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2021.12.12 「主なる神はあなたを喜ぶ」(全文)  ゼファニア書3:14ー17

 主イエス・キリストの誕生をお祝し、神の最終的勝利の日を待ち望む待降節第3主日を迎えています。3本目のロウソクに火が灯りました。ローマ・カトリック教会のある年の待降節第3主日に読まれる聖書箇所の一つがゼファニヤ書314節~18節前半です。私たちはバプテストであり、ローマ・カトリックではありませんが、その違いはそんなに大きなことではないでしょう。

 まず、ゼファニヤ書の聖書本文を読んで、心に響く言葉は、「娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ」という呼びかけです。当時の信仰の中心地であったエルサレムはシオンと呼ばれる小高い丘に建てられており、都市は女性名詞であるので、「娘」と呼ばれています。印象的なことは、「喜び叫べ」「歓呼の声をあげよ」「心の底から喜び躍れ」とあり、「喜び」がこの個所の基本的響きであることです。預言者ゼファニヤは私たちを喜びへと招きます。喜びこそ主なる神の到来を待つ信仰者の態度なのです。

 

 1.ゼファニヤが直面した状況と私たち

いったい、ゼファニヤはどのような状況の中でこのような「喜び」を語ったのでしょうか。少し過去に遡ってみましょう。ゼファニヤ書1:1には「ユダの王アモンの子ヨシヤの時代に、ゼファニヤに主の言葉が臨んだ。」とあります。アモン王の2年間(前642640)、その前のマナセ王の45年の治世時代(前687642)は、ユダ王国は北の大国アッシリヤに従属する国でした。アッシリヤはニネベを首都とするチグリス川中流地帯(現在も紛争の絶えないイラク当たりですが)を支配していた国です。すでにイスラエル北王国は前721年アッシリヤによって滅亡していました。北イスラエル王国が滅び、アッシリヤの力の前に裸同然のように残された南ユダ王国には、権力を崇拝する異教の神々と文化が流入してきました。様々な異教の偶像礼拝、主なる神への無関心、社会的不正がはびこるそのような時代でした。そのような中で、ヨシヤは父アモンが暗殺され、8歳の若さで王位に就きます。幼少のヨシヤ(紀元前640609)は周囲の預言者たちの助けによっていわば「宗教改革」を行いました。その改革は「申命記」という形で今日も読むことができます。ゼファニヤの言葉は、預言者アモス、イザヤとミカ以来、久しぶりにユダ王国で聞かれた預言者の声です。ヨシヤ王が成人になった時には、アッシリヤが衰退期に当たったため、ユダ王国には、アッシリヤから独立する機運が高まります。すると、ユダの人々は傲慢になり、主なる神に対して無関心となり、ものの豊かさのみを求めることになります。ヨシヤ王は、アッシリヤ帝国を滅ぼし(前612年)、新たに起こってその地を支配するバビロニア帝国と超大国エジプトの狭間に生きることになります。そして、ユダ王国の北東に位置するバビロニアと南西に位置するエジプトの超大国の対立に巻き込まれ、メギドの山道(ハルマゲドン)で戦士してしまいます。このようなヨシヤ王の戦士による宗教改革の挫折と、アッシリヤの首都ニネベの陥落、やがてユダ王国をも滅ぼすことになるあのバビロニアが歴史の舞台に登場するという権力バランスが崩れた危機的状況に直面します。神への無関心、社会的不正がはびこる中で、民衆はあっけらかんとして享楽に耽っています。素直には決して喜べない事情の中で、ゼファニヤは、エルサレムで預言活動を行います。ゼファニヤが語ったメッセージの中心はどこまでも「罪深い人間、ユダ王国の歪んだ誇りや高ぶりを指摘すること」でした。それを中心にしながら、3つのことが語られます。第一は1:2節にあるように、「主なる神は地の面からすべてのものを一掃する」という神の審きです。第二は近隣諸国民に対する神の評価です。そして、第三はゼファニヤ3:1418前半ですが、愛と赦しの約束、希望の部分です。民衆の罪深さと神の裁きを乗り越える神の愛、赦しの言葉が語られているのです。大国の狭間に生きるイスラエルの事情は、現在の日本に似ているのかも知れません。今年一年を振り返ると記憶に残ること、楽しいこと、喜べることを思い出すことが難しいのではないでしょうか。大リーグの大谷翔平の活躍はありました。しかし、どこか記憶喪失あるいは鬱的症状、閉ざされ、闇に支配されそうな世相です。日本の国は「失われた20年」と言われた停滞時期に引き続き、世界の中でかなり落ち込んでしまっています。そして、「敵基地攻撃能力」が叫ばれ、米軍、自衛隊の基地が拡大しています。むろん、コロナウルス感染の不安の中で、今まで変えることが出来なかったものが変えられていくチャンスの光もおぼろげに見えているのではないでしょうか。まさに、私たちの生き方が問われています。

