皆さん、イースターおめでとうございます!イエス・キリストは十字架の上にあって、私たちの罪のために死なれました。そして、その三日後に復活されたのです。主は、私たちの罪を打ち破り、死を越えて、新しい命を与えられたのです。主は、今も、そしてとこしえに、私たちと共におられるのです。ここに私たちは生きる希望を頂いているのです。
1: ベタニア 悩める者の家
11章1節からを見ると、イエス様はラザロの病気を聞いても、ヨルダン川の向こう側に二日間おられ、その後イエス様はベタニアへと向かわれました。ベタニアという名前は「悩める者の家」という意味があります。「悩める者の家」、それは私たちの人生そのものではないでしょうか。イエス・キリストは死に捕らわれ、苦しみ、悩みの中にいる、私たちのところに歩き出してくださったのです。
2: 孤独という死
イエス様がベタニアに来られた時、ラザロはすでに墓に葬られてから4日もたっていました。死ぬということは、ラザロのように肉体的な死があります。人間には、もう一つの死として「孤独」ということ、すべての関係が失われてしまっているということがあります。
現在、私たちは、昨年から新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐために、肉体的に距離をとることを必要とされています。このような現実の中、私たちは今、教会として、神様の子どもとして共に生きているでしょうか。お互いのために祈っているでしょうか。隣にいることができることがどれほど幸せなことなのかを覚えていきたいと思います。
3: 今、主が共におられる
マルタは「終わりの日の復活」を信じていました。しかし、この時弟の死に悲しむマルタが必要としていたのは、「いつか復活する」ということではなかったのです。
イエス・キリストは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる」と言われました。イエス・キリストは十字架の上で死なれ、孤独のうちに死なれた。悩める者のところに命を懸けてきてくださったのです。
イエス・キリストは、この世で、今、壊れた関係を回復し、死に対して命を与えてくださったのです。「主が共におられる」ということが、今、ここで起こされているのです。私たちは今、ここにおられる主と共に、そして兄弟姉妹と共に生きていきましょう。(笠井元)