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2020.10.18 「神様に養われている」(全文) マタイによる福音書20:1-16

1:  何度も出かけていく方

今日の箇所では、イエス様が「天の国」、神様のおられる、「神の国」をぶどう園によるたとえをもって話され、示されました。ここでのぶどう園の主人とは、神様のことであり、労働者は、私たち人間のことです。主人は、ぶどう園で働く労働者を雇うために夜明けに出かけていきました。夜明けとは朝6時頃のことですが、電気も何もない時代ですので、夜明けのまだ薄暗い、朝一番に主人である神様は出かけていかれたのです。このあと、主人は9時、12時、3時、5時と出かけて行って、同じように人々を雇い、自分のぶどう園へと迎えいれていったのでした。 

 ここに、まず、何度も出かける主人の姿を見ることができるのです。主人はなぜこれほど何度も出かけて行ったのでしょうか。本来ならば、朝一番に必要なだけの人数を集めて働かせればよいのではないかと思うのです。主人である神様が、必要な人数を集めることができなかったのでしょうか。そのようなことはないと思うのです。そうではなく、主人が何度も出かけることに意味があるのです。

 少し考えてみたいのですが、このとき、朝一番の時に雇われた人々とはどのような者たちであり、9時、12時、3時、そして5時に雇われた人々とはどのような者たちであったのでしょうか。

 5時に雇いに出かけて行った主人は、そこにいた人々にこのように尋ねました。『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』】20:6)この問いに、そこにいた人々は『だれも雇ってくれないのです』(20:7)と答えました。5時になっても働いていなかった人々は怠けて遊んでいたのではなく、働きたくてもだれも雇ってくれなかったのです。

そのような意味で、朝一番で雇われた人々は、朝から仕事を頂いて、働くことが許されていました。そしてその報酬として1デナリオンが頂けることが約束されていたのです。このような者たちは喜んで働くことができたでしょう。朝一番に雇われて、お金に不安を持つことなく、平安な心で喜んで働いたのでした。それに対して、5時に雇われた者たちは、それまでどれほどの不安に生きていたのでしょうか。「もう今日は誰にも雇ってもらえない」「生きるお金がもらえない」「どうやって生きればいいのか」という不安の中で過ごしていたのです。

 ここではすべての人間に1デナリオンが支払われました。この1デナリオンは1日の賃金に相当する金額であり、一日生きるために必要な金額でした。ある意味それ以上は必要なく、それ以下であれば、生きることができないということです。この1デナリオンを頂けたときに、5時まで働くことができなかった人々は、どれほどの喜び、どれほどの平安を頂いたのでしょうか。それは命を頂いたということ、命を頂いた喜びなのです。

 主人は、朝6時から、夕方5時まで、何度も出かけていきました。それは、人生に不安を持つ私たち人間にとって、どのような時でも神様が迎えに来て下さる、神様は私たちを探しに来て、招いてくださっているということです。主人は何度も出かけていきました。そして労働者を探したのです。最初に言いましたが、本来、そのぶどう園の労働力を必要とするだけの意味ならば、朝一番に必要なだけの人数を連れてくればよかったと思うのです。

しかしここでは、神の国の主人である神様が、何度も何度も出かけていくことで、人生において不安の中にある者、生きることに絶望感を持つ者のところに来て下さることを表しているのです。ここには、そのような人間を探しに行く神様の情熱、神様の強い思いを見ることができます。神様は、神様の方から、不安に生きる人間のところに、何度も何度も出かけて下さるのです。主人である神様は、人間がくることを待っているのではなく、迎えに行かれる。それこそ、主人の方が汗水流して、人間を探しにきてくださるのです。ここに、不安に生きる人間を助けたいと思う神様の強い思いを見ることができるのです。

2:  どのような立場に立っているのか

しかし、この主人の行為に、朝から働いていた人々は主人に不平を言うのです。ある意味、この感情も当然のものだと思うのです。自分は一生懸命一日中働いた。それなのに、さっき来て、たった1時間だけ働いた人と同じだけの報酬しかもらえないとは、どういうことなんだ、と言いたくなるのは当然でしょう。それに対して、ここには記されていませんが、最後の1時間だけ働いた人々はどのような思いだったのかも考えてみます。怠け者としてぶらぶらしていて、最後に1時間だけ働いて、朝から働いていた人と同じだけの報酬を頂いたなら、その人は、「これはもうけた、ラッキーだ」と思うかもしれません。しかし、この人たちは、働こうとしていながらも、働くことができなかった人々です。そのような意味では、何よりも主人に感謝し、与えられたお金を大切に使い、命の尊さを感じていったのではないかと思うのです。「神様、ありがとうございます。もう生きることができないと感じて、どうしてよいのかわからないなか、あなたの恵みによって、命を与えられた。あなたによって生かされているこの命を、感謝し、喜んで生きていきます」と、そのように感じたのではないかと思うのです。

皆さんは朝一番から働き、神様の行為に不平を言う者の立場に立っているでしょうか。それとも、最後の一時間だけですが働くことが許されて、神様から命が与えられたことを感謝している者の立場に立っているでしょうか。朝から働いていた者は、もともと主人と1日、1デナリオンという約束をしていたはずでした。しかし、1時間しか働かなかった者が1デナリオンを受け取ることを見て、自分は約束以上の物がもらえると思ったのです。

私たちは、どうでしょうか。自分が、普通に生きているときには、その恵みを忘れていないでしょうか。むしろそれ以上のものを求めてしまって、それが与えられない時に、神様に文句を言っていないでしょうか。私たちはそれぞれに生まれた環境も違います。そしてその能力、才能といった神様から与えられている賜物も違います。

皆さんは、今の自分を喜んでいるでしょうか。そして今自分に与えられている、その賜物を喜び生きていしょうか。私たちは、神様によって守られ、生かされています。まずその恵みに喜び、神様に感謝していきたいと思うのです。

 

3:  神様に養われている

私たちが生きている中にあって、実際に、不公平に感じることはたくさんあります。しかし、その中にあっても、神様は、「命を養われる神」としていてくださっているのです。それは、今日の箇所で言うと、すべての人間が1デナリオンを頂いているということです。先ほども言いましたが、1デナリオンは1日の賃金に相当する金額であり、一日生きるために必要な金額でした。それ以上は必要なく、それ以下であれば、生きることができないのです。主人は、すべての者にこの1デナリオンを与えられた。つまり、どの様な者であったとしても、神様は、私たちに生きる恵みを与えていてくださっているということです。

私たちは、自分が神様に養われている者であること、神様によって1デナリオン、つまり生きるのに必要な恵みを頂いているということを、覚えて生きていきたいと思うのです。私たちは、どれほどの財産、力、才能をもっていたとしても、神様が命を与えて下さらなければ、1分1秒すら生きることができない者なのです。そして、私たちは、たとえ自分では、何も持っていないとしても、神様の恵み、その養いのうちに生かされているのです。そして、そこには生きる意味があるということなのです。このことを覚えて生きていきたいと思います。神様は、いつも、私たちを迎えに来てくださっています。招いてくださっているのです。この神様の導きに応答していきたいと思います。(笠井元)