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2022.10.2 「権威と力ある御言葉」(全文) ルカによる福音書4:31-37

1:  科学的な現代

 今日は、イエス様がガリラヤのカファルナウムにおいて、悪霊を追い出された場面となります。

 ここで、汚れた悪霊に取りつかれた男が登場します。私たちは、この悪霊というものをどのように捉えることができるでしょうか。現代は、この悪霊というもの、それだけではなく目に見えないものについては、非常に変わった理解をしている時代だと思うのです。

幼稚園では、キリスト教保育を学ぶためにキリスト教保育連盟が発行している、「キリスト教保育」といった冊子があります。幼稚園の教師は、キリスト教保育について学ぶため、この冊子を毎月読み、学んでいます。ただ、2021年度より、ペンテコステについての学びがなくなってしまいました。最初は何かの間違いかと思い、出版先の方に尋ねたところ、「ペンテコステ、聖霊というものは、目に見ることができないし、キリスト教ではない教師にはわかりにくいため、これからペンテコステについての学びはしないことになりました。」と言われ、とても驚きました。目に見えないという意味では、現在の私たちにとっては、イエス様も神様も同じです。キリスト教ではない教師にわかりにくいから・・・という理由にもショックでしたし、また、わかりにくいから、教師が学ぶことをやめるという姿勢にも、とてもショックでした。

 現代は、科学技術の進んだ時代となります。そのため、多くの人々は、目に見えないもの、存在が科学的に証明されないもの、人間の知恵、知識で理解できないものは、信じようとはしない時代となっています。しかし、その一方では、テレビでは幽霊や妖怪といった非科学的なものが、いくつも放送されています。先日も、幽霊の存在を科学的に証明しようといった内容の番組がなされており、最終的には、それは証明されないながらも、最後は、「この研究は今も、これからも続いていくだろう。そして結果は、まだまだ分からないのである」といった余韻を残した終わり方をしていました。ある意味、現代は、科学においてすべてを理解しようとしながらも、そのような非科学的なものを求めている。そのような時代ということができるのかもしれません。人間の限界を感じつつ、それを超えた力があることを感じている。しかし、そのような非科学的なものは信じることができない。信じてはいけないと思っているのではないでしょうか。

 

2:  悪霊に取りつかれる

 聖書には、目に見えないもの、人間の考えを超えるものがたくさん登場します。まず神様ご自身がそうでしょう。世界を創造し、人間を造られた方を、被造物である人間が、そのすべて理解しできると思うこと自体、傲慢というべきでしょう。その中で、今日の箇所では、悪霊に取りつかれた人が登場します。私たちは、この悪霊に取りつかれているということを、どのように理解することができるでしょうか。悪霊に取りつかれたといったということを、どのような状態として見ることができるのでしょうか。ここで、悪霊はイエス様のことを「神の聖者」と言います。「神の子、救い主、イエス・キリスト」を、まさに悪霊が「神の聖者」と告白しているのです。悪霊。それは、神のことを神と知り、イエス・キリストを「神の聖者」と理解するものである。そしてその神様と人間を切り離そうとする力ということができるのではないでしょうか。ここで悪霊「ナザレのイエス、かまわないでくれ」とも叫んでいます。悪霊はイエス様に、「自分にはかかわらないでくれ」と叫んでいるのです。

 イエス様と私たちを切り離すもの、悪霊をそのように考えるならば、わたしたちの近くには多くの悪霊が存在していると見ることができるのです。それこそ、肉体的な病、突然の困難、危険。「なんでこんなことが起こるのだろう」といった神様への不信感を起こすもの。家族といった、愛する者の死。隣人との関係のトラブル。心を騒がせ不安、不信、恐れ、恐怖を与えるもの。様々なものから、「神様なんて信じられない」「イエス様による愛など受け入れられない」と思わされていくのです。

 私の後輩で、神学校を卒業し、牧師になり、さてこれからといったところで、突然の病に侵されていったことがありました。ある意味、病気になることは、当然、誰にでも起きることです。ただ、その後輩は、自分が病気になったことから、「自分が牧師にはなってはいけないんだ」と考えるようになり、結果、牧師を辞めていきました。もちろん続けることもできたはずです。しかし、そういう意味では、体よりも、心がおかされてしまっていったのです。

 私たちは、肉体的な痛みを持つ中で、精神的にも疲れを覚えます。そして精神的な不安は肉体にも影響を及ぼすのです。そのような意味で、癒しというものも、肉体的な回復は精神的にも平安を与え、精神的な安らぎは、肉体をも回復させていくということがあるということを覚えておく必要があるでしょう。そのような意味で、イエス様が与えてくださる癒しというものは、肉体的にも、精神的にも、そして信仰も、魂も、すべての人間としての命が癒されたということができるのです。

 

3:  御言葉を求めているのか

 悪霊に捕らわれてしまう人間。神様から切り離していく力。私たちは、様々な出来事から、悪霊の働きによって、神様から離れてしまうことがあるのです。ただ、もう少し、考えるならば、では、私たちは悪霊と戦い、神様と一緒にいようとしているか・・・と聞かれると、それもまた疑問のあるところとなるのです。イエス様は今日の箇所の前、出身地であるナザレでは受け入れられなかったのです。人々は、「このひとはヨセフの子ではないか」として、イエス様を救い主として受け入れることができず、またその語る言葉を、神様からの言葉だと聞くことができなかったのです。イエス様は、福音を語られました。それはマルコによる福音書によれば、【時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい】(マルコ1:14)という言葉で始まりました。「悔い改めて福音を信じなさい」 私たちは、このイエス様の御言葉を求めているでしょうか。

