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2021.10.3 「正しいことと愛すること」(全文)  マタイによる福音書26:1-13

1:  十字架に向けて

 今日の箇所では、1節において、イエス様が「これらの言葉をすべて語り終え」(1)たとされます。イエス様は24章から、終末について語られてきました。終末とは、神様の愛の完成の時です。イエス様は、神様の愛の完成の時を見つめて歩む、希望の道を語られてきました。また、もっと言えば、5章からの山上の説教など、これまでの様々な言葉を通して、神様の愛の恵みについて語られてきたのです。それら神様の愛、悔い改めのための言葉を語り終え、ここからイエス様は、福音を、自らの人生、命をかけて実現される道、十字架の道を歩き出されたのです。 

イエス様はこれまでも、マタイの17:22、20:18において、十字架について語られてきました。ただそこでは、十字架のことは未来形で語られていたのです。しかし、今日の箇所で、この十字架の言葉は「現在形」で語られました。イエス様の十字架の時が始まるのです。26章から、この十字架の出来事が始まっていくのです。

 

2:  女性の油注ぎの思い

 このイエス様の十字架の道の始まりの時、一人の女性がイエス様に極めて高価な香油をイエス様に注ぎかけたのでした。この香油は、ただの香油ではなく、「極めて高価な香油」です。8節からの弟子たちの言葉にあるように、売れば高く売ることができたのです。それほど、極めて高価な香油を、この女性はイエス様に注ぎかけたのでした。このような行為は、思い付きでできることではないでしょう。この女性にとって、この香油はかけがえのない大切な宝物だったでしょう。この時、この女性は自分にとって大切な宝物をイエス様に捧げたのです。この女性はなぜこのようなことをしたのでしょうか。この女性にはどのような思いがあったのでしょうか。

この女性の行為の思い、動機はいくつか考えられます。一つには、この女性が、イエスを王、自らの救い主として、「油を注いだ」ということです。頭に香油を注ぐという行為は、もともと何らかの特別な役割、あるいは任務への選びを意味した行為でした。サムエル記で、サムエルはイスラエルの王を選び出すときに、サウル、ダビデに頭から油を注いだのです。そのような意味では、この女性は、イエス様を自らの王とした、イエス様を自らの救い主、キリストとしたということができるのです。

またもう一つには、イエス様が言われたように、十字架の死に向かうイエス様への埋葬のための行為であったということです。当時は、現代のような火葬ではなく、土葬でしたので、死なれた人の体には香油をかけたのです。そのように、イエス様の埋葬の準備として行われたとするのです。 ただ、これはあくまでも、イエス様がそのように受け止めてくださったことであり、マタイによる福音書では、実際のこの女性の思いというものは記されていないのです。

 

 この女性がどのような思いをもってイエス様に油を注いだのか、マタイはその動機を記さなかったのです。ただ、そのように記されていないからこそ、感じることは、この女性のイエス様への思いです。この女性は、罪深い者であったともありません。またイエス様の十字架を予見していたわけでもないのです。そのような中でこの自分の宝物をイエス様に捧げたという行為には、純粋なイエス様への愛を感じることができるのです。この女性は、イエス様を愛し、イエス様に仕える者として、このような自分の大切な宝物を捧げたのです。それは同時に、この女性がイエス・キリストの愛、キリストによる救いの恵み、神様の大きな慈しみを強く感じていたとも言うことができるのです。つまり、この女性は、弟子たちからすれば「無駄遣い」に見える行為を、そのような損得勘定や、合理性、利害関係といった、人間の価値観を超えた思い、イエス様への愛をもって、この行為を行ったのです。

 

3:  弟子の非難 正しい言葉と愛する行為

 女性の行為を見た弟子たちは憤慨して、女性を非難しました。弟子たちの意見は間違った意見ではないでしょう。しかし、弟子たちの正しい言葉は、女性の愛の行為を非難した言葉となっているのです。それこそ、この女性のイエス様を愛し、イエス様に仕え、自分の宝物を捧げるという思いを否定しているのです。 

ある教会では、聖書研究会で、この箇所を学んだときに、現実に定職についていないで日雇いで暮らしていた、貧しい方が「『この弟子たちの言ったことは、まるで政治家のようだ。【貧しい人のために何々をする】と言いながら、してくれたためしがない』と言ったそうです。『貧しい人々のため』『施すため』という格好いいことを言いながら、結局のところは自分のことだけしか考えていない。」と言われたそうです。これが実際に貧しい生活に生きている人の声でした。

これが私たちの生きている社会の現実です。「貧しい人のため」と言いながら、実際のところは、すべては自分のために生きている。正しいことを語りながらも、本当のところは、自分のことしか考えていない。私自身、耳の痛い言葉です。弟子たちはこの女性の行為を「無駄遣い」と非難しました。この時、弟子たちは心から、他者を愛そうとしていたのでしょうか。「貧しい人々」を愛する中での言葉であったのでしょうか。正しい言葉、正しい行為は時として人を傷つけるのです。私たちが正しいと考え、行うことが、すべて愛の行為、愛の言葉になるわけではないのです。イエス様は、弟子たち、そして私たちに、正しい言葉を語ることではなく、愛する者となることを教えられているのです。

 

4:  私たちを受け止めて下さる方

イエス様は弟子たちに「あなたがたは間違っている」とは言われません。「なぜ、この人を困らせるのか」と言います。イエス様は弟子たちの「貧しい人々に施すことができたのに」という言葉を「もちろんあなたがたの言葉は大切な言葉だ」と受け止めてくださっている。そのうえで「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」(11)と言われました。「貧しい人々に施すこと」。それは一度きりで終わることではないのです。本当に貧しいこと。それは何ももっていないということだけではありません。本当の貧しさとは、隣に誰もいない「孤独」。これこそ本当の貧しさです。イエス様は「貧しい人々はいつも一緒にいるのです」、「だからあなた方は貧しい者と、いつも一緒に生きる者となりなさい」と教えられたのです。イエス・キリストは、弟子たちに「隣人を自分のように愛しなさい」と言われたのです。

 そして、同じように、イエス様は、この女性の行為を受け止めて下さいました。この女性の行為は、損得勘定、合理性といった人間の価値観で言えば、弟子たちが非難したように、「無駄遣い」で「愚か」なことになります。しかし、イエス様は、この女性の油を注ぐという行為を「わたしに良いことをしてくれた。」(10)「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。」(12)と言い、これから進む、イエス・キリストの十字架につながる行為としてくださったのです。イエス・キリストの十字架の道を、もし神様が愛ではなく、合理性、損得勘定で考えたならば、それは無駄で愚かな道になるでしょう。しかし、神様は、その無駄で愚かな行為、十字架をもって、私たちを愛されたのです。

 

イエス様は13節でこのように言われました。「はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(マタイ26:13)すべての福音が宣べ伝えられるところにおいて、この女性の行為が語り伝えられる。それは、福音の出来事が、そのような純粋の愛のうちに表されるからです。神様の愛は、時に、この女性の行為のように、愚かで無駄に見えるのです。しかし、そのような無駄で愚かな行為。それでも、純粋に神様を愛し、神様に仕える時、そこに本当の愛が表されるのです。わたしたちは、自分にとって正しいこと、正しい言葉だけを選び取るのではなく、無駄で愚かかもしれないが、愛する行為を選び取っていきたいと思います。そこに神様の愛、キリストの十字架による福音の出来事が表されるでしょう。(笠井元)