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2021.2.28 「断絶を越えて来られた方」(原稿) ヨブ記1:13-22

1:  ヨブに届いた悲報

 今日は、ヨブ記から見ていきたいと思いますが、ヨブ記は、旧約聖書の中でも独特な物語となっています。今日のヨブ記1:13からの箇所では、ヨブのところに突然の悲報が届く場面となります。最初に、14、15節となりますが、ここではシェバ人が襲いかかり、牛、ろばは略奪され、また牧童たちは切り殺されたという報告が届くのです。次は、天からの神の火が降ってきて、羊も、羊飼いも焼け死んでしまったのです。その次は、カルデア人が襲ってきて、らくだの群れを奪い、牧童たちは殺されてしまったのです。そして最後に、18節において、大風が来て、息子、娘、そして若い者たちは死んでしまったとの報告が届くのです。

ヨブについては1:1からこのように記されています。【ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。七人の息子と三人の娘を持ち、羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった。】(ヨブ1:1-3)

ヨブは、東の国一番の富豪であったのです。しかし、今日の箇所では、このようにヨブのもとに突然の悲報が立て続けに報告され、ヨブは、この一日、この一瞬ですべての財産、すべての子どもたちを失ったのでした。

 

2:  ご利益宗教とキリスト教の信仰

 このヨブに与えられた突然の苦しみ。それは「信仰とは何か」ということを問われているなかで起こった出来事でした。1:9からの場面で、サタンが神様と話し合っている場面があります。ここで、サタンは神様に、人間が持つ信仰とは、利益があるからだけのもの、人間は利益がなければ、神様に従うことはありえないと言うのです。つまり、人間は神様に従うのではなく、神様を利用して、自分がお金持ちや偉い人、そのような何かしらの利益を得ようとしていると言うのです。

 確かに、人間は、時にお参りやお賽銭をして何かをお願いする。または、修行のようなものをして、自分の願いを叶えてもらう。そしてその自分の願いを叶えてくれる何かを神様とすることが多いのです。しかし、それは実際は、神様を信じた信仰ではなく、むしろ自分が神様を作りだし、自分の願い事を聞いてくれるものを神様としているのです。つまり、自分のほうか神様より上にあり、神様は自分の言うことを聞き、働くものとなっているのです。

 キリスト教において、この立場は全く逆となります。あくまでも神様が上、そして人間はその神様に従う者です。キリスト教において、信仰とは、何があったとしても、神様を神様として、その方を信じて従い生きるということなのです。

 このヨブ記にあって、サタンは、そのような信仰などありえない。すべての人間は利益を得るため、何かを得るために、神様を信じているのだというのです。不幸の中、悲しみや苦しみの中で、だれが神様を信じるのか。そのような者はありえない。サタンはそのように言うのです。

 

3:  神様との断絶

 20節でこのように言います。【ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。】(1:20)この突然の悲報を受けたヨブは、立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏したのです。「衣を裂き、髪をそり落とす」この姿は嘆きの姿です。ヨブは嘆きました。そして続けて「地にひれ伏した」。これは、神様への礼拝の姿なのです。ヨブはすべてを失った。すべてを無くした。嘆きの中に落とされたのです。しかし、ヨブはそこから神様を忘れ、恨み、離れていくのではなく、礼拝に向かっていった。神様にひれ伏し、神様に従ったのです。

 そしてヨブは言いました。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(21)ヨブは、あらゆるもの、家族、財産、すべてを失う中で、神様に礼拝し、祈り、賛美を献げたのです。このヨブの信仰の言葉には、深い痛みと、信仰の戦いがあったのだと思うのです。

私が神学生の時の友人で、小さいころに父親が召され、母と兄とこれまで過ごしてきたという友人がいました。そんなある時、突然、その友人の母親が召されたのです。そしてそれだけではなく、その二日後に今度は、お兄さんも召されたのでした。この友人はたった二日の間に、すべての家族を失い、一人で生きてくことになってしまったのです。友人は、このヨブ記を読みながら、【主は与え、主は奪う。】・・・そして【主の御名はほめたたえられよ。】この二つの言葉の間には、どれだけ大きな断絶があるのか・・・とてもではないが、自分はこの断絶は越えられないと言ってきたのです。【主は与え、主は奪う。】・・・この嘆きから、【主の御名はほめたたえられよ。】という賛美までには、自分の力では到底行くことはできない、大きな、大きな、断絶があるのです。

