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2021.4.18 「復活~新しい命が創造された~」(全文) マタイによる福音書22:23-33

1:  サドカイ派の人々

 今日の箇所では、サドカイ派という人々が登場します。イエス様の時代にユダヤ教の中では、このサドカイ派のほかに、聖書でもよく出てきます、ファリサイ派、その他にエッセネ派、ヘロデ派などいくつかの宗派がありました。今日、登場するこのサドカイ派の人々は、22節にあるように「復活はない」と考えていました。サドカイ派の人々は、旧約聖書の中でもモーセ五書とされる律法の書を大切にしていて、このモーセ五書には復活の教理の証拠が見いだせないとしていたのです。 

復活を信じないサドカイ派の人々は、復活があった場合の不合理性を示す一つの話を出してきたのです。それは一人の女性が7人の兄弟と結婚した場合に、復活した時、誰の妻となるのかという話でした。これは申命記に記されている、いわゆるレビラート婚という制度からの話です。レビラート婚とは、その家系が途絶えることのないように、兄が跡継ぎを残さずに死んだ場合は、その兄弟が、兄の妻と結婚する義務があるという制度です。このような場合にこの女性は一体だれの妻となるのか。そのように考えるならば、復活とは不合理なことであり、復活はあるわけがないと、サドカイ派の人々は考えていたのでした。この問いは、もともとサドカイ派の人々が、復活を信じるファリサイ派の人々に投げかけていた問題でした。この問いに対して、ファリサイ派の人々は「兄の妻となる」と答えていました。この答えだけを見るならば、ファリサイ派の人々の考える復活は、この世のことが続く世界であるものとして考えていたと思われるのです。

 

2:  神の力、神のみ言葉としての聖書

このサドカイ派の問いに対して、イエス様は「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。」(29)と答えられたのです。イエス様は、サドカイ派の人々の聖書の読み方は間違っているとしました。この時、サドカイ派の人々にとって聖書は、神様から与えられた、生きた神様の言葉としてではなく、ただの自分たちの考え方の指針、または生きる生活の規範の書、生活のルールブックのようなものと理解していた。そしてそれは、ファリサイ派の人々もあまり変わっていなかったのです。

皆さんは、聖書をどのように読んでいるでしょうか。聖書を単なる歴史書として読むとき、その年代、年数、人名等はあまりにも不正確で、不合理な書物となっています。では、私たちは聖書を読めばよいのでしょうか。聖書を研究することは間違っていることではないと思います。いつ、どのような時に書かれたのか、どのような意図で記されたのか。そのようなことを考えることは大切なことです。

そのうえで、私たちが読むべき読み方とは、この聖書は神の言葉であり、神の愛を教えるために記されたものであるということ。旧約聖書も、新約聖書も、その中心に、イエス・キリストの十字架と復活という神様の愛があり、その福音が土台としたあるうえで、いただく神の御言葉として読むということです。イエス様は「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」(29)と言われました。聖書は何か啓発書のような、人生の生き方や考え方が書いてあるだけのものではなく、またただ知恵や知識を得るためだけの書でもないのです。聖書は、神様の愛、生きた神様の御言葉なのです。

 

3:  天使のようになる

イエス様は、聖書は神の力、生きる神様の御言葉であることを語り、そのうえで、「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」(30)と言いました。

「天使のようになる」。多くの人間が死んだら、「極楽」「あの世」に行くと考えていると思います。そのような時に考える「天国」とは、今の延長上にある形で、今よりも良いところ、とても幸せなところのようなものとしてしか、考えていないものなのです。同じように、復活した者の姿も、今の形よりも、少し良い形になる、この世の延長上にある今よりも幸せな形として考えているのです。

それに対してイエス様は「天使のようになる」と言われました。それは、この世の、この体、そこからまったく別の者とされる。人間の思いを超えて新たな命を得ることを表しています。「天使のように」とは、人間の思いと言葉を超えた、神の御業を受けて生きる者を意味しているのです。

 

ここで一つ気を付けなければならないのは、「死んだら天使のようになる」「復活の時には、今の思いを超えた新しい命を得る」ということから、今生きる私たち人間の、この姿が汚れた者、天の国、神の愛を受けるのにふさわしくないと思ってしまうということです。私たちは、今、すでに神様の愛をあふれるほどに受けています。そして、イエス・キリストは、この私たちと同じ人間として、その肉体をもって、この世に来られたのです。

以前ですが、私のところに「わたしは大きな罪を犯してしまいました。わたしは汚れた者です。死にたいです」として、自分の罪責感から、生きることが苦しいと言われる方が来たことがありました。細かく何をされたのかは言われなかったのですが、とにかく苦しいと・・・何時間も泣かれ続けていたのです。「自分は汚れている。」「自分には神様に愛される資格などない」と。私たちも、自分が罪を犯したときに、大きな過ちを犯してしまったときに、そのように思うことがあるのではないでしょうか。しかし、そのような時にこそ、私たちは、そこにイエス・キリストが来られているということを覚えたいと思うのです。神様は私たちが清く正しい者となったから愛されるのではなく、どのような者であれ、罪にまみれ、汚れ、愛される資格も、何もないというところに、来てくださった。神様は私たちを無条件で愛されたのです。

神様は、「わたしはあなたを愛している」「わたしはあなたと共にいる」と言われました。これは、たとえ、私たちがどのような状態であっても、神様のこの愛は変わることはないのです。そのうえで、イエス様は「あなたは復活の時、天使のようになる」と言われたのです。それは、この神様の愛の大きさを意味しています。つまり、このような私たちをも愛してくださり、復活の時、つまり復活のイエス・キリストに出会うときに、私たちが新しく生きる道を開いてくださるということなのです。

 

4:  生きている者の神

続けてイエス様は言われました。イエス様は「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか」と言われました。これは、エジプトにおいて奴隷とされていたイスラエルの救いのために、神様がモーセに語った言葉でした。神様は、アブラハムを祝福され、契約を結ばれました。アブラハム、そしてその子孫との間に契約を立て、「あなたを祝福する」「わたしは彼らの神となる」と言われたのです。

神様はこの契約を守られ、奴隷とされていたイスラエルを救い出されたのです。神様は決してイスラエルを見捨てることはありませんでした。それがどれほどの苦難にあったとしても、それが死の内にあったとしても、神様はそこから、必ず救い出してくださるのです。そして、イエス様は言われました「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」(32

この時、イエス様は、ご自身が、これから十字架という死に向かわれる中にありました。そのような中、神様は「死を超えて働かれる方」である、命の神であることを語られたのです。そして、イエス・キリストは、事実、十字架で苦しみ、死に、そのうえで、新しい命をもって復活されたのでした。イエス・キリストは復活されたのです。ここに新しい命が創造されたのです。

私たちは今、死を超えて働かれる神様、キリストの死と復活によって示された神の愛を頂きたいと思います。神様はこのイエス・キリストの死と復活の出来事を通して、私たち人間を、そのままの姿で受け留め、そして、新しい命の業を注がれ、私たちを愛する者、愛し合う者として変えてくださるのです。私たちは、キリストの復活による神様の愛を頂きましょう。そして新しい命に生きる者とされていきたいと思います。(笠井元)