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2022.3.27 「イエスの死により救いを得る~負いきれない罪の重さ~」(全文)  マタイによる福音書27:11ー26

1:  ピラトの裁判

 今日の箇所は、イエス様がピラトから十字架刑の判決を受ける場面となります。ここではピラトが、毎年、祭りの度ごとに囚人を一人釈放していたとあります。そして、ここではバラバがイエス様の代わりに釈放されるのです。この記事は、すべての福音書において記されているのですが、ピラトが毎年、囚人を釈放していたということは、マルコとルカには記されていません。また別の文献にも記されていない事柄であり、ピラトが、実際に毎年行っていたのかは議論されているところとなります。ただ、実際に行っていたかどうかは別にしても、ピラトにはそれだけの権限があり、政治的にユダヤを統治する者として、一人の人を赦すことで、群衆からの支持を得ようとしたということは、考えられることなのです。 ピラトは、その権限を持っていた。そしてそれだけの責任を持つ者であったのです。そのような権限と責任を持つ者として、一人の囚人を釈放したのです。ピラトはイエス・キリストが妬みにより連れて来られた者であり、正しい者だと知りながら、その者を十字架刑とし、暴徒であったバラバを釈放したのです。これが今日の箇所において、起こった出来事です。

 

2:  群衆という存在

 この時、群衆は釈放される者として、イエス・キリストではなく、バラバ・イエスの方を選んだのです。これは祭司長たちや長老たちによる扇動によるもので、人々は、その口車に乗せられて、「バラバを釈放しろ」と叫んだのでした。バラバとは、マルコやルカにおいては「暴徒の一人」「殺人をした者」とされる人でした。つまり、ローマ帝国に対して反逆の行動を起こし、帝国の権力に対抗して暴動を起こし、人を殺したほどの罪人(ざいにん)であったということです。このバラバを、マタイでは「評判の囚人」(27:16)としています。「評判」とは、別の箇所では「有名な」「名の知れた」と訳されており、「悪名高い」「良く知られている」という意味となるのです。バラバとは、ローマ帝国からすれば、ローマの権力に対する反逆者であり、危険分子であったのです。しかし、それはユダヤの人々からみればローマ帝国の権力に対抗して、ユダヤのために運動を起こした者として見ることもできたのです。それこそ「評判」、「有名」な人だったのです。

 群衆はこちらのバラバの釈放を選んだのです。バラバは力で自分たちを押さえつけるローマ帝国に対し、同じように力で対抗しようとした者でした。それこそ剣によって人々を解放しようとした者なのです。このときの群衆は、心から「バラバを助けてほしい」と願っていたわけではなく、祭司長たちや長老たちの思いに誘導されて「イエスを殺そう」と誘導されたのです。自分たちにとって邪魔な者、イエスを切り捨てたいと思う人々の思いに乗せられて、人々はバラバを選んだのです。

 

 

このときの群衆の姿を見るときに、群衆というものの集団の恐ろしさを感じるのです。群衆とは何でしょうか。それこそ群衆とは、名前のない、顔も見えない、主体性のない、責任をとらない、それでいて確かに力を持つ存在ということができるのです。ここではローマの総督を動かすほどの力を持っていたのです。衆は、イエス様がエルサレムに到着したときは、喜び、賛美して迎えたのです。その後、祭司長たちは、この「群衆」という存在が恐ろしくて、イエス様を捕らえることができなかったのです。

つまり、群衆という存在は、祭司長たちが動くことができなくなるような、力をもっていたのです。それに対して、ここでピラトは、逆にこの群衆の力を恐れてイエス様を、正しい者と理解しながらも、釈放することができず、十字架刑としていったのです。 この時、群衆の個人、一人ひとりがイエス様を殺したいほど憎んでいたわけではないでしょう。群衆の一人ひとりがピラトの立場、その権限と、責任を持つ者として立った場合に、すべての人が躊躇なく十字架刑にすることができたとは思わないのです。しかし、人間が集まり、群衆になる中で、躊躇なく「イエスを十字架につけろ」と叫んだのでした。それは、ただ祭司長や長老たちに誘導されてであり・・・主体性はなく、しかも、このあと「その血の責任は、我々と子孫にある」(25)と言いましたが、実際には、それほどの責任を一人ひとりが持つとは考えてもいなかった者として・・・つまり責任を持たない存在として、「イエスを十字架につけろ」と叫んだのです。この場面を読み取るときに、気を付けておきたいこととして、この記事から、キリスト者が、この時の群衆、ユダヤの人々を、救い主を十字架につけた張本人として虐殺していったことを忘れてはいけないのです。このときの群衆は、罪ある人間である私たち自身なのです。私たちはこのことを間違えてはいけないでしょう。

 現代は、この主体性も責任も持たない群衆という存在が膨れ上がり、その力が非常に大きくなっています。それこそ、インターネット、SNSなど、誰でもどこでも情報を発信、拡散をすることが簡単にできることになった今は、この群衆、目に見えない、名前のない、責任をもたない、主体性のない群衆の力はとても大きくなっているのです。そしてこの群衆による力が、大きな力として、社会全体を動かし、時に人間の命を飲み込んでいくこととなっている。それほど大きな存在となっているのです。私たちは、この「群衆」という存在の恐ろしさを覚えると同時に、自分がその一部として存在しているということ、自分の発信する些細な情報が、大きな影響力をもつときがある、その情報によって、人を傷つけていくという恐ろしさを覚えておく必要があるのです。そしてまた、このとき群衆を誘導した祭司長たちや長老たちのように働きかける力、誘惑の力が、私たちの周りにいつもあることと、そのような誘惑にさらされているということを覚えて、日々の生活の中における選択、選び取りをしなければならないということなのです。

