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2021.11.21 「本当の自由とは」(全文)  使徒言行録16:25ー341

1:  神の子として

今日は子ども祝福礼拝です。教会では、子どもの対象は小学生までということになります。私がこの教会に来た時に小学生以下であった子どもたちも、9年が経ち、現在では、高校生や中学生になりました。みんなが神様に守られ、まさに神様の祝福のうちに、ここまで大きく成長できたことを、感謝したいと思います。

少し前の話になりますが、9月に東ブロックの子どもキャンプ゚に行きました。「子どもキャンプ」という集まりでしたが、少子化が広がる今の社会を表すように、子どもは4人、大人は20人程と、子どもの5倍ほどの大人がいました。どちらかと言えば大人の山登りといった状態であったのでした。ただ、そのような中で篠栗教会の伊藤先生が「神様からすればみんな子どもです」と言われたことから、その通り、何歳になっても、私たちは神様の子どもなのだと思いました。

父なる神様が、御子イエス・キリストを先頭に、私たちすべての人間を自らの大切な子どもとして見ていて下さる。それこそ、私たちが、どれほど年をとったとしても、神様は私たちの事を自分の愛する子どもとして、見守っていて下さるのです。私たちの教会も、子ども、それこそ小学生以下となると、数人となりますが、その子どもたちも含め、中学生・高校生に成長した皆さん、また青年の方々、そして、壮年会、女性会の皆さんも、いくつになっても、私たちは、神様に見守られて愛されていること、神様の慈しみが注がれていることを覚えたいと思います。

 

2:  自由とは

今日は、この神様に祝福され、守られている者である、私たちが「自由」に生きるということを共に考えていきたいと思います。

今日の聖書において、パウロとシラスは牢に入れられ、足には木の足かせをはめられたのです。パウロとシラスは肉体的自由を奪われました。しかし、二人は、神様を賛美し、神様に祈ったのです。「賛美」とは、神様への感謝であり、神様の栄光を歌うことです。パウロとシラスは、何か良いことがあったから、何か良いものをもらったから神様を賛美したのではありませんでした。パウロとシラスは、投獄され、むち打ちの刑を受けて、それでもどのような状況にあっても、神様が共にいて、守ってくださっていることを信じていた。心に自由を得ていたのです。そして、そのように自由を与えてくださる神様を賛美したのです。

 

皆さんにとって、「自由」とはどのような意味をもつでしょうか。このことは、子どもから大人になっていくなかで必ずぶつかる一つの壁だと思います。いわゆる思春期は、親から離れ、自分というアイデンティティを構築していく時期となります。自分を探し、自分とは何なのか、その存在意義、生きている意味を探していく。そして、それが一つの成長と繋がっていくのです。子どもから、中学生、高校生と成長した皆さん、また青年の皆さんは、このような中「自由」とは何だと考えているでしょうか。または大人になった皆さん、皆さんは「自分の存在意義」「自分にとっての自由」というものは見つかったでしょうか。

先日、このような電話がありました。とても穏やかな声でしたが、何か力ない感じの声でした。そしてこのように言われたのです。「私はこれまで信仰を40年続けてきました。しかし、今、イエス・キリストが自分らしく生きるのに、邪魔になってきたのです。」「自分らしく生きるために、キリストが邪魔になってきた」。それこそ40年ということですから、少なくとも50才は超えている、声の感じでは60才以上の方と感じました。人生の終盤を迎えるにあたり、もっと自分らしく生きていきたいと考えられたのかなと思いました。「自分らしく」。とても良い言葉に聞こえるかもしれませんが・・・「自分らしさ」が「自分のため」に向けられるとき、それはただの「自己中心」に陥ってしまうことになるのです。それこそ、そこにある自由とは、何にも縛られず、自分のしたいことをする。自分らしく、自分のために、となっていくとき、それは、何にも縛られていないのではなく、自分の欲望に囚われ、支配されているということなのです。この方に「みんなが自分らしく生きたらどうなりますかね」と聞いてみると、「みんなが自分らしく生きたら、この世界はめちゃくちゃになってしまいます」と答えられました。つまりこの方の考えていた自分らしさとは、自分のためのものだったのでしょう。

皆さんは、自分が自由で、自分らしく生きる時、それは「誰のための自由」「誰のための自分らしさ」となるでしょうか。

 

