになっていきます。しかし、このような出来事が起こったときにも、ヨブは神様を非難することなく、【1:21 「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」】(ヨブ1:21)と叫んだのです。その後、ヨブは、重い皮膚病にされ、妻は「神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったのですが、それでもヨブは、【「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」】(ヨブ2:10)と、言い続けるのです。まさに神様の前に誠実な人間の姿ということができるかもしれません。

しかし、この後、3章以降、ヨブは友人とのやりとりから、ついに、自分の生まれたことを呪い、3章では【3:1 やがてヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って、3:2 言った。3:3 わたしの生まれた日は消えうせよ。】(ヨブ3:1)とあり、5章では、神様に【「どうか、わたしを打ち砕き、御手を下し、滅ぼしてください」】(ヨブ5:9)と言うのです。先ほどは、神様に従う姿を、神様の前に誠実な人間の姿と言いましたが、私としては、この神様に叫ぶ姿、神様に向き合う姿もまた、神様の前に誠実な姿ということができるのではないかとも思うのです。

そして、このようなヨブに対して、神様はヨブ記の38章において、ヨブの前に立ち、このように言うのです。【38:2 これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。 38:4 わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ。 38:5 誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。】(ヨブ38:24-5)【「お前は海の湧き出るところまで行き着き、深淵の底を行き巡ったことがあるか。死の門がお前に姿を見せ、死の闇の門を見たことがあるか。お前はまた、大地の広がりを、隅々まで調べたことがあるか。そのすべてを知っているなら言ってみよ。光が住んでいるのはどの方向か。暗黒の住みかはどこか。光をその境にまで連れていけるか。暗黒の住みかに至る道を知っているか。そのときお前は既に生まれていて、人生の日数も多いと言うのなら、これらのことを知っているはずだ。」】(ヨブ38:16-21

ここでは、天地の造り主なる、神様の御前において、すべての人間があくまでも被造物であること、神様の御業のすべてを知ることはできない、小さき者として、立たされていることを教えます。私たちは創造主なる神様に造られた者なのです。それは、自分だけではありません。自分の隣にいる人も、そのすべての存在が、神様に造られた者であり、天地創造の神様の御前においては、何もできない、無知で無力な存在なのです。私たち、この世に存在する人間のすべては、神様の御前にあって、被造物として、同じところに立たされているのです。それは、生まれや、育ち、環境や、能力、そしてこの世で成功したとか、失敗したとか、そんなことは一切関係なく、また男性であろうと、女性であろうと、親であろうと、子どもであろうと、教師であろうと、生徒であろうと、牧師であろうと、信徒であろうと。クリスチャンであろうと、なかろうと、何の関係もなく・・・私たちは、すべての人間が、神様によって造られた、被造物として存在しているのです。そのような意味で、私たちは、神様の前において、すべての人間が、同じ立場に立たされている、平等であるということを知らされるのです。

そして、だからこそ、私たち人間は被造物として、神様が造られた命のすべてを、大切にする、大切にしなければならない。神様が創造された、お互いの命を、そして、自然の営みを、大切にしていく必要があるのです。

 

2: 深淵に境界を定められた

今日の箇所では「深淵」、「水のみなぎる源」「原始の海」という言葉が出てきます。これらの言葉は、創世記の一番最初、天地創造のことを、思い起こさせます。創世記の1章1~2節では、このように記されています。【初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。】(創世記1:1-2)ここで記されている「深淵」という言葉は、単に、「深いふち」を表しているのではありません。そうではなく、この世の混沌とした状態、無秩序、光の無い状態を表す言葉として用いられているのです。

混沌とした、光のない、暗闇の中にいる状態。それは秩序がなく、まさに生きる道を失った状態です。命を失った状態です。新しい命を生み出すことも、希望を見出すこともできない。そのような、まさに絶望が支配している状態を「深淵」という言葉で表しているのです。その中に、神様は、【「光あれ。」】(創世記1:3)と光を創造なされたのです。無秩序な闇の中に、神様は「秩序」という光を与え、命の無い状態の中に、命を創造されたのです。生きる道を与えられたのです。

これが天地創造の出来事なのです。

そのような意味で、この神様の天地創造というもの、それは、単に、神様が、世界の初めを創造されたということに留まるものではありません。むしろ、今、現在の私たちの生きる道、その日々の営みを、神様がいつも創造し、育んでくださっている。そこに暗闇があり、混沌としているような日々が続いていたとしても、神様は、必ず、私たちの日々の生活の中に命を与え、生きる希望を与えてくださっていることを教えるのです。

今、福岡は、夏が終わり、秋となり、少しずつ涼しい日々となり、朝晩は寒いと感じる日々ともなってきました。私たちは、もう少しすると、今度は、だんだんと冬が近づいていることを感じるようになるでしょう。この春夏秋冬という自然の移り変わりの出来事も、神様による、天地創造の出来事です。神様は、日々の生活の中、そして、そのような自然の移り変わりの中、絶えず、私たちに命を与え、恵みを与えてくださっています。神様の天地創造の出来事は、今も変わらずに続いているのです。

