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2020.7.12 「すべての小さな者を愛される神様」(全文) マタイによる福音書18:6-14

1:  迷い出た一匹の羊を愛する羊飼い

 今日の箇所で、その目は「小さな者」に向けられています。イエス様は【18:4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。】(4)と言われます。「自分を低くしなさい」つまり「小さな者となるように」と言われるのです。 

 今日の箇所の後半の「九十九匹と一匹の羊」のお話はとても有名なお話です。ここでは、迷い出ていった一匹の羊を「小さな者」と言います。一匹の羊。それは牧者についていく多くの羊の群れの中、一匹だけついていくことができなかった、または、ついていかなかった羊です。人間でいえば、弱く、道に迷い、歩くべき道を歩くことができなかった。または自ら歩く道から外れていってしまった者ともいえるでしょう。羊飼いは九十九匹をおいて迷い出た一匹を探しに行きます。そして【18:13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。】(13)と言います。

 勘違いしてはいけないのは、ここでは一匹と九十九匹を比べて一匹のほうが大切だと言っているのではないのです。この話を聞くときに、考えてしまうことは「残された九十九匹」はどうするのか、聖書が教える神様とは、一匹を大切にするために「九十九匹」を見捨てるのか・・・と考えてしまうことがあるのです。ただ、この箇所は、九十九匹と一匹を比べて、どちらが大切か、どちらが必要とされているかというお話ではありません。

 聖書が教えているのは、迷い出た一匹の羊とは、歩くべき道を外れ、道を見失った人間のことを表しているのであり、それはすべての人間が、この一匹の羊だと教えているのです。私たちは、自分が一匹の羊であり、弱い者であることに気づき、そして、それでも、そのような自分を神様は大切にされていること。どれほど小さく、道を外れたとしても、その人を愛しているという、神様の愛を受け取っていきたいと思うのです。聖書の教える神様は、一匹の迷いだした羊を、「勝手に迷いだした羊だから、仕方がない」と、見捨てることはないということ。14節にありますが、【これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。】(14)のです。 これが神様の愛です。たとえあなたがどのような者であっても、神様はあなたを愛している。あなたという存在は神様にとって最高の存在だと。どのような者となったとしても、あなたが滅びるのではなく、救われることを、願い待っていて下さるのです。

 

2:  わたしたちは一匹の羊である 

 ここでいうところの一匹の羊、そして小さい者は、私たちすべての人間、皆さんを意味します。皆さんは、自分は違うと思っていないでしょうか。わたしたちには必ず欠点があり、弱さがあります。人間はだれでもがそうなのです。そのような意味ではだれもが同じ立場にあります。そのはずですが、私たちは「できる人」と「できない人」と分けていく価値観を持ち、その結果「勝ち組」と「負け組」と、「支配する者」と「支配される者」と分けていくのです。人間が社会で考えている、「できる人」と「できない人」とは、欠点が多いか、少ないか、または社会において、必要とされるスキルをたくさんもっているか、必要ではないスキルばかりか、そのような価値観において、分けているのです。しかし、本来は、だれもが必ず欠点があり、弱さがあるのです。だから間違えてはいけないのは、「弱さ」や「欠点」があるといって、わたしたちは他者を羨んだり、自分のことを卑下して、自己否定する必要もないのです。神様は、どの様な者であっても、同じように愛して、どこにいたとしても、探しに来てくださるのです。

 皆さんは、自分の弱さや欠点をどのように思っているでしょうか。私は、自分の欠点は、必要のないものであり、できれば長所、いいところがもっと増えればと思ってしまうことが多々あります。しかし、聖書はこのように教えます。【12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。】(Ⅱコリント12:9-10)弱さは神様の力、神様の愛が表されるためのものです。私たちの弱さは、神様の愛と慈しみを知り、受け入れるために、必要なものなのです。

 

3:  小さな者となる

 私がキリスト教であると知った、ある人が「宗教などは弱い者が頼るものであって、自分はそんなに弱くない」と言われたことがあります。「自分は弱くはない」と考えているとき、そこには神様の愛が入るところがなくなってしまうのです。神様の愛が水のように注がれているとしても、コップにすでに満タンに別のものが入っていれば、その愛の水は入ることはできないでしょう。私たちの弱さは神様の愛が注がれる大切な場所なのです。

 今日の聖書は「躓きは避けられない、しかし躓きをもたらすものは不幸である」(7)と教えます。そしてそれは、自分の手が自分を躓かせるとき、自分の目が自分を躓かせるときと、自分自身を躓かせることへと続きます。躓かせるもの。人間を躓かせる心。それは「自分は強い」、「自分には神様の愛は必要ない」とする、「傲慢」という心です。「片手を切る」、「片目をえぐりだす」という言葉は、「そうしなければ天国にはいけません」と言われているのではありません。イエス様は、「自分の弱さ」に気が付きなさい、と教えられているのです。片手を切り、片手をえぐりだすことは、「片手の人」「目の不自由な人」には差別的であまり良い表現とは言えませんが、一つの表現として「不自由」であることを表しています。そして、むしろすべての人間が不完全であることに、気づくことを願い教えられているのです。

 「自分は強い。または自分は弱くはない。弱いとしても、それほどでもない。自分は自分の力で生きていける。生きていかなくてはならない。」と思い疲れている者に・・・神様は、「私があなたを愛しています。あなたがどこにいても、どれほど迷い、逃れることのできないような疲れ、悩み、苦しみのなかにあったとしても、私があなたを見つけ出す。私があなたを救い出す。だから大丈夫。ただ私を待ち望みなさい。」と言われているのです。

 私たちは迷いだした一匹の羊。小さな者です。今、私たちは迷って、疲れ果てている。それでも大丈夫なのです。神様は、そのような私たちを愛して、どこまでも探しに来てくださり、手を差し伸べてくださるのです。

 そして、そのために、神様は、イエス・キリストを私たちのところに送ってくださったのです。そして、神であるキリストが、人間という弱さを持つ者となられた。しかもその中でも一番、弱く、罪人として殺されていったのです。つまり神がだれよりも小さな者となられた。そのことにより、神様は、私たちがどこにいても、どれほど迷っていたとしても、私たちを必ず探し出してくださる者となられたのです。私たちは、このイエス・キリストに従うものとして、自分の弱さを受け入れていきましょう。そしてそこにこそ神様の愛が表されることを信じて歩んでいきましょう。(笠井元)