 

3:  真の自由

パウロとシラスは牢に入れられ、足には木の足かせをはめられていました。パウロとシラスは、人間の暴力によって肉体的自由を奪われていたのです。しかし、それでも二人の心は、神様の愛に満たされていた。だからこそ、神様を賛美したのです。この二人を見るときに、本当の自由ということ考えさせられます。ローマ書ではこのように言われています。【知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。】(ローマの信徒への手紙6:16

私たちの心は、何かを心の土台として、何かを心において生きています。言い換えると、何かに支配されている。何かの奴隷とされているということです。それが富なのか、権力なのか、人間なのか、罪なのか、それとも神様による愛なのか。このローマ書では、【あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。】と言います。神様の愛に支配されるとき、私たちは神様に従う神様の奴隷として、本当の自由を得、義を得るのです。

 

4:  主イエスを信じなさい

パウロとシラスが賛美しているとき、突然、大地震が起こりました。そしてすべての囚人の鎖が外されたのです。すべての囚人はパウロとシラスの賛美と祈りによって、自由を得たのです。囚人は冤罪でない限り、この世のルールを破り、捕らえられた者たちです。教会には、「私はしてはいけないことをしてしまいました」と、苦しみのなかに飛び込んで来られる方もおられます。この世のルールを破ることを良いこととは思いませんが、その背景には様々な理由があるのです。私の知り合いの牧師は教誨師として犯罪を犯し、刑務所におられる方々に面会に行く働きを担っています。

その方から聞いた話では、犯罪を犯した方々の背景として、そこまでの背景として、家庭の問題や学校でのいじめなど、多くの心の傷があるということでした。その教誨師の方は、「犯罪は、ある意味、この世のルールでは、傷ついた心をしばりつけておくことができなくなった結果」と言われていました。

今日の箇所では、囚人を縛り付けた鎖が、賛美と祈りによって、外されていったのです。囚人たちは、このパウロとシラスの賛美と祈りによって、心に神様の愛を受け取り、心の痛み、心の傷が癒されていった。そのため、もはや鎖でしばりつけておく必要がなくなったということでもあります。人びとは、鎖や足かせ、または心の痛みなどから解放され、神様の愛に捕らえられていったのです。賛美と祈り。この神様から与えられている恵みの行為は、人の心を癒すのです。パウロとシラスは、自由を得た者として、自分のためではなく、隣人へと目をむけたのでした。

 

しかし、この状況を見た看守は自ら命を断とうとしたのです。囚人たちが逃げてしまったと思い、そうなれば必ず殺される。この世の権威、権力が許してくれるわけがないと考えたのです。つまり、この看守は、この世の権威に囚われていた。この世は、失敗や弱さを受け入れません。弱さは必要ない。そのような者は切り捨てる。これがこの世の価値観です。看守はパウロとシラスに「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」(30)と聞きます。それに対して、二人は「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(31)と教えるのです。

 「主イエスを信じる」。それは、主イエスによる神様の愛を受け入れるということ、心の中心に神様を迎え入れることです。神様は、イエス・キリストをこの世界に送り、その命を捨ててまで、私たちの隣人となってくださったのです。これが神様の愛です。私たちは、この神様の愛を受け取りたいと思います。そこに本当の自由を得ることができるでしょう。本当の自由。それは神様の愛を受け取り、イエス・キリストを自らの主と告白して生きていくことにあります。ほかの何ものにも支配されない。ただ神様の愛に支配されている。それこそ本当の自由なのです。パウロとシラスは、たとえ牢に入れられようとも、肉体的に囚われていようとも、その心は、神様の愛で満たされていました。二人は本当の自由を得ていたのです。私たちは今、イエス・キリストを自らの主と告白したいと思います。

聖書はこのように教えます。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(31「主イエスを信じる」。つまり、主イエス・キリストを自らの生きる道、心の土台とすることです。私たちは、その神様の愛を受けとり、イエス・キリストを自らの生きる土台として歩き出したいと思います。そこに、私たちは本当の自由を得るでしょう。そして、その道、その愛は「家族」へとつながり、「隣人」へとつながっていくのです。私たちは、神様が命を懸けて私たちに送ってくださった、その愛を受け取り、その愛を広げる道へと歩んでいきたいと思います。(笠井元)