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2021.8.22 「神の僕として仕える者となる」(全文) マタイによる福音書24:45-51

1:  終末・再臨の遅延

 マタイ24章では、終末・再臨の時、つまり、神の国の完成の時、復活の主イエス・キリストが再び来られる時について語られています。今日の箇所では「主人」「僕」「使用人」という者たちが登場し、この終末、再臨について教えます。この言葉が記された、マタイの時代、教会では、復活のイエス・キリストの再臨の時を、今か今かと待ち続けていました。しかし、なかなかイエス・キリストが来られないのです。つまり、再臨の遅延という問題が起こっていました。これは、マタイの教会だけではなく、初期のキリスト教会において、多くの教会で起こっていた問題でした。「一体いつイエス様は来られるのか」「本当にイエス様は来られるのか」「もはやイエス様は来ないのではないか」と、終末・再臨に対する不安や疑問が起こっていたのです。 

今、皆さんは、神の国の到来、イエス・キリストの再臨を信じているでしょうか。今、この世では、苦しい困難の時が続いています。それこそ新型コロナウイルスの感染拡大による苦しみが続く中です。また、最近は豪雨という災害が起こり、多くの人が被災されたのです。この世における災害や戦争、そのほか多くの苦しい現実を見るときに、「どうしてこの世には、これほどの苦しみが続くのか」「こんな世界が続かないで、早く、救いの御子、イエス・キリストが来られればいいのに」と言いたくなるかもしれません。

このイエス・キリストの再臨の遅れについて、2ヶ月ほど前の朝の祈祷会でも学びの時を持ちました。そこでは「キリストの再臨の遅れは、神様が忍耐されていることなのだ」と学びました。

Ⅱペトロの言葉です。【ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。】(Ⅱペトロ3:9)「一人も滅びないで、皆が悔い改めないために、神様は忍耐してくださっている」「悔い改める」こと、それは、自分自身の考えを根底から変えること、人生の方向転換をすることを意味します。これまで自分中心に生きていた者が、神様に目を向けて、その愛を中心に生きるようになること、それが「悔い改め」です。神様は、私たちすべての者が、一人も滅びることなく、悔い改め、神様の愛に目を向けて生きるために、待っていてくださるのです。

 

2:  主が立てた僕とは

今日の箇所では、まず、主人がその家の使用人たちの上に、僕を立てたのです。この主人は、出かけるにあたり、使用人たちを扱う者として、自分の代わりに僕を立てるのです。つまり、ここでいう僕とは、この家の主人の代わりにこの家を守る者です。ここで言われる「僕」とは、イエス様が語る言葉としては、目の前にいた、ファリサイ派、律法学者といった、ユダヤの指導者たちを意味していたと考えられます。ユダヤの民を神様へと導く者として、ユダヤの指導者、ファリサイ派、律法学者が、神様の僕として立てられたということです。このことは、マタイの教会において言えば、教会の指導者を意味していたでしょう。

そして、今の教会で考えるならば、一つの考え方としては、牧師、協力牧師、執事となるかもしれません。牧師、協力牧師、執事は、この「僕」「指導者」としての働きを、自分たちが担うべき働きとして受け取ることは大切なことです。ただ、同時に、私たちバプテスト教会は万人祭司という考え方を持ちます。すべての者、すべてのキリスト者が、上下関係はなく、神様の僕であると考えるのです。バプテストにおいては、すべての者が、神様の僕であり、それぞれが与えられた賜物によって、神様に立たされた者として生きると考えるのです。主人、つまり神様が、使用人の上に僕を立てた。つまり、皆さんが、神様の僕として立てられているということです。

 

3:  僕として仕える者

ここでは、45節に【「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。」】とあります。忠実で賢い僕の働きは、使用人たちに時間通りに食事を与えることです。食事の支度をして、準備すること。それは本来は、仕える者のすること、つまり、本来は、使用人のすることです。しかし、ここで「忠実で賢い僕」は、この使用人の食事の支度をする者であるとするのです。それに対して、悪い僕とは48-49節にあるように、主人に立たされたという地位を利用し、仲間を殴り、酒飲みと一緒に食べたり、飲んだりするというのです。つまり、悪い僕とは、自分が仕えるのではなく、使用人を仕えさせる者である。自分が主人から立たされていることから、まるで自分が主人になったように勘違いをしてしまっているのです。

私たちは、賢い僕として仕える者となっているでしょうか。それとも、悪い僕として、自分が主人と勘違いをして生きているでしょうか。

 

