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2021.7.4 「苦難の時から、救いは始まっている」(全文) マタイによる福音書24:1-14

今日の聖書の小見出しには「神殿の崩壊を予告する」と「終末の徴」とあります。このように今日の箇所は、「終わりの時」について語られているのです。終わりの時。その前に、不法がはびこり、多くの人の愛が冷えるのです。そして、そのあとに、御国の福音が全世界に宣べ伝えられ、それから終わりの時は来るのです。先日の祈祷会では、「終わりの時」のことを「神の忍耐」として学びました。神様はすべての人が神様の愛に包まれ、喜びで満たされることを待ってくださっている。今、人間の過ちある行動を忍耐して、神様の愛を受け取ることを待っておられるということでした。

今、皆さんはどのような状況にあるでしょうか。今、世界は、新型コロナウイルスの感染が拡がる中にあります。不安、苦しみ、痛み、愛が冷え込む中にあると感じておられるのではないでしょうか。私たちは、この苦難の時、ここからすでに、神様の愛の支配が始まっていることを覚えたいと思います。

 

1:  神殿の崩壊を予告する

 さて、今日の箇所で、神殿の境内を出ていくイエス様に、弟子たちが近づいてきて、神殿の建物を指さしたのです。この神殿とはエルサレム神殿のことですが、エルサレム神殿は、一番最初はソロモン王によって造られた神殿となります。しかしその神殿はバビロニア帝国によって破壊されてしまいました。その後、バビロン捕囚からの解放後、もう一度エルサレム神殿は造られたのです。その後、クリスマスなどの時にも出てきますヘロデ王が荘厳で、華麗な神殿に改築したのです。

 この時、弟子たちがイエス様に近づいて何か言ったとするならば、話の流れからみると、「このエルサレム神殿は、神の神殿でいつまでも崩壊することのない、素晴らしいものである」といった内容のことでも言ったのではないかと考えられるのです。弟子たちは、神殿こそ、神様の住まいであり、永遠なるものと考えていた。

 その弟子たちに、イエス様は「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」2)と言われたのです。少しわかりにくい言葉となっていますが、この言葉を簡単に言うと、イエス様は「この神殿も崩れ去るときがくる」ということを教えられたのです。

 

 わたしたちは、荘厳で感動的なものを見るときに、その外観に圧倒されて、まるでそこに自分たちを超えた力、何か大きな力が働いたのではないかと思うことがある。まるでそこに神様がおられるように思ってしまうことがあります。この世界には多くの素晴らしい教会の建物があります。それこそ、多くの建物に圧倒され、感動を得るのです。しかし、それはもちろん神様ではないですし、無限にあるものでもなく、有限なるものなのです。

 2019年の4月には築何百年もの建築物である、フランスのノートルダム大聖堂で火災が起こり、その塔は消失してしまいました。同じ2019年の10月には沖縄の首里城が消失してしまいました。このような素晴らしい建物が消失していくときに、「まさかそんなことが・・・」「そんなことがあるのか・・・」と何とも言うことのできない気持ちになります。ただ、このような気持ちと同時に、人間の有限性、人間はあくまでも、被造物であることを教えられるのです。人間が造るものに永遠なるものはないのです。それは建物だけではありません。人間の造り出すものは、すべて、国家、財産、名誉など、すべてのものは有限なるものなのです。

 イエス様は、ここで、その人間の有限性を語ります。いつまでも続くような荘厳な神殿も、どれほど素晴らしい建物もいつかは崩壊する。イエス様は、人間の有限性、そして同時に神様の無限性をも教えられているのです。

 

2:  世の終わりはいつくるのか 世の終わりの前兆

弟子たちは、この神殿の有限性、そして人間の有限性を教えられたのです。弟子たちは、イエス様に「そのことはいつ起こるのですか」(3)と尋ねます。この時の「そのこと」とは「神殿の崩壊」と同時に、「この世界の終わり」のことを意味していました。ここでイエス様は、この世の終わりの前兆を語られました。4-5節では、「わたしがメシアだ」と言い、多くの者を惑わす者が現れることを、6節では「戦争が起こる」ことを、7節では、「それぞれが敵対していく」こと、また「飢饉や地震」といった災害が起こることを教えられました。また、9節からは「迫害を受け殺されること」、これはつまり外部からの力による苦しみを意味し、また10節では「互いに裏切り、憎み合うこと」つまり、内部での争いによる苦しみを意味します。

イエス様はこのように、この世の終わりの前には、多くの苦しみ、今もすでに起こっている、闇の出来事が起こることを教えているのです。私たち人間が考える世界の終わりとは、この闇の出来事の果てに、世界が滅んでいくことを世界の終わりとして考えることが多いのです。

