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2020.8.2 「感謝の心をもって」(全文) マタイによる福音書18:21-35

1:  赦すということ

 ペトロはイエス様に【「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」】(18:21)と尋ねます。当時のユダヤの社会では、誰かが自分に対して罪を犯したときには「三回まで赦しなさい」と教えられていたそうです。日本でも「仏の顔も三度まで」という「ことわざ」がありますが、「三回まで」・・・この回数に特に理由はありませんが、これが人々の経験と実感として、人間が「赦す」ことができる限界の範囲とされていたのでしょう。そのような中でペトロは「七回まででしょうか」と尋ねた。それは「私は三回の倍、それに一回上乗せして、七回まで赦します」と言いたかったのかもしれません。 

 皆さんは何回まで、そしてどのような大きさまで、人を赦すことができるでしょうか。何回か・・・ということはある意味、明確なことです。しかし、どこまで、どのような大きさまで・・・ということは、とてもあいまいなことです。

 例えばですが、待ち合わせの時間に遅れてしまうことは、皆さんにとってはどのような大きさのものとなるでしょうか。このようなことはそれぞれの感覚によって大きく違うと思います。遅刻する場合でも、連絡をすることで、ある程度は赦されるかもしれません。または遅れた時間が短く、さほど相手に迷惑をかけることにならなければ、大きなことにはならないかもしれません。

 今日、ペトロが言った罪、三回とか七回とか言える罪とは、どのようなものでしょうか。それは、その行為によって、相手を大きく傷つけてしまうことであり、繰り返されることによって、より一層傷つけていくような罪のことになるのだと思います。ペトロは、そのような罪を何度まで赦すべきか・・・「普通は三回までですが、私は七回は赦します」と言いたかったのでしょう。そのようなペトロに、イエス様は【「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」】(18:22)と言われたのでした。7の70倍、つまり490回です。これはもはや回数の問題ではなく、「どこまでも」ということを意味するのです。

 

2:  イエス様のたとえ 神様の赦し

 イエス様はこのことを理解するために、23節から一つのたとえ話をなされました。〈ある王様に借金をしている家来がいました。その金額は1万タラントンです。後で出てくるデナリオンという単位がありますが、1デナリオンは一日の報酬額とされるので、これを5,000円とすると、このあと出てくる100デナリオンは50万円、1万タラントンは六千万デナリオン、つまり3,000億円というとんでもない金額なのです。この大きな借金を王様はすべて帳消しにしてくださったのです。しかし、この家来は自分が100デナリオン貸した人を赦さず、借金をした人を牢に入れてしまったのです。このことを知った王様はこのように言いました。【『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』】(18:32-33)〉これがイエス様のたとえ話です。

 ここでの王様は神様のことです。そしてこの家来とは私たちのことです。王様は途方もない金額の借金を無条件で赦された。これは神様が私たちの途方もない罪を、無条件、そして無制限に赦されていることを教えるのです。ローマ書にはこのように記されています。「正しい者は一人もいない。しかし、そのような私たちの罪のためにキリストは死んで下さり、私たちを義と救われる者とされた。ここに神様は愛を示された」(ローマ3:105:8-9)私たちは、神様の前にあってすべての人間が途方もない借金をもっており、罪人である。しかし、神様はその罪を、イエス・キリストによる贖いをもって、無条件、無制限に帳消しにされた、赦されたのです。神様は、私たち人間を、命をかけて愛されたのです。

 

3:  人間の正しさ

 今日のたとえ話で、この家来は王様に借金を帳消しにしていただいたのです。しかし、そのあと出ていってすぐに出会った仲間の首を絞めて「お金を返せ」と言い、牢屋に入れてしまいました。このたとえ話を聞くとき、私たちは、「なんて人なんだ・・・自分が赦されたことを忘れて、強欲で心の狭い人だ」と思うのではないでしょうか。ただ、この時の家来の主張は完全に間違っているわけではないのです。この者は、自分に借金をした者に対してきちんと借金を返すように言っただけなのです。ここだけをとってみるならば、この家来のしたことは間違っていないのかもしれません。

 では、この家来の何が問題だったのでしょうか。それは、この者は、自分は大きな借金、人間としての罪を赦された、そして命を与えられた者でありながらも、その王の赦し、神様の愛を自分の生きる土台とするのではなく、自分の小さな正しさを土台として、人を裁いたということです。

 

皆さんも、他者とのかかわりの中で、「自分は正しい」という、自分の小さな正しさに立ってしまうことがあるのではないでしょうか。その時、私たちは、赦されていることを忘れ、人を裁いていく、この家来と同じ者となっているのです。「裁き」は「いらだち」「憎しみ」という感情が生みだします。皆さんも一度は、このような経験をしたことがあると思います。まさにこの家来は人間としての小さな正しさを持ち、隣人を裁いたのです。そこには「憎しみ」と「いらだち」という感情しかなかったでしょう。

4:  感謝の心を持って

神様は、イエス・キリストの命をもって無制限に愛を与えて下さったのです。私たちがこの神様の愛を受け入れ、「神様ありがとうございます」という感謝の心を持つとき、私たちは、変えられていくのでしょう。これは、「自分は正しく他者を、裁きたいけれど、耐え忍び、どこまでも、何回でも、どのような時も、他者を赦さなければならない」と言われているのではありません。そうではなく、まず、神様の愛を受け取り、「感謝の心を持って歩き出しなさい」と言われているのです。

皆さんは日々の生活において、「神様、愛してくださりありがとうございます」という思いに生きることができているでしょうか。

今、私たちが生きる、この社会は、混沌の世の中です。新型コロナウイルスという病気や多くの自然災害によって絶望に陥っています。それに加えて、この困難の中で、自分のことばかり考えている政治家の対応を見る。とてもではないけれど、この状況を「ありがとうございます」と言うことできないのです。しかし、神様は、絶望する私たちに、「あなたを愛している」「あなたは一人ではない」「わたしがあなたと共にいる」と語りかけてくださるのです。私たちはこの神様の愛を覚えたいと思うのです。それは、今、このような時にあっても、主は共にいて下さる。私たちの痛みを共に痛み、共に担って下さっているということです。私たちは、この神様のキリストによる愛を、忘れることなく、日々覚え、感謝の心を持って生きていきましょう。そのとき、私たちはどのような状況にあっても、絶望と憎しみではなく、希望と喜びに立つことができるでしょう。(笠井元)