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2022.5.15 「わたしはいつもあなたがたと共にいる」(全文)  マタイによる福音書28:16ー20

1:  御言葉の力

今日の箇所の前28:10において、イエス様は、マグダラのマリア、そしてもう一人のマリアに、【恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる】(28:10)と言われました。マグダラのマリア、そしてもう一人のマリアは、イエス様が十字架で死なれた後、その墓に行き、そこで復活のイエス・キリストに出会っていったのです。そして、この復活のイエス・キリストの言葉を受け、弟子たちに、イエス様の言葉を伝えたのでしょう。「ガリラヤへ行きなさい」。弟子たちは、二人の女性からこの言葉を聞いたのです。 この時の、弟子たちの思いはどのようなものであったのでしょうか。弟子たちは、イエス様が捕らえられる中、散り散りに逃げ出しました。イエス・キリストが十字架の上で痛み、苦しみ、死なれていく中で、先ほど挙げました女性たちは、その場でイエス様の死を見守っていました。しかし、弟子たちは、そこにいることが出来なかったのです。確かに弟子たちは、イエス様の弟子として従っていたのですから、同じように捕らえられる危険性がありました。イエス様と同じように、十字架刑にされると思ってもおかしくはありません。そのような危険の中、弟子たちは、散り散りに逃げ、恐怖におびえて隠れていたのです。そのような思いにあるなか、弟子たちは、二人の女性から、「イエス様が復活されました。ガリラヤに行くように教えられています」と聞いたのです。「ガリラヤへ行きなさい」。弟子たちは、この言葉を聞いた時にどのように思ったのでしょうか。喜び踊るように歩き出すことができたでしょうか。どちらかと言えば、不安や恐れの中でこの言葉を聞いたのではないでしょうか。しかし、それでも、不安の中、弟子たちはガリラヤへと歩き出したのです。これが今日の弟子たちの姿です。弟子たちは、不安の中、恐れの中にあって、イエス・キリストの言葉を聞いた。そして新しい道を歩き出したのでした。

復活の描写は、それぞれの福音書で違いがあります。ヨハネによる福音書では、20章では、鍵をかけて家の中で恐れていた弟子たちの中に、イエス様は、その真ん中にきてくださった。そして弟子たちは、主を見て喜んだことが記されています。ヨハネによる福音書では、その場にいなかったトマスは、【「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」】(ヨハネ20:25)と言い、トマスはイエス様に出会い、復活を信じたのでした。このトマスにイエス様は【「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」】(ヨハネ20:29)と言われたのでした。ルカによる福音書24章36節からの場面では、イエス様が自らの手足を見せ、焼いた魚を食べて見せる場面があります。このように、ヨハネとルカでは、弟子たちが復活のイエス・キリストに出会う場面が記されており、その復活に出会うことから、変えられていくという姿を見ることができるのです。

 それに対して、今日の場面において、弟子たちは、復活のイエス・キリストに出会い、新しい道を歩き出したのではないのです。弟子たちは、イエス・キリストの復活と御言葉を二人の女性から聞きました。このイエス・キリストの言葉「ガリラヤに行く」という言葉は、以前イエス様が最後の晩餐の時にも語られた言葉でもありました。弟子たちはこのイエス様の御言葉を受けて、新しい道を歩き出したのです。不安や恐れの中、弟子たちは、イエス・キリストの御言葉によって、変えられていったのです。ここに神様の御言葉の力を見るのです。神様の御言葉。それは、主イエスが共にいてくださることを聞く言葉なのです。イエス・キリストが私たちと共に生きてくださる。私たちを愛し、共に苦しみ、共に痛み、共に喜んでくださる。その現実の出来事をいただく言葉なのです。だからこそ、そこには確かに復活のイエス・キリストという、新しい命の力があるのです。暗い中、不安の中、後ろ向きに歩いている人、自分のことを愛せない人、希望を持てない人、そのような、私たちの心を変えてくださる。神様の御言葉には、それだけの力を持っています。神様の御言葉には、復活のイエス・キリストに出会うのと同じだけの力があり、人間の心に勇気と希望を与える力があるのです。

 

2:  疑う心を持ちながら

 弟子たちは、不安や恐れの中、イエス・キリストの御言葉を受けて、歩き出しました。そして復活のイエス・キリストに出会っていくのです。弟子たちは、イエス様に出会いひれ伏し、礼拝をしたのです。しかし、ここでは「疑う者もいた」とあるのです。弟子たちの中には「疑う心」があったのでした。これは、誰かが信じていて、誰かが信じていなかったというよりも、誰もが、信じてイエス様に礼拝をする思いを持ちながらも、それでも誰もが「疑う気持ち」も持っていた。つまり、信じる心と疑う心が入り混じる中、弟子たちは、イエス様の前にひれ伏したと読むことができるでしょう。私たちは100%神様を信じることができるでしょうか。私たちは完全なる信仰を持つことができるのでしょうか。それこそ、十字架の前にペトロは、【「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と】(マタイ26:35)と宣言したのです。しかし、実際のところは、イエス様のことを3度も知らないと言うこととなっていったのでした。これが人間、私たちの姿なのです。自分では100%神様を信じている、裏切ることなどありえないと思うほどに強い思いを持っていたとしても、それでも、実際のところは、どこかで、疑い、どこかで信じることができない弱さを持っている。これが人間なのです。