 

2.主なる神が喜んでくださる

闇が支配しているように感じられる絶望的状況の中で、喜びが失せる中で、なぜ私たちは喜ぶことができるのでしょうか?不思議な言葉が登場します。「主はお前のゆえに喜び楽しみ/お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」主なる神ご自身が、その深い愛のゆえに、愛によってユダの民を新たにして喜んでくださる。主なる神ご自身が、私たち一人一人を愛し、その存在を喜んでくださる!私たちが何とかして喜ぼうと無理するのではないのです。神があなたを受け留め、喜んでいるから(yāśîśyāgîl)その神の喜びに与って私たちも喜ぶのです。クリスマスは、夜の一番長い冬至の季節に祝われます。その日以来、少しづつ、日が長くなり、やがて、永遠の朝が明け染める「その日」が到来するのです。主なる神がシオンの娘たちを「喜び楽しみ」「喜びの歌をもって楽しんでくれるから」、それを根拠にして神の喜びを根拠にして、私たちも喜ぶのです。私たちの希望の喜び、喜びの希望は、苦難、忍耐、練達を経た上での希望であり、喜びです。主なる神がわたしを、あなたを喜んでくださる! だから私たちは喜べるのです。

 

3.インマヌエル:神我らと共にいます

預言者イザヤが語ったインマルエル=「神われらと共に(with)います」という言葉が、約100年後ゼファニヤの言葉の中に再び響きます。「主はお前に対する裁きを退け/お前の敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない」(15節)、「その日、人々はエルサレムに向かって言う。『シオンよ、恐れるな/力なく手を垂れるな。お前の主なる神はお前のただ中におられ/勇士であって勝利を与える。』」むしろ、ここではインマルエル=神我らと共にいますが深められ、ělōhakik bəqirubêk 「ただ中に」(among)います、また、主なる神は、‘ālaik 「あなたの上を覆って」(over)と表現されています。日本語訳では「あなたのために」(for)と表現されています。主なる神は「善意と」(bəśimhāh)、「愛」によって(bəăbātōw,そして、「歌によって」(bərinnāh)わたしを、そしてあなたを、わたしたちを喜ぶであろうと約束されています。

主なる神は、イスラエルを訴える、その弱さや罪深さを責める者たち、また、教会の小ささを嘲笑る敵対者たちを退けてくださるのです。そうだからこそ、私たちは自分たちを見て、小さすぎる、弱すぎる、貧し過ぎるというこの世の裁きや自分自身を裁くことから自由になります。私たちに敵意をもっている人々を恐れることはないのです。「シオンよ、恐れるな/力なく手を垂れるな」と呼びかけられています。だから、諸々の災い、自然災害やウイルスを恐れるのではなく、信仰と希望をもって対処すればよいのです。

 

4.終末の一歩手前を生きる

では、私たちは安易で空虚な平和、平安を口にするのでしょうか?「その日」(bayyōwm)とはいつ来るのでしょうか? 39歳の若さでナチスによって絞首刑で殺されたボンヘェッファーは「終末一歩手前を生きる」という表現を用いてキリスト者の生き方を表現しています。一方で、終わりが近いと熱狂的に浮き足立ったり、諦めて座り込んだりせず、他方、終わりはまだまだ先のことであると考えて怠惰な生活、油断し、緩んだ生き方をするのではなく、「終わりのその日の一歩手前」の時を生き、歴史の事実を見つめる冷静さと信仰による希望に生きることを教えています。また、スイスの神学者カール・バルトは、「できることをするとは何と素晴らしいことか」と言っています。そして、「人は出来もしないこと、出来ないことをしようとしてもがき苦しみ、自分や他者の不甲斐なさを裁くのではない、そうだからと言って、出来ることをしない怠惰に生きるのでもない」「出来ることをするとは何と素晴らしいことか」というようなことを言っています。本来今朝は18節前半をも読むべきでした。「わたしは 祭りを祝えず、苦しめられていた者を集める」。この二年間、祭り、礼拝に出席すること、クリスマスを祝うこともできにくい私たちでしたが、当面、細心の注意を払って共に礼拝し、主なる神を賛美し、感謝をするものでありましょう。クリスマスと終わりの「その日」の到来を待望しながら、喜びをもって祝いましょう。そして、むき出しの力や効率や金だけによる支配にささやかではあっても抗いながら、弱くされた人の傍らにいて、互いに支え合う働きを担いましょう。

 主なる神の支配を心から喜び、主なる神の僕の道を歩む、新しい民として生きるかどうかが問われています。先日128日はアジア・太平洋戦争開戦80周年の日でした。主なる神の愛と赦しと救いを希望しつつ暴力によらない、新しくされた民として歩みましょう。(松見俊)