神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーは、仕えるということについて、このように教えています。「仕えることを学ぼうとする者は、先ず第一に、自分自身を取るに足らない者と思うことを学ばなければならない」(『共に生きる生活』より)と教えます。仕えること。それはまず、自分は取るに足らないということを学ぶことから始まるのです。それは、自分を正しく知ることであり、自分にある弱さを知る者となること。そしてそのような自分をイエス・キリストが愛してくださり、イエス様の支えと励ましがある。このイエス・キリストによって生かされていることを知る。そこから仕える者として歩みだすということです。

私たちはまず、仕える者、仕える僕となるために、自分自身のことを正しく知りましょう。皆さんは自分自身をどのように捉えているでしょうか。皆さんの長所、短所は何でしょうか。

わたしが高校生の時に、アルバイトのために履歴書を書いていた時に、自分の長所、短所を書く欄があったので、母親に、私の短所はと聞くと、「短気、忘れっぽい、人の言葉を聞かない等々」と、あれやこれやと出てきたのです・・・それに対して、長所はと聞くと「ん~」「まあ、・・・」と悩み、言葉に詰まっていました。私たちは、相手の長所を考えてみることは、良い関係を作るための一つの方法でもありますので、皆さんもよかったら、隣の人の長所、良いところを、そして自分の長所、自分の良いところを考えてみてください。

パウロは【「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。】(Ⅰテモテ1:15)と言いました。パウロは、自分を罪人の中でも、その「最たる者」、別の訳では「罪人のかしら」と告白したのでした。パウロの一つの長所は、自分の弱さ、自分の罪を告白する者であった。それこそイエス・キリストの十字架による救いを表す、自分の弱さこそが、最も誇るべきことだとしたと言うことができるかもしれません。

私たちには、それぞれの個性があり、それぞれの違いがあります。その中で、すべての人間に共通することは、すべての者が神様に愛されているということです。すべての人間が罪人であり、本来は愛される者ではないなかで、神様は、すべての人間に目を向け、愛して、共に生きてくださっているのです。私たちには、良いところもあれば、また自分でも受け入れたくないような弱さもあります。それでも、どのような人間でも、神様に愛されていることは、すべての人間には変わることのないことです。

 

4:  キリストを頭として

今日の箇所では、「僕として、仕える者となりなさい」と教えています。僕として完全に仕えられた方、つまり完全な賢い僕となられた方こそ、イエス・キリストです。イエス・キリストは、神の御子でありながらも、人間となり、苦しむ人と共に苦しみの中に生きてくださり、その愛の内に、最終的には十字架という死にまで向かわれたのでした。この十字架のイエス・キリストを頭として教会はあるのです。私たちは、このイエス・キリストに従う者として、互いに仕え合う者、賢い僕として歩み続けたいと思います。

ボンヘッファーは、交わりの中での第一の奉仕は、「他の人の言葉に耳を傾けること」だと教えました。まず私たちは、イエス・キリストが、私たちの声、心の叫びを聞いていてくださるということを覚えたいと思います。イエス・キリストは、私たちを愛し、私たちに仕える者として、私たちの声を聞いていてくださるのです。私たちの声にもならない心の叫び、自分でも何と言ってよいのかわからないような心の苦しみ。その心の叫びを、イエス・キリストは聞いてくださっている。イエス・キリストは、どこまでも、私たちを愛し、私たちの心の奥の叫びを聞いてくださっているのです。

私たちは、このイエス・キリストの愛を受けて、神様の御言葉に耳を傾けていきたいと思います。そして、兄弟と愛し合い、お互いの言葉に耳を傾けていきたいと思うのです。聞くこと。それは他者の言葉に耳を傾け、その人のために、自分の思いも体も、そして時間をも使うということなのです。それこそ、まさに仕えることなのです。まず神様の言葉を聞く者、そしてお互いの声を聞く者となりたい。そしてそれはお互いの心の中の思いを知り、共に分かち合うとして、歩んでいきましょう。

 

神様は、今、まだ、私たち人間が一人も滅びることのないように、すべての人間が悔い改めることを願い、忍耐し、待ち続けてくださっています。私たちは、この地上に、神の国、神様の愛の溢れる時が来ることを願い続け、「御国が来ますように」と希望をもって祈り続けましょう。そして神様の愛を受けた者として、イエス・キリストを頭として、共に仕え合う者、愛し合う者として歩みたいと思います。(笠井元)