 私たちは、自分を完成した人間、聖なる者としていくことが求められているのではないのです。むしろ、完全なる者となることのできない、自分のことを認めること。そしてそのような弱さをも含めて自分のことを愛してくださる、神様の愛を頂くこと、それが信仰なのです。人間は完全な者にはなれません。時に信じ、時に疑い、時に不安に思い、時に平安を頂く。時に希望を持つこともあれば、時に絶望に陥ることもある。そのような不安定な人間を、神様は変わることのない愛で包んでくださっているのです。神様は変わることなく、私たちに手を差し伸べてくださっている。私たちを愛してくださっているのです。信仰。それは、そのような疑いを持つ自分の弱さを認めつつ、それでも愛してくださっている神様の愛を受け入れていくことなのです。ここで、弟子たちは、まさに疑う心を持ちながら、それでもイエス・キリストにひれ伏した。疑う心を持ちながらも、復活のイエス・キリストに出会い、すべてを包んでくださる神様の愛に触れていたのです。

 

3:  いつも共にいる

このような疑いや恐れの中でも、歩き出してきた弟子たちに、イエス様は語られました。【「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」】(28:30)これこそキリスト教の教える福音の中心の言葉です。マタイによる福音書は、この「神様が共におられる」ということを伝えます。マタイによる福音書の最初、イエス様の誕生の場面では、このように記されています。【「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。】(マタイ1:23)マタイは、この福音書の始めに「神は我々と共におられる」と伝え、そしてその最後にも「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と伝えたのです。マタイはこの「主が共におられる」ということ、十字架で死に、復活された方、新しい命を創造し、無から有を造り出し、絶望に希望を造り出す方、イエス・キリストがいつもあなたと共におられるということを伝えているのです。

 マザー・テレサはこのように言いました。「愛の反対は憎しみではなく無関心である」「最もひどい貧困とは、孤独であり、愛されていないと感じることなのです。」

皆さんは、「自分は孤独だ。だれもわかってくれない」と思ったことがあるでしょうか。私たち人間にとって、一番苦しいこと、「最もひどい貧困」とされることは「孤独」であり、「愛されていない」と感じることなのです。大きな病気になったとしても、不安や苦しみに出会ったとしても、その思いを共に共有できる人がいるとき、私たちは本当の絶望に陥ることはないのです。本当の絶望。それは、孤独です。誰にも愛されていない。そして、誰も愛したくない。そのような思いに陥っているときに、私たちは生きる勇気、生きる希望を失っていくのです。そして、私たち人間は、お互いに必ず何かしら違いを持つ者であり、お互いのすべてを理解することはできないのです。つまり、ある意味すべての者が、自分の力、人間の力だけでは、深いところではいつも「孤独」を感じているのかもしれません。しかし、だからこそ、神様はイエス・キリストをこの世界に送って下さったのです。このイエス・キリストの十字架と復活によって、主なる神は、人間と共に生きる者となってくださったのです。

神様は、このイエス・キリストの十字架を通して、私たち人間と共に生きる道を開かれたのです。そして、その復活を通して、私たち人間が、お互いを愛する、お互いを受け入れる、繋がるという道を開いてくださったのです。私たちは、神様の愛を受けて、お互いを受け入れること、お互いに愛し合う道を開いていただいた。私たちは「孤独」から解放された。もはや私たちは一人ではないのです。

 

4:  すべての民を弟子にしなさい

 

イエス様はこのように言われました。【「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」】(28:18-19主イエス・キリストがいつも共にいてくださる。私たちは、この神様の愛を伝えていきたい。イエス様が、私たちを愛して、隣にいてくださることの喜びを、伝えていきたいと思うのです。イエス・キリストは十字架で死に、復活されました。この復活によって、「共に生きる」道が開かれたのです。私たちは、このイエス・キリストの復活によって開かれた道、共に生きる道を歩き出したいと思うのです。弟子たちは、イエス様の言葉を聞いて、不安や恐れを持ちつつも、ガリラヤへと歩き出しました。そして、全世界へと歩き出すように教えられたのです。私たちがイエス様に従う道は、喜びだけではなく、不安や恐れに襲われることもあります。私たちが生きるこの日常では、様々な思いが生まれてくるのです。私たちは、喜び、悲しみ、安心、不安、希望、絶望、様々な思いの中に生きているのです。このような中で、私たちは、イエス・キリストによる恵み、神様が共にいてくださるということを信じて、歩き出したいと思います。わたしたちは、ただ、神様の愛が世界中に広がるために、そして、一番そばにいる一人の人間が、イエス・キリストに出会うために、その愛を分かち合っていきたいのです。そのために、祈りましょう。そして、神様の復活の御言葉を受け取っていきましょう。そして、その御言葉をもって歩き出したいと思います。(笠井元)