 

3:  責任から逃れようとしたピラト

 この時、19節にあるように、ピラトの妻は、夢の中で、イエス様の正しさを教えられました。この出来事からは、イエス様の誕生の時に、東の国の占星術師たちが、夢でヘロデのもとに帰らず、回り道をして帰るように示されたことを思い起こします。ピラトの妻も、イエスを殺してはならない、イエスは正しい人であると夢で教えられたのでした。イエス様の誕生の時、東の国の占星術師たちは、夢で示された通りに、ヘロデの下を通ることなく、帰っていきました。しかし、ピラトはその妻の助言を聞くことなく、イエス様を十字架刑としていったのでした。ピラトはこの自分の判決が間違っていることを理解していたのです。だからこそ、この判決から発生する責任は自分にはないとしようとしたのでした。ピラトは、水で自分の手を洗うことから、この判決においてピラトは「私には責任はない、お前たちの問題だ」(24)としたのです。ピラトは、強い力、大きな声、ここで言えば群衆の叫びが「ねたみ」から誘導されたものであり、間違っていることが分かっていながらも、その言葉に従っていったのです。ここに、人間の弱さを映し出しているのです。しかも、ピラトは、その判決の責任からはなんとか逃げようとした。自分はしたくてするのではない、自分には何の責任もないとした。その責任からなんとか逃げ出そうとした。これがピラトを通して表された人間の姿なのです。

 

4:  人間の罪を負われたイエス

今日の箇所において、イエス様は、この十字架刑という判決を、無言で受け入れられていきました。イエス様は、ゲッセマネにおいて、神様に「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(26:39)と祈りました。そのうえで、この十字架の道を進む中、イエス様は、すべての出来事を受け留めていかれた。それは、その道が神様の御計画であると受け入れていっていたとみることができるのです。イエス・キリストは、この十字架への道が神様の御心として、受け入れられていったのです。そして、この出来事を通して、私たち人間の罪のために死んで行かれたのでした。

この時、イエス様の死は、バラバの救いに繋がっています。この時、バラバ本人には救われる要素はなかった。しかし、バラバは赦されたのです。それは、バラバが何かを持っているからでも、何かをしたからではなく、ただただ、イエス・キリストが十字架刑にされることによってバラバが救い出されたのです。先々週に、松見先生がヨハネによる福音書から、このバラバについてお話してくださいました。そのときにこのように語られました。「キリスト教では、すべての人の身代わりになってイエスは死なれたと言いますが、ヨハネ福音書によれば、歴史的には強盗バラバの身代わりにイエスは処刑されたわけです。そうであれば、私たち、神の栄光と正義と愛を略奪し、隣人の存在を傷つけ、隣人の富をむさぼり取る私バラバ、皆さん、あなたバラバの身代わりになってイエス様は十字架につけられ、殺されたのです。こうして何の罪状を認められないイエスがバラバに替わって殺されたのであり、バラバが釈放されたのです。」このバラバは、まさに「わたし」であり、「あなた」なのです。イエス・キリストは、この「バラバ」としての「わたし」そして「あなた」のために苦しまれた。そして、このイエス様の苦しみによって、私たちは神様の赦し、救いを頂くのです。

 

以前、私が神学生だったころ、「バラバ」という題での劇を行ったことがありました。だいぶ前の話になるので、細かい内容は覚えていませんが・・・その内容は、罪人として捕らえられ、明日にでも死刑となるはずのバラバ。その姿は、一人の人間として死を恐れ、悩み、苦しむバラバの姿が演じられていました。そして、そのバラバが、兵士に呼ばれ、・・・ついに「死に呼ばれた」と思ったときに、何もしていないのに、なぜか牢屋から出された、なぜか救われた。そのバラバの驚き、また自分の代わりに死んでいったイエス様という存在を知ることから、最終的に、このイエス・キリストによる救いが、神様の愛によるものを知るところへとつながっていくという内容でした。バラバはまさに、イエス様の十字架によって直接、救われた者です。バラバは本来は自分の罪の責任を負わなければならないはずであった。しかし、その責任を、イエス・キリストが負われたのです。

 この責任という意味では、ピラトはその責任から逃れようとし、今日の箇所の前では、イスカリオテのユダが、その責任の重さに耐えきれず、自死していったのです。この姿から、人間には負うことのできない罪の重さを見るのです。わたしたちはこの、私たち自身では負うことのできない、大きな罪を背負って行かれたイエス・キリストを見るのです。その方の担われた罪の重さ、責任の大きさを見ていきたいのです。そして、自分には、これほど大きな、自分の罪を負うことはできないことを自覚する中で、だから逃げるのでも、だから人生をあきらめるのでもなく、だからこそ、この私たちを背負ってくださる、神様の愛の大きさを知っていきたいと思うのです。

 イエス・キリストが、私たちのために死んでくださった。私たちのすべての責任を背負ってくださった。それほどに、神様は私たちを愛してくださっているのです。今、私たちは、ただ自分を神様に委ねたいと思うのです。ただ神様の愛にすべてを委ね、生きていきたいと思います。(笠井元)