 それはヨブも、そうであったのではないかと思うのです。ヨブはこのあと3章から、嘆きの言葉を語ります。そしてそれから友人が様々な言葉をヨブに語るのですが、その言葉は、ヨブには届かなかったのです。それほど、ヨブの心は苦しく、痛み、闇の中へと落ちて行っていたのです。そして、ヨブ記ではこのあと38章になり、全知全能、創造主なる神様がヨブの前に現れたのです。ヨブに出会うために、神様が来てくださった。このことによって、ヨブは、もう一度、神を神として生きる信仰を得たのでした。ヨブが目の前にある、大きな断絶を越えたのではなく、神様がその断絶を越えてきてくださった。神様が来て下さることによって、ヨブに信仰が与えられたのでした。 

 

4:  断絶を越えたイエス・キリスト

 私たちの人生においても、このような神様との断絶、神様を信じることができない、神様を愛することができないときがあります。私自身は、父も母もクリスチャンで、生まれたときから神様の存在を信じていた、むしろそれが当然で、信じていないことなどはなかったです。しかし、それこそ、突然、自分が大きな病気を持つことになり、自分の人生に希望が見えなくなった時、目の前が真っ暗になった時、私は、神様の存在を信じないというのではなく、神様を嫌いになった、むしろ神を呪うほど、心が苦しい時がありました。

 ヨブはすべての財産、家族を失いました。皆さんにも、不幸、困難、苦しいこと、悲しいことが続き、自分にとって大切なものを失うなか、「なぜ」「どうしてこんなことが起こるのか」と思うとき、神様との関係に大きな断絶を感じることがあるのではないでしょうか。しかし、だからこそ、この人間と神様の大きな断絶を越えるため、神様はこの世界にイエス・キリストを送ってくださったのです。この時、父なる神は、人間を愛するために、御子イエス・キリストを失われ、そして御子イエス・キリストはその命を失われたのです。神様は自らが苦しみ、痛み、それでも人間との断絶を越えるため、イエス・キリストを十字架につけられた。神様は、このキリストの十字架、死をもって、人間、私たちとの断絶を越えて、人間と共に生きる道を開かれたのです。私たちは、自分ではこの神様との関係の断絶、大きな壁を越えることはできません。「なぜこのようなことが起こるのか」、「神様は何の意味があってこんなことをするのか」と思うことが起こるとき、苦しくて、礼拝すること、祈ること、賛美することができなくなるのです。しかし、だからこそ、そこにイエス・キリストご自身が、自らの命を懸けて、自らその断絶を越えてきてくださった。ここに神の愛が示されたのです。

私たちはただ、このイエス・キリストを通して示された神様の愛を素直に受け取りたい。神様はこの後、ヨブの前に来てくださいました。今、神様は私たちの隣に、私たちの心のうちに来てくださっているのです。私たちの信仰。それはイエス・キリストが私たちと共にいてくださることを受け入れることです。神様が自ら痛み、自ら苦しみ、私たちの隣にいてくださることを現在はレント、イエス・キリストの受難を覚える時期となっていますが、今日はこのヨブ記から、イエス・キリストの受難の意味を考え、学んでいきたいと思います。信じることなのです。

 私たちが生きる人生においては、良いこともあれば、悪いこともあります。それは神様を信じても、信じていなくても、変わることはありません。しかし、私たちが信じるのは、この世において何か良いことが与えられるということではなく、すべてを越えた神の愛、主イエス・キリストが共に生きてくださるという恵みを信じて受け取りたいと思います。

【主は与え、主は奪う。】・・・【主の御名はほめたたえられよ。】主イエス・キリストが共に生きていてくださるという信仰を持って、主なる神様を賛美していきたいと思います。(笠井元)