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2020.10.25 「神様のめぐみによって仕える者とされる」(全文) マタイによる福音書20:17-28

1:  イエス様に迫る死

 今日の箇所では、まず、イエス様がご自身の十字架による死と復活の出来事についてお話をされます。この三度目の十字架と復活の予告は、これまでに比べると、内容が細かく具体的なものとなっています。それだけイエス様の心の中でも、自分が死に向かっていることがリアルに迫っていたのかもしれません。

人間は誰もが、この世に生まれて、そして死に向かって生きています。今年度、私たちは、7月に鶴見健太郎兄を、9月には秦フサヨ姉を神様の御許へと送りだしました。死を迎えることのない人間はいないことは誰もがわかっていることです。しかし、実際に、死を迎えることがリアルに迫る時、心は大きな不安と恐怖に囚われるのではないでしょうか。イエス様は、これまでにはなかった「異邦人に引き渡される」「十字架」という言葉を語られます。イエス様には、自分がどのような形で殺されるのか、現実の出来事として迫ってきていたのでしょう。だからこそ、イエス様ご自身、そのような不安と恐怖に囚われていたのではないかと想像できるのです。

 

2:  ともに生きる道を開くため

 そのような死に不安し、恐怖するイエス様に、ゼベダイの息子ヤコブとヨハネの母は【「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」】(21)と、お願いするのです。

このことを知ったほかの10人の弟子たちは憤慨します。ただ、10人の弟子たちは、ヤコブとヨハネ、そしてその母親の考え方、行為自体が間違っているとして怒ったのではなく、自分たちを出し抜いて、二人だけで偉くなろうとしていたことに憤慨したのです。そのような意味では、この残りの10人の弟子たちも、心の中は五十歩百歩です。

人間というのは、この時の母親、そしてヤコブ、ヨハネと同じように、自分が偉くなること、「自分のため」に生きているのです。そして、だからこそ、イエス様は十字架で苦しみ、死なれたのです。だからこそ、イエス・キリストは、人間が、「自分のため」から、「共に生きるため」という道に、愛し合う道に歩き出すために、この世界に来てくださったのです。

 

3:  仕えるイエスの杯をいただく

 イエス様は、自分は「仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(28)と言われました。神の子イエス・キリストは、この世界を権力で支配するためではなく、仕える者として、そしてその命を献げて人々を生かすために、この世に来られたのです。イエス・キリストの杯を飲むこと。それはイエス・キリストが歩まれたように、ただひたすら隣人に仕える道を歩み続けることです。

 イエス様が、ヤコブとヨハネに「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」(22)と尋ねられたのです。この問いに二人は「できます」と答えたのでした。二人には、それなりの覚悟があったでしょう。それこそペトロが言ったように、「わたしはもし死ななければならなくなったとしても、決してあなたから離れません。あなたを裏切ることなどありえません」という決心があったのでしょう。ヤコブとヨハネは、イエス様が飲まれる杯を飲んでいこうと覚悟して「できます」と答えたのだと思います。しかし、それは、イエス・キリストに従うことがたとえ「苦しみの道」であったとしても、いずれ、偉くなることができる。いずれその苦しみも、報われるだろうといった心の中での答えだったのだと思うのです。だから、最終的に自分の利益となるから・・・「できます」と答えたのではないでしょうか。しかしイエス様が求められているのは、見返りは何もない行為であり、「ただ、神に仕えなさい。ただ命を懸けて隣人に仕えなさい。」と教えられているのです。 

 

4:  仕えるための賜物

イエス様は【あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、20:27 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。】(26-27)と言われました。今日は、この仕えることと同時に、仕えられること、仕えてもらう立場に立つということも考えたいと思います。

今年度から教会付属の東福岡幼稚園の園規則が新しくされました。園規則の変更として、幼稚園の設立の趣意を変更し、幼稚園の教育指針となる聖書の言葉を選び出しました。コロサイの信徒への手紙3章14節となりましたが、今日は、12節~14節までをお読みしたいと思います。

3:12 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。3:13 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。 3:14 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。】(コロサイ3:12-14

この最後の14節を、幼稚園の教育指針となる聖書の御言葉として選びました。ここでは「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」と教え、そして14節では「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。」と教えます。幼稚園では、様々なことを子どもたちが学びます。それこそ、生活習慣から始まり、遊びを通して、礼拝、讃美歌、暗誦聖句を通して、またお絵描きや工作といった保育を通して、様々なことを身に着けていくのです。その中で、何を学ぶにしても、どのように成長をするとしたとしても、その中心に神様の愛を持って、他者を愛するために生きる者として、成長してほしいという願いをもって、この箇所を選びました。

知恵や力という、人間の能力は、神様から頂いた大切な賜物です。私たちは神様から頂いている賜物を精一杯用いて、他者に仕えるのです。神様から頂く賜物は、隣人を愛するため、隣人に仕えるために与えられています。私たちは、そのために、神様からたくさんの賜物を喜んで頂き、十分にその賜物を用いて生きていく必要があるのです。

 

5:  仕えられるための賜物

神様からの賜物として与えられている知恵や力がある。そして、同時に、弱さや欠点といったものも、私たちに与えられている、大切な賜物なのです。弱さを持つことは、どちらかと言えば、仕えるのではなく、仕えてられることになるかもしれません。自分の弱さ、欠点が人に迷惑をかけてしまうこともあります。私たちは、プライドがあります。プライドも大切な思いだと思います。ただ、そのプライドが、自分の弱さや欠点から、他者に仕えてもらうことを拒否させてしまうことがある。「自分はそんな者とはなりたくない」、「そんなことはしないでくれ」と思って、仕えられることを拒否してしまうことがあるのです。

私たちはすべての人間が、全知全能の神、この世界を創造された神、その御子、イエス・キリストに仕えて頂き、その十字架の上に生かされているのです。イエス・キリストに仕えていただき、支えていただかなければ、私たちは生きることはできない。このことを認めるために、弱さがあるのです。そのような意味では、私たちのプライドは、このイエス・キリストにいただいたものとして、ただその一点においてあるものなのです。だからこそ、私たちは、神様の恵みとして、仕えられること、助けてもらうことも、喜びたいと思います。私たちは、時に他者に仕え、時に他者に仕えられる者となります。自分がどちらの立場であったとしても、お互いに仕え合う者となるとき、そこに「神様の愛」が表されているのです。

 

イエス様は【あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、20:27 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。】(26-27)と言われました。皆の僕、それは神様の僕となることから始まります。イエス・キリストは、神の僕として、私たちのために命を捨て、どこまでも低くなられたのです。私たちはこのイエス・キリストによって支えられ、神の僕として、お互いに仕え合い、そこに神様の愛を表して生きていきましょう。(笠井元)