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2021.9.8 「すべては神の愛に支配されている」 Ⅰコリントの信徒への手紙3:18-23

1:  愚かな者になる

 今日の箇所は、1章から語られてきたこと、「人間の知恵」ではなく「神様の知恵」「十字架」を求め、分裂ではなく一致に向かうようにということの要約のような言葉となっています。コリントの教会は「自分はこの世で知恵のある者」(3:18)と考えていました。この世の知恵は「神はいない」とし、「キリストの十字架」を愚かなものとします。

ルターはこのように言いました。「人々は誰でも彼の上にあるもの、名誉や権力や、富や、知識や、よい生活、またすべて高くて大きなものは、何ものにもよらず追い求めるのである。そして、そのような人々のいるところに、人々はまとわりつき、群がり、喜んで仕え、彼らと共にいることを欲し、栄えにあずかろうとする。・・・これに反して、だれも貧乏、恥辱、苦難、悲惨、そして苦悶のある低いところを見ようとしないで、そこから目をそらす。そして、そのような人々のいるところでは、すべての人は逃げ出し、彼らを避け、畏れ、捨て去り、だれも彼らを助け、味方となり、彼らをなんとかしてやろうなどと考える者はない。こうして彼らは、低く、卑しい、軽蔑された位置にとどまらねばならない」(『ルター著作選集』)

キリストの十字架は、このようなこの世の価値観を逆転させた出来事です。神の子イエス・キリストが軽蔑される者となられ、低い者の味方となられたのです。キリストは世の価値観における「愚かな者」となられたのです。イエス・キリストの十字架に従うことは「愚かな者」になることです。パウロは「愚かな者となりなさい」、「自分の十字架を背負って、イエス・キリストに従いなさい」(マルコ8:34-35)と教えているのです。

 

2:  ヨブ記、詩編の引用

 19、20節は旧約聖書のヨブ記と詩編から引用した言葉となります。パウロはこれまでイザヤやエレミヤ書からの引用をしていました。様々な箇所から引用をすることから、旧約聖書全体が「人間の知恵がいかに愚かなものであるか」ということを語っていることを表したのでした。

 ヨブ記5:8-16を読んでみましょう。この言葉はテマン人エリファズが、すべてを失い苦しむヨブに語った言葉です。エリファズは「卑しめられている者を高く上げ、嘆く者を安全な境遇に引き上げてくださる。」(5:11)と語りました。そして今日引用されている13節では「知恵ある者はさかしさの罠にかかり、よこしまな者はたくらんでも熟さない。」と言いました。ヨブの上に起こった困難はヨブが罪人だったからと、決めつけているところには問題がありますが。パウロはこの言葉を引用して、「知恵に頼る者は、その悪賢さによってとらえられる」と教えているのです。

 

 

3:  神の国を求める

 パウロは「ですから、だれも人間を誇ってはなりません」(3:21a)と言いました。1章26節からあるようにコリントの人々は人間的に見て、無学な者、見下げられた者を選ばれたのです。それは「誰一人、神の前で誇ることがないようにするため」「誇る者は主を誇れ」と教えている通りです。

 ルカによる福音書12章20節からは財産を蓄えた金持ちに対して、神様はこのように言われます。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」(ルカ12:20)。また25節では「あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」(ルカ12:25)、31節では「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」(ルカ12:31

 私たち人間にとって一番大切なことは「神の国を求める」ことです。それはイエス・キリストの十字架に従うことです。

 

4:  神様に支配されている

パウロは「すべては、あなたがたのもの」(3:21b)「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。」(3:23)と教えます。すべてのものは創造主なる神様が支配されるものなのです。私たちはキリストの十字架に支配されているのです。教会とは、「イエスは主です」と告白した者の集まりです。神様に支配され、神様に集めていただき、神様に引き上げられた者の集まりです。

私たちは、自分を何者として見ているでしょうか。この世は、知恵を求め、力を第一に求めます。私たちはこの価値観に巻き込まれ、この世の知恵を求め、他者を蔑み、他者に蔑まれるという競争社会の一員として生きていないでしょうか。どのような時にあったとしても「イエスこそが私の主である」と告白する者でありたいと思います。

 

同じように教会をも見つめ直したいと思います。コリントの教会は、自分の知恵、地位、力、自分の考え方こそが正しいと考えて分裂へと向かっていきました。私たちも教会が、イエス・キリストに支配された教会となっているか考えていきたいと思います。(笠井元)