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2021.9.26 「わたしはあなたを離さない」(全文)  ヨハネによる福音書15:1-10

今日は、召天者追悼記念礼拝です。先に召された家族、兄弟姉妹を共に覚え、記念したいと思います。私たちが、先に召された、愛する方々を思い起こすとき、「あんなことがあった」「こんなことがあった」ということを思い起こすと同時に、そこには、その方々と自分たちがどのような関係であったのか、どのようにつながっていたのかをも、思い起こすのではないでしょうか。今日は、ヨハネによる福音書から、「神様による関係」「イエス・キリストによるつながり」について聞いていきたいと思います。

 

1:  新しい関係の始まり

ヨハネによる福音書では、今日の箇所の少し前13章において、イエス様が弟子たちの足を洗ったということが記されています。これは主なるイエス様が弟子の足を洗うことから、「お互いに仕える者になりなさい」と教えた出来事です。このとき、イエス様はすでに十字架、自らの死に目を向け、歩みだしていました。つまり、この世における別れに向かう中、イエス様は弟子たちの足を洗うという行為をもって、「お互いに仕え合いなさい」と教えたのでした。

そして、今日の箇所15章において、イエス様は弟子たちに「別れの言葉」を語ります。イエス様の十字架、イエス様の死の出来事は、別れの出来事です。イエス様が死に、召されていく時、触れること、目で見ること、言葉を耳で聞くことができなくなる。そのような「別れ」があったのです。そのような中、今日の言葉は、十字架という別れ、イエス様の死が、最後の別れではなく、むしろこの十字架という出来事によって、神様との新しい関係を与えてくださることを教えているのです。

イエス様が十字架において死なれるとき、確かに一つの「別れ」が起こった。しかし、それは最後の時ではなく、新しい関係の始まりでした。目で見て、耳で聞いて、手で触れることができなくなる。しかし、聖霊によって、私たちの内に、現臨なされるイエス・キリストを、目で見ることができなくても信じ、耳で聞くことがなくても聞き従い、手で触れることなくとも生きた交わりをもって愛する。そのようなイエス・キリストとの新しい関係が、十字架によって始まるのです。私たちは、目でイエス様を見ることがなくても、耳でその声を聞くことがなくても、心において、魂において、霊において、イエス様との生きた交わりの中に生かされており、イエス様との繋がりを保ち続けることが許されているのです。

 

2: 神様の計画

イエス様はこのように言われました。【わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。】(ヨハネ15:1-2

 ここでは、木の剪定をする農夫と、その木と枝をモチーフとして、神様とイエス様と私たち人間のつながりについて語られているのです。農夫である神様は、イエス様に結ばれている者が、豊かに実を結ぶことができるように、「実を結ばない枝を取り除くという、手入れ」、つまり剪定をなされるのです。剪定の作業というのは、木が、良い実をしっかりとつけるために、必要不可欠な作業です。その作業は、どこをどのように切っていけばよいかと、しっかり計画を立て、その計画の中で、木が実をつけるのに最適な環境を整えていくのです。神様は私たちが豊かな実を結ぶために、最適の環境を整え、その計画の中で働いてくださるのです。

私たちの人生、それこそ一日一日の生活は、神様の計画のうちにあります。そして、神様の計画のうちに行われた最大の業として、イエス・キリストの十字架の御業があります。神様は、ぶどうの木のどこをどのように切っていけばよいかと、しっかり計画を立てられ、剪定をされるように、考えに考え、私たちを愛し、私たちと共に生きるため、イエス・キリストを十字架に向かわせられたのです。この神様の計画による十字架。私たちに与えられている恵み。その十字架というイエス・キリストの死によって、神様は、私たち人間とつながる方となられたのです。

 

3:  イエス・キリストに繋がる

神様は、私たちが豊かな実を結ぶために、イエス・キリストを送ってくださいました。【わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。】(ヨハネによる福音書15:5主イエスは、ここで、私たちに「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」と語られます。枝は、枝があり木があるのではなく、木があって、枝があるのです。つまり、まず、イエス・キリストがおられる。そしてイエス・キリストに繋がる者として私たちがいるのです。

イエス様は「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」と言われました。それでも、私たちは、何でも自分でできる、イエス様など必要ないと思ってしまうことがあります。しかし、その人生の終着点はどこにあるのでしょうか。私たちすべての人間が逃げ出すことができないこと、それは、「死」です。人間はすべての者が死を迎えるのです。「死」を迎える時、私たちが、自分で手に入れたもの、自分で作ったものの何が残るのでしょうか。

 

今日は、召天者追悼記念礼拝として、私たちの信仰の先達として歩まれ、一足先に神様の御許に召された方々を覚えています。今日は、ここに、写真を飾っています。この一人ひとりのお顔を見る時に、「このような方だった」「一緒にこんなことをした」。そして「自分は、この方とはこんな関係を持っていた」と、様々な出来事と同時に、その関係を思い出すのではないでしょうか。今日、ここで覚えている方々は、神様の御許に召されたのです。私たちは、その信仰を見たいと思います。イエス・キリストは、どこにあっても、それこそ、私たちが死を迎えたそのときも共にいてくださるのです。神様は私たちを愛されている。私たちと共に生きてくださるのです。決して私たちを離すことはないのです。イエス・キリストの十字架とは、イエス・キリストが、何があっても私たちを離さないで、捕らえていて下さるための出来事です。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。】(ヨハネによる福音書15:9 愛とは、誰かと誰かの間にあるものです。父なる神様は子なる神イエス・キリストとの関係に愛を示されました。そしてイエス・キリストは、その愛の関係をもって私たちと繋がっていてくださるのです。主イエス・キリストは、どこまでも、私たちと共に歩んでくださいます。決して私たちを離すことはないのです。 私たちは、このイエス・キリストの愛の関係に留まりましょう。そこに決して失われることのない、永遠の関係、永遠の命を見ることができる。そこに、なくなることのない希望を見ていきたいと思います。(笠井元)