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2021.4.4 「復活のキリストが共におられる」(全体) ヨハネによる福音書11:17-27

皆さん、イースターおめでとうございます!イースターはイエス・キリストの復活を喜ぶ時です。イエス・キリストは十字架の上にあって、私たちの罪のために死なれました。そして、その三日後に復活されたのです。主は、私たちの罪を打ち破り、死を越えて、新しい命を与えられたのです。主は、今も、そしてとこしえに、私たちと共におられるのです。ここに私たちは生きる希望を頂いているのです。今日は、このイエス・キリストの復活の喜びを共に頂き、主イエス・キリストが共にいてくださるという恵みを、受け取っていきたいと思います。 

 

1:  ベタニア 悩める者の家

 今日の箇所は、マルタとマリアの弟とされる、ラザロの死の場面となります。場所はベタニアが舞台でした。11章1節からの箇所を見ると、イエス様はラザロの病気を聞いても、ヨルダン川の向こう側に二日間おられ、その後、イエス様は11章7節において「もう一度、ユダヤに行こう」と言われ、ユダヤ、エルサレム、ベタニアへと向かわれたのでした。 

このベタニアという土地の名前の意味として「悩める者の家」という意味がありました。この「悩める者の家」、それは私たちに置き換えてみますと、私たちの生きている人生そのものだということができるのではないでしょうか。 イエス・キリストは、私たちの悩み、苦しみに向かって歩き出されたのです。しかも、そこにいるのはすでに死んでしまったラザロです。つまり、イエス・キリストは死に捕らわれ、苦しみ、悩みの中にいる、私たちのところに歩き出してくださったということです。

11:8に【弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」】(ヨハネ11:8)とあるように、イエス様が、私たちの人生に入ってくること、私たちにかかわることは、イエス・キリストにとっては、殺されるかもしれないというようなところであった。つまりイエス・キリストは命を捨てる覚悟をもってこられたということです。

 

2:  孤独という死

 イエス様がベタニアに来られた時、ラザロはすでに墓に葬られてから4日もたっていました。ラザロはすでに死んでいたのです。死ぬということ。それはこのラザロのように、肉体的な死があります。同時に、死が表わす意味として、私たち人間には、もう一つの死があるのではないでしょうか。それは「孤独」ということ、すべての関係が失われてしまっているということです。 

 マザー・テレサのお話の中にこのようなものがありました。「メルボルンで私は、恐らくだれもその人の存在を知らないと思われるひとりのお年寄りを訪ねました。彼の部屋は、それはそれはひどい状態でした。私は掃除したかったのですが、彼は「これでいいんだ」と言い続けるのです。私は何も言いませんでしたが、それでも最後には掃除することを許してくれました。そこには何年も埃(ほこり)をかぶったままの美しいランプがありました。私は尋ねました。「どうしてランプをつけないのですか?」「だれのために?」と彼は言いました。「だれも、私のところに来はしません」「もしも、シスターがあなたに会いに来たら、ランプをつけてくださいますか?」と私が言うと、彼は言いました。「いいとも。人の声が聴けるなら、そうしよう」(『マザー・テレサ日々の言葉』p.287

 この老人のところには「だれもこなかった」。つまり老人は、誰との関わりもなく、一人でした。その時、この人は掃除もしなければ、ランプもつけなかった。つまり、孤独の中、命の灯が消えていたのです。この人は肉体的には生きていました。しかし、この人の心の灯、魂の力は消え、失われていたのです。

 

 現在、私たちは、昨年から続く新型コロナウイルスの蔓延による不安の中で、生きています。この新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐために、私たちは肉体的に距離をとることを必要とされました。できるだけ人と会わない、できるだけ近づかない。この新型コロナウイルスの感染を防ぐために距離をとるということは、すでに、個人主義でお互いの関係を求めていない社会において、人間が関係を必要としないこと、他者に対して無関心であるということに拍車をかけることになりました。つまり、多くの人間がこの新型コロナウイルスの感染拡大によって孤独にされたのです。一緒に食事をすることも、一緒に礼拝することも難しくなり、病院に入院すれば、会うこともできなくなってしまいました。手を取り合って祈ることもできなくなってしまったのです。

