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2021.5.2 「神様の愛を感謝していただく」(全文) マタイによる福音書22:34-40

1:  神様の愛を感謝していただく

 今日の箇所で、律法の専門家がイエス様を試すために、「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」(22:36)と尋ねたのでした。律法とは、もともと、エジプトにおいて、奴隷という立場にあったイスラエルの民を、神様が救い出してくださり、その救いの恵みに従い生きる道として10個の掟、十戒が与えられた。そしてその十戒から派生して多くの掟が作られていきました。当時の掟は、「何々しなさい」という命令の掟が248個、「何々してはならない」という禁止命令の掟が365個、合計613個あったと言われています。まず、この613個もの、律法を正確に記憶し、そこから何が最も重要なのか、順序づけることは、難題中の難題とされていました。律法の専門家は、この最も難題とされる質問を、イエス様に尋ねたのです。この質問は、イエス様を陥れる罠、イエス様の人気を落とすための問いです。しかし、同時に、私たち人間が、とても聞きたい問いでもあると思うのです。私たちは多くの掟、多くのルールに縛られて生きています。「あれをしなければならない」「これをしてはいけない」といったものに縛られているのではないでしょうか。そのような圧力から解放されるために「私たちは何をすればよいのか・・・」ということは、私たちの生き方を尋ねているものでもあるのです。

 

 この問いに対して、イエス様はまず、『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』(22:37)と言われました。神を愛すること。それは、神様の愛を感謝していただくことです。神様が、私たちを愛してくださっている。神様が私たちと共にいてくださっている。そのことを、喜び、神様に「ありがとうございます」と受け取ること。それが神を愛することです。

「感謝」するということの反対の言葉としては、一つには、他者の善意に触れても、それに感謝しないということで「恩知らず」とか「傲慢」という言葉があります。また、ある心理学者は、「感謝」の反対は「羨望(せんぼう)」だとも言いました。それは、今、自分に与えられているものに目を留め、それを大切にすることを「感謝」とするならば、自分のもっていないものをむやみに欲しがり、人が持っているものを羨み(うらやみ)、妬む(ねたむ)こと、つまり「羨望」、それこそが、今の自分に与えられていることに感謝をしないということだということです。

 旧約聖書の十戒でも、「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」(出エジプト記20:17)とあります。

 誰かのもっているものを欲してしまう心。貪欲。それは、すべての人間の心の奥底にある思いであり、その貪欲の心から歩き出してしまうように囁くのが、誘惑であり、サタンの働きです。サタンは、私たちの弱い心、心の奥底にある思いに囁きかけ、私たちが神様から離れていくように誘惑するのです。

そのような人間にイエス様は『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』(22:37)と言われたのです。「神を愛する」。それは、私たちが能動的に神様を愛するということよりも、私たちを愛する神様の愛を感謝していただくということです。神様はどのような時にあっても、わたしたちから目を離さず、見守っていて下さるのです。私たちはこの、神様の愛を喜んでいただいていきたいと思うのです。

 

2:  自分を愛する

 そして、続けて、イエス様は「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』(22:39)と言われました。ここでは、ただ「隣人を愛しなさい」ではなく、「自分のように」と言われました。私たちは、隣人を愛するためには、まず自分を愛するということを知らなければならないのです。自分を愛すること。自分を自然に、堂々と愛することができること。それは隣人を愛するための基礎であり、生きていくうえで大切な感情となります。私たちが、自分を「正しく愛する」ということはとても難しいことだと思うのです。私たちが、自分を愛しすぎるとき、過剰な自己愛を持ってしまうとき、他者と共に生きることの必要性を忘れてしまうのです。「自分さえよければ・・・」という自己中心的な思いに陥ってしまうのです。

反対に、自分を愛することができなくなってしまうとき、私たちは、自分という存在を否定し、卑下し、自分が神様に愛されていることを忘れてしまうのです。

これはある保育書に、このような話がありました。【人間はもともと生まれたときは、自分では何もできないのですが、親の愛に包まれている。まるで楽園にいるようで、泣いても、何をしても愛され、受け入れられている。この時に「自分は愛されている」という感覚をしっかり持つ。このとき、赤ちゃんにとっては世界は自分を中心に回っているように思われるでしょう。無条件に愛されていた赤ちゃん。しかし、やがてこの楽園を追われるときが来るのです。これまで優しく、無条件に愛してくれていた親が、急に「しつけ」を始めるようになり、どこまでも広がっていた愛がどんどんと縮まっていくのです。もちろん親としては子どもが成長するための愛の行為かもしれませんが、子どもからすれば、無条件に愛してくれていた人が、急に条件をだしてきたように感じるようになる。】

 そして、このことを、その本では、自己愛のシェイプアップと記されていました。とてもおもしろい表現だと思いました。私たちが、成長する中で、自己愛の適切なシェイプアップができないとき、過剰な自己愛、または自己愛の欠如という状態に陥ってしまう。そして、正しく自分を愛することができなくなってしまうのです。過剰な自己愛、自己愛の欠如。これは方向性は正反対ですが、正しく自分を愛するということができなくなっているという意味では、同じことだと思います。

 皆さんは、正しく自分を愛することができているでしょうか。そして、私たちは、自分を正しく愛するために私たちは何をすればよいのでしょうか。自分を正しく愛する。そのためには、自分を正しく愛してくださっている方、愛の神、神こそが愛、つまり神様を知ることが必要なのです。つまり、自分を正しく愛してくださる神様に出会うこと、神様の愛に触れること、そして神様の愛を感謝していただくときに、わたしたちは正しく自分を愛する者とされる。自分を愛するための適切なシェイプアップができるのだと思うのです。

 

3:  隣人を愛する 

神様は、イエス・キリストを通して私たちに愛を示されました。そのイエス・キリストが『隣人を自分のように愛しなさい。』(22:39)と言われたのです。そしてイエス・キリストは自らが、まずこの隣人を愛するという愛を全うされたのです。イエス・キリストが、わたしたち人間を愛するということは、なんとなく生まれてきたものではありません。一つの決心、決断をもって、愛するための道を進み行かれたのです。それは、苦しむ者と共に、苦しみ、悲しむ者と共に悲しむ道です。そしてその道は、十字架の上で、この隣人を愛するという愛が全うされたのです。このイエス・キリストの決心とは、神様に愛されていることを、感謝を持って生きる決心でもあります。

イエス・キリストはこのようにも言われました。「あなたの隣人とはだれですか」、そして「あなたの敵を愛しなさい」と言われたのです。敵を愛するということは、自分を嫌いになることでも、なげやり生きることでもなく、先ほどの言葉で言えば、過剰な自己愛からシェイプアップをして、神様から愛を感謝していただくこと。正しく自分を愛していくこと。そして、自分を愛するのと同じように、隣人を愛することです。このような思いは、何もしないで自然に出てくるものではありません。イエス・キリストがなされたように、決心が必要なのです。自分を愛してくださる方、神様の愛を感謝する決心です。

 

私たちは、神様から愛されている、無条件の愛をいただきましょう。そして、愛されていることを正しく感謝して受け取り、隣人を自分のように愛する道を歩んでいきましょう。そこに本当の救いの道、神の国につながる道が広がっているのです。(笠井元)