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2020.9.6 「神の選びに応答する」(全文) 申命記7:6-11

1:  神の情熱的愛

今日の箇所では、神様がイスラエルを選び、神の宝の民とされたと記されています。この出来事は、今、この聖書を読む私たちに、「あなたが神様に選ばれ、愛されている」ということを伝えているのです。これは、すべての人間に向けられています。「あなたは神様に選ばれ、愛されている」。「あなたは神の宝である」と教えられているのです。

そして、7節ではこのように言われます。【7:7 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。】(7:7)神様が人間を選んだこと、それは「主が心引かれた」とも表します。

ここでの「心引かれた」という言葉は、いわゆる全人格を無償に愛する神様の愛「アガペー」ではなく、人間がお互いの「美しさ」や「力強さ」といった外見を見ることによって感じる、いわゆる欲情、エロスの愛として使われる言葉となっています。エロスとしての愛としての感情に近い、「一目ぼれ」ということを、フランス語では「雷の一撃」と言うようです。エロスとしての愛はそれほど大きな衝撃で、一瞬の出来事だということでしょうか。私が東京基督教大学の学生の時、学長フランクリン先生が語られた言葉で、よく覚えているのは、「男性が女性を、女性が男性を好きになるのには1秒とかからない。そして同じように、その感情は1秒とかからず崩れていくので気を着けなさい。同時に、神様が人間を愛するのにも、時間は必要ない。しかし、神様の思いは永遠に崩れてしまうことはない」と言われたことを覚えています。「主が心引かれた」。神様が、イスラエルの民を愛するのは、雷のように衝撃的なことであり、一瞬の出来事であったのです。神様は、それほど情熱的に私たち人間を愛してくださっているのです。

しかし、この時のイスラエルは、ほかのどの民よりも「貧弱」であったのです。つまり、神様は、民族としての「強さ」や「大きさ」といったものではなく、イスラエルの「貧弱さ」に心を動かされたのでした。神様は本当に変わった方です。神様はその人間の「貧弱さ」「弱さ」に情熱的に心を動かされた。つまり、それが神様の価値観であり、神様の感じ方ということです。神様は、私たちの弱さを愛されている。私たちが、自分ではむしろ欠点だと思うところ、そのようなところに目を向け、ひとめぼれされ、愛されているのです。 これが神様の愛です。

 

2:  選ばれた理由

神様がイスラエルを選ばれたのには二つの意味があります。一つは、神様の愛は、神様の一方的なものであることを意味します。私たちは、自分が正しく生きて、神様に仕えていくことで神様に選ばれていくと考えてしまうのではないでしょうか。時々「自分は汚れた者で、罪深い者です。私などが教会に行ってもよいのでしょうか。」と言われることがあります。私たちは何かをすることで愛されるのではなく、ただ神様の一方的な愛によって救われた者として選び出されていることを覚えたいと思います。

もう一つイスラエルが選び出された意味は、8節においてこのように教えます。【ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。】(申命記7:8)「先祖との誓い」。それは神様とアブラハムとの誓いです。創世記15章においてなされた、神様とアブラハムの契約です。神様はアブラハムに「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」「あなたの子孫はこのようになる。」と約束されたのです。この約束が、アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてイスラエルの民との約束となるのです。「神の選び」。それは、神様がアブラハムとの約束を守られたということなのです。神様は、「先祖との誓いを守る」「力ある御手をもって導き出し、エジプトの支配から奴隷から救い出してくださる」のです。

ここから、神様の御言葉は信頼できる言葉であるということ、神様の約束は、何があっても変わることはないということを知るのです。そして、私たちに、神様の最大の救いの誓いとしてあらわされたのが、イエス・キリストの十字架と復活です。神様は、イエス・キリストを通して、私たちの人生において、どのような時も私たちを愛し、共に生きることを示されたのです。このイエス・キリストによる愛は変わることのない愛、神様の約束なのです。

 

3:  選ばれた方 イエス

神様はすべての民を救い出すために、イスラエルを選びだされた。そして、すべての人間を救い出すために、イエス・キリストを人間の代表として選び出されたのです。イエス様は、人間としてこの世に来られました。しかしその人生は、軽蔑され、十字架にかけられて死んでいく、弱く小さい存在でした。まさに、今日の箇所でいうところの「貧弱な」イスラエルと同様に、小さい存在としてこの世で生きたのです。イエスの人生は、罵られ、軽蔑され、最後は十字架という罪人として死んでいった人生でした。この誰よりも、何よりも小さな存在とされたイエスの死と復活をもって、神様は、すべての人間を救いに入れられる者として選び出されたのです。神様はイエスの死と復活を通して、神様からすれば弱く、小さく、貧弱な存在とされる人間との大きな隔たりを打ち砕き、人間は、聖なる神様の前に立つことができる者とされたのです。ここに完全なる愛、完全なる救いが与えられたのです。

 

4:  神の選びに応答する

神の選びによる救い、神様の一方的な愛であり、信じ信頼することのできる愛です。神様は、私たちがこの選びに応答することを期待しておられるのです。私たちは、何をもって神様に応えていくことができるのでしょうか。そのためには、まず、自分には「何もない」ということを認めていくことから始まると思うのです。それは何も持ってはいけないということではありません。むしろ、私たちは神様から頂いている知恵、力、財産など多くの賜物をしっかりと使い生きることが求められているのです。ただ、それが、自分の力によるものではなく、神様から頂いているものであるということを忘れることなく、覚えて生きるということです。私たちは自分のすべて、その知恵も力も財産も、そしてその時間も命も、すべてが神様に与えられている、恵みであることを覚えていきたいと思います。

先日、ある人が、「すべての人間が争いではなく平和を求めているはずなのに、なぜ世界は平和にならないのだろう」と言っていました。私も「なんでだろう」と考えました。私の答えとしては、多くの人間が求めている平和とは「自分の平和であり、自分だけの生活の安定であり、他者の平和、未来の平和を求めてないからだ」と思うのです。私たちは、何を持ち、何を求めて生きているでしょうか。すべてのものが神様から頂いたものであると信じるということは、それを「自分のため」ではなく、「神様のため」そして「他者のため」に使い、生きるということなのです。そして「自分のためではなく、神様のため、他者のため」に生きるという道には、「自分の何かを犠牲にする」必要があるのです。私たちが、「自分だけの平和、喜びを求めるのではなく、自分の何かを犠牲にして、他者の幸せを願うならば」そこに神様の御業が表されるでしょう。神様は、貧弱なイスラエルを選ばれ愛されました。そして、イエス・キリストをもって、私たちを選び、愛されたのです。私たちは、神様に頂いた恵みを他者と分かち合う人生を歩んでいきましょう。(笠井元)