 このような現実の中、私たちは今、教会として、神様の子どもとして共に生きることができているでしょうか。お互いの存在を覚え、祈りあっているでしょうか。

 わたしが以前読んだ小説の中で、忘れられない一言があります。それは戦争の中、最強と言われた戦士が戦場で一人死んでいくときの言葉なのですが、「今度、もし生まれるとしたら、年をとり、家族にめいいっぱい迷惑をかけ、面倒くさがられ、邪魔に思われ、嫌われるなかで、見守れて死んでいきたい」と言うのです。 

今、私たちは、新型コロナウイルスの蔓延によって、近づくことができなくなりました。このような中にあるからこそ、もう一度、一緒にいること、共にいることができることの大切さ、恵みを覚えたいと思うのです。隣にいることができること、それが自分のプライドなどからは、本当は、あまり見せたくないような状態であったとしても、相手に迷惑かけることになったとしても、一緒に生きていること、それがどれほど幸せなことなのかを覚えていきたいと思うのです。

 

3:  今、主が共におられる

 マルタは「終わりの日の復活」を信じていました。終わりの日、すべての人間が生き返らされて神の前に立つことを信じていたのです。しかしまた、この時、マルタが必要としていたのは、いつか復活することではなかったのではないかと思うのです。今は悲しみの中にあっても、いつか復活する。だから今は我慢しなさい。と言われても、マルタの今の生きる力にはならなかったのではないかと思うのです。

このマルタに対して、イエス様は「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」(ヨハネ25-26)と言われました。「わたしは復活であり、命である」「わたしを信じる者は死んでも生きる」先ほど、人間にとっての死、それは肉体的な死と同時に、様々な関係を失い、孤独にあることから生きる力を失うということがあるとお話ししました。イエス・キリストは、「復活」であり、「命」です。それはイエス・キリストご自身が、十字架の上で、死なれ、孤独のうちに死なれたからこそ、イエス・キリストこそ、すべての人間の死、孤独、不安、絶望、多くの苦しみの隣に来られたのです。イエス・キリストはベタニア、悩める者のところに命を懸けてきてくださるのです。

 イエス・キリストは、「死」を打ち砕かれました。「主が共におられる」。これこそ、私たちに与えられている復活の命、新しく生きる力、命の灯なのです。

 

 マルタは、この復活という救いの出来事は「いずれ」起こることだと思っていました。皆さんも、いつか死んだら天国へと、そのとき救われるというようなイメージを持っているかもしれません。もちろん、それがすべて間違っているとは言いませんが・・・主イエス・キリストは、この世界に来られたのです。そして、この世界において復活されたのです。それは、壊れた関係を回復し、不安の中に喜びを、絶望の中に希望を、死に対して命を与えてくださったのです。それは、何かをされたということではなく、イエス・キリストはただ、私たちの隣にいてくださるということ、「主が共におられる」ということが、私たちの「今」ここで起こされているのです。ここに、新しい命の力があるのです。

 

主が共におられる。主イエス・キリストに祈られている。そしてまた、私たちは、誰かに祈られ、誰かのために祈り、隣の人と共に生きるのです。ここに、新しい命、新しい関係が始まっていくのです。私たちは今、ここにおられる主と共に、そして兄弟姉妹と共に生きていきましょう。私たちは、イエス・キリストによってつなげられているのです。だからこそ、私たちは、自分の喜びも、悲しみも、兄弟姉妹と共に、祈りあい、励まし合い、歩んでいきたいと思います。復活の主イエス・キリストが、必ず共にいてくださることを信じて、歩んでいきましょう。(笠井元)