 現在は、個人の権利、個人の意見、個人のプライバシーが守られるようにとなるなかで、個人主義が広がっています。それは新型コロナウイルスによる感染者が拡がる中で、加速していきました。この個人主義、すべてが否定されることではないのですが・・・それは、他者との関わりを閉ざしていく一つの道であり、それは自分の幸せのみを考えてしまう道になる危険性があるのです。そのような、私たちに、「悔い改めなさい」「互いに愛し合いなさい」といった言葉は必要のない言葉、むしろうっとうしい言葉となるのかもしれません。自分のために生きていきたい。神様など必要ない。それこそ、今日の悪霊の言葉「構わないでくれ」とする。まさに自分から神様を追い出し、悪霊を迎え入れている。そのような者となっていないでしょうか。

 

4:  権威ある御言葉を届けられる方 聖霊

 この時、イエス様は悪霊に「黙れ。この人から出ていけ」と言われました。そして、この言葉を受けて悪霊は男から出ていったのです。人々は、この出来事を見て、このイエス様の言葉の権威と力に驚いたのです。このイエス様の権威ある言葉は、今日の箇所32節でも、人々に教えられていたのです。イエス様は安息日ごとに、人々に権威ある言葉を語られていた。汚れた悪霊を追い出すほどの権威と力ある言葉、神様の権威ある言葉を語られていたのです。礼拝における神様の言葉、それはこれほどの力があるのです。私たちもまた、毎週、このように、神様の御言葉を聞いています。ここでは、汚れた悪霊を追い出すほどの権威と力ある言葉と同じほどの、神様の権威ある言葉が語られていることを覚えたいと思うのです。

 聖書からいただく、神様の愛の御言葉。この言葉には力があるのです。私たちの心にある不安や不信、恐れといった心に、平安を与えてくださる言葉。生きる希望を与えてくださる言葉なのです。そして、この御言葉を、私たちの心に届ける方、権威ある言葉とされるのが聖霊なのです。

 私たちは、この神様の愛の御言葉を受け取っていきたいと思うのです。「構わないでくれ」と語る悪霊に、イエス様は「黙れ」「この人から出ていけ」と言われました。イエス様の言葉、それは関わる言葉、関係を作る言葉であり、それは聖霊の働き、神様と人間、人間と人間の関係を作り出す方、聖霊による導きの業として見ることができるのです。神様は、この世界にイエス・キリストを送ってくださいました。そしてこのイエス・キリストをもって、私たち人間と関わる方となられたのです。ここに神様の愛があるのです。

 私たちは、不安や恐れの中、「関わらないでほしい」と神様を拒否してしまうことがあります。それこそ悪霊の働きによって、もう神様なんて信じられない、信じたくない、だれも信じたくない、だれも自分を受け入れてくれないと思い、心を閉ざし、閉じこもってしまうことがあるのです。 それでも、神様は、私たちから離れることはないのです。自らが、傷つき、どれほど、ボロボロになっても、たとえ命を落とすことになろうとも、神様は、私たちから、離れることはありません。神様は、決して私たちを放さない。それがイエス・キリストの十字架によって示された、神様の愛なのです。 

 

5:  権威と力と慈しみに溢れる愛の言葉

 今日の箇所において、このイエス様の「黙れ。この人から出ていけ」という言葉を受けた悪霊は、この男を人々の中に投げ倒し、しかし、何の傷も負わせずに出ていったのです。私たちには、神様の愛を受け入れたいという思いもあれば、自分の生きたいように生きていきたいという心もあるのかもしれません。平安でいたいという心もあれば、他者を傷つけてしまいたいという思いに陥ることもあるでしょう。イエス様に「関わらないでくれ」と思う心もあれば、「一緒にいて欲しい」「愛してほしい」という思いもあるのではないかとも思うのです。人間の心はそれほど簡単なものではないと思うのです。

 

 イエス・キリストは、そのような私たちの心にきてくださり、徹底的に関わり続けてくださるのです。それは、投げ倒されるほどの衝撃、力なのでしょう。イエスの福音を宣べ伝え、多くの手紙を記したパウロも、その回心の時に、地に倒されたのです。神様の御言葉には、それほどの力があるのです。そしてまた、それでも、その言葉は、「その者を傷つけることはない」とあるように、力と共に、慈しみに溢れた愛の言葉でもあるのです。私たちは、神様の権威ある言葉、力ある言葉、そして慈しみに溢れる言葉に耳を傾けていきましょう。この世には、多くの悪霊の働きがあります。私たちの心を神様から切り離していく力が働いているのです。だからこそ、この日々の礼拝の中で、神様の愛の御言葉を聞いていきたいと思うのです。神様の、その一つ一つの御言葉から、私たちは、平安をいただき、希望をいただいていきたいと思います。(笠井元)