 

 現在は、新型コロナウイルスによる感染が世界中に拡大していますが、この新型コロナウイルスの感染が拡大する中、人々が不安を覚える中で、必ずと言っていいほどに、そのような時に「世界の滅び」を語る人々が現れるのです。いわゆるカルト宗教は、そのような「人間の不安」をあおることによって、何かを信じたら、あなたは救われると言って、人間の恐怖や不安という心の弱さに付け込んで、入ってくるのです。以前、私が札幌にいたとき、カルト宗教について学びを受けたことがありました。そこでは、「カルト宗教」とは「カット」するもの、つまり人間と人間の関係を「カット」する。家族や友人、そのほか、様々な関係を「カット」していくものだと学びました。

今、新型コロナウイルスの感染が拡がる中にあって、起こっている、一つの問題は、この人間関係が断ち切られていくということ、・・・またそれはすでにあった個人主義、利己主義、自分さえよければいいといった自己中心的な考えが浮かび上がってきたということもできます。私たちは、感染が拡がらないために、密を避け、距離をとるようになりました。そして、それは、お互いに関わること、顔と顔を合わせて喜びや痛みを分かち合うことから離れることに拍車をかけることになったのです。つまり、この感染症自体が、人間の関係をカットした。まるでカルト宗教のように、人々の関係を断ち切っているのです。

 

 イエス様は、これら「闇の出来事」は、世の終わりの前兆であると教えます。神様の被造物、この世は有限なるものであり、それらはいずれ終わりを迎えるのです。しかし、それら闇の出来事、恐怖、不安は、世の終わりの前兆であり、この世の終わりではないのです。 

 聖書はこのように教えます。Ⅰコリント13:13です。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(Ⅰコリント13:13

聖書は、闇、破壊、破滅、絶望が、世の終わりではなく、世の終わり、そのときに残るものとは、信仰と希望と愛であると教えるのです。愛。それは無限な方、神様ご自身のことで、神様のわたしたち人間への思いでもあります。世の終わりは、この神様の愛に包まれたときに迎えることになるのです。終わりの時は、神様の愛の完成の時です。神様の愛の完成の始まり。その前には、闇がある。多くの不安、恐怖、苦しみがある。しかし、それは終わりではないのです。この言葉から、私たちは、自分が今苦しみにあったとしても、どれほど闇の中に堕ちていようとも、それは終わりではないこと。そこから、苦難の時から救いは始まっている。神様は必ず、愛で引き上げてくださる、最後は神様の愛で満たしてくださるのです。

 

3:  世の終わりが来るまでに

 イエス様は、12、13節において、「不法がはびこり、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍びなさい」と言われました。それは、教会外からの迫害だけではなく、教会内における分裂や裏切り、憎み合い、そのような信仰共同体、教会の崩壊を意味し、愛が冷えていくこと、他者を愛することを忘れ、自己中心的に生きてしまうことを教えているのです。キリストとの交わり、キリストにつながることをやめてしまうとき、神様の愛から離れていくとき、わたしたちは希望ではなく、絶望に堕ちていくのです。イエス様は、そのような多くの愛が冷えていく中で、絶望に堕ちていくのではなく、「最後まで耐え忍びなさい」と教えます。

 この耐え忍ぶという言葉は、今年度の年度箇所につながります。今年度、私たちの教会は、主題聖句としてローマ5:3-5を選びました。そして年間標語として「神の恵みの下に留まる」という言葉を選んだのです。「忍耐」。それはただ神様の恵みの下に留まり続けること。それこそ、「神様なんて…」と思うようなとき、それほどに世界に闇の出来事、苦しいことばかりが起こるときに、それでも神様の愛から離れないことを意味するのです。

 

4:  積極的に世の終わりを迎える

 世の終わり。それは福音が全世界に宣べ伝えられ、神様の愛に包まれ、愛の完成の時、やって来るのです。これは闇の出来事ではなく、希望の出来事です。私たちは、この世の終わりをただ消極的に待ち望むのではなく、むしろ積極的に、主の福音を宣べ伝える中で、神様の愛をいただき、その愛を証しする中で、迎えていきたいと思います。今、私たちの目の前には、苦難があります。しかし、主イエス・キリストは、この苦難を、愛で打ち砕かれたのです。

ヨハネによる福音書ではこのように言われます。

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33

 主イエス・キリストは、十字架と復活という出来事を通して、すべての苦難を打ち砕かれました。すべての「闇」に「光」を与えられたのです。私たちは、このキリストによる愛、新しい命を受け取り、勇気をもって歩みだしたいと思います。主の福音、愛の業を語り、表わす者として生きていきましょう。(笠井元)