 その神様が、今日の箇所において、【原始の海に境界を定め、水が岸を越えないようにし、大地の基を定めた】(箴言8:29)のです。この出来事は、自然の現象として、海と、陸地に境(さかい)が設けられたということだけではありません。そうではなく、無秩序の状態、命の無い状態、混沌の状態、「深淵」に、もはや越えることのできない境界線を定められたという出来事でもあるのです。つまり、神様は、絶望の状態に境界を定め、その境界線から、神様の秩序、光の支配する、まさに命を営み続けられているところ、希望に満ち溢れているところを定められたのです。そして、私たち被造物は、創造主なる神様の定められた、秩序ある世界、命の世界、希望に満ち溢れている世界に、今、生かされているのです。

 

3:  神の知恵 イエス・キリスト

 今日の箴言では、神様の天地創造の業が行われたとき、すでに知恵が、そこに存在していたと記されています。これは、神様が天地創造をなされる時に、その知恵を必要とされたことを意味しています。命と秩序の創造、光と希望の創造の業をなされるときに、神様自らが、この知恵を必要とされていたことを表しているのです。そのため、この箴言が語っている知恵、神様の知恵というものは、命のないところに、命を生み出し、秩序のないところに秩序を生み出す、神様の知恵です。闇の中に光を与え、絶望の中に希望を与える、神様の知恵なのです。私たちは、この神様の知恵を頂いていきたいと思うのです。そしてこの神様の知恵によってこそ、初めて、本当に、生きる者とされるのです。 

この神様の知恵を私たちが知るために、イエス・キリストはこの世に来られました。つまり、それは、神様の与えてくださっている希望の道、命の道を歩むためです。神様は、無秩序のところに、秩序を生み出し、命のないところに、命を生み出し、光のないところに光を生み出さった。このことを、私たちはイエス・キリストを通して、そして、その十字架と復活を通して、神様の恵みとして頂くのです。イエス・キリストは私たちのために、この世に来られ、十字架の上において死なれました。十字架は、苦しみの象徴、痛みの象徴、そして死と絶望が表されたものです。神の御子イエス・キリストは、十字架という、死、混沌の中、無秩序の中へ向かわれたのです。しかしまた、この十字架で死に、そのうえで、イエス・キリストは復活されました。この復活によって、死に勝利されたのです。神様は、死に勝利され、死に命を、闇に光を、無秩序に秩序を創造された。新しい命、新しく生きる道、希望の道が創造されたのです。神様は、このイエス・キリストを通して、その十字架と復活をもって、私たちに、希望を見出す知恵を与えられているのです。

 

4:  神様の知恵を頂いて生きる

 箴言は、私たちに、人間の知恵ではなく、無秩序の中に、秩序を生み出し、絶望の中に希望を生み出した、神様の知恵、イエス・キリストに従い、創造の業を一端を担う者として生きることを教えています。私たちが、自分自身の内側から、知恵を絞り出していくのではなく、人間の、傲慢で、欲望に満ちた知恵ではなく、神様から与えられた知恵、イエス・キリストによる恵みの知恵によって、生きていきたいと思います。それは、創造主であり、私たちの造り主である、神様の前にあって、私たち被造物である、人間は、すべて同じ立場にいること、そして、おごり高ぶることができないということを知ることです。私たちは、お互い、小さく、弱い者であり、しかし、その中で、お互いが、赦されて生かされていること、赦されて、日々、神様から、命を頂いていることを覚えていきたい。私たちが、神様の秩序、神様の命、神様の希望、そして、神様の知恵の中で生きるということは、そのように、お互いの弱さを受け止めてくださっている神様を覚えて、共に歩むことです。自分だけではなく、他の誰かだけでもなく、すべての人が、神様によって、赦されて生かされている。赦されて、受け止められている。だからこそ、私たちも、お互いの弱さや欠点を知る中で、共に歩むのであります。それがイエス・キリストによって示された、神様の知恵の道です。神様が私たちに与えてくださり、今も、与え続けている命の道です。

 私たちは、このイエス・キリストによる、神様の知恵、神様の命をいただき、歩んでいきたいと思います。イエス・キリストは、私たちの命の営みの中に、すでに来てくださっている。すでに、私たちを導き、励ましてくださっているのです。だからこそ、私たちは、このイエス・キリストによる、神様の知恵を受け取り、共に歩む者とされていきましょう。そして、お互いの弱さや欠点を、イエス・キリストが受け止めてくださっている現実を受け止め、その中で、私たちも、お互いに受け止め合う者、支え合う者とされていきたいと思います。(笠井元)