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2020.6.28 「救いに定められたのです」(全文) Ⅰテサロニケの信徒への手紙5:1-11

1、神学校週間にあたり

 神学校週間を覚える礼拝ということで、説教の機会をいただきありがとうございます。また、日頃のお祈りとご支援に心より感謝申し上げます。神学生として最後の一年を歩んでいます。今年度は、例年とは全く違った形での学びをしています。コロナウイルス感染防止のため、大学施設は立入禁止、授業はインターネットを使って画面越しに行われています。

 今の状況だからこそ、パウロにとっていかにこの人たちが大事だったかということを、思わざるを得ませんでした。

 神学校も教会も、コロナで集まれない中でも、いろいろな方法でつながろうとしてきました。パウロは、テサロニケの手紙で何度も「兄弟姉妹たち」と繰り返します。「兄弟姉妹たち」と呼び合える仲間だから、通じ合う言葉があるものです。そんなふうに互いに呼びあえる仲間が、私たちにとってどれほど重要かと思います。

 LINEやお葉書を頂いて、私は本当に今年東福岡教会で良かったと。新参者の私にとっても、大きな慰めであり、励ましでありました。 

 

2、導入

 このテサロニケにいたパウロの「兄弟たち」というのは、どんな人たちだったか。

 もしこのテサロニケの人たちに、「あなたにとってイエスはどんな方ですか?」と質問をしたとしたら、多くの人たちは真っ先にこう答えたことでしょう。

 「今日再び来るかもしれない」「明日くるかもしれない」「いや今、この瞬間にも来るかもしれない」そういうお方だ。テサロニケの人たちにとっては、今にも世の終わりが来る。その時、主イエス・キリストが再び来られて、私たちの救いが完成する(再臨)。

 それがキリスト教の信仰を持ったきっかけであり、何よりも大切なことと信じていたことでもあったからです。

 社会的には、ある程度裕福な人たちだったと言われています。そういう人たちが、自分たちのこれまでの生活の安定を棄てて―イエス・キリストを信じていたら人から後ろ指をさされてしまうような―わざわざそういう生き方を選んだ。それがテサロニケ教会の人たちでありました。

 

 ですから、テサロニケの人たちにとって、イエスが再び来られるということは、切実な求めであったと思います。 

 私たちも主の晩餐式の度に、「マラナタ=私たちの主よ、来てください」と歌います。けれど今、2020年を生きる私たちにとって、この「再臨」という信仰は、果たしてどこまで現実味を帯びたものとなっているでしょうか。私たちは今日、どのような思いで、この祈りを共にするのでしょうか。 

 

3、展開

3-1、神は私たちを救いに定められた

 

9節にこのように書かれています。

神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。 

 

 この言葉を神の宣言として受け取りたいと思います。

 驚くべき言葉だと思います。神が私たちを救いに「定められた」!

 私たちは、普通、「救い」という言葉に対して、「定められた」というような表現はしません。聖書のもとの言葉を見ますと、これは法律用語のようです。この言葉が使われるのは、普通は、裁判所が出す判決なのです。この言葉の力強さを感じます。

 

 4章には再臨の日に起こることが描かれていて、壮大な出来事を何とか人間の言葉で表現しています。いろいろな解釈がありますが、その日、主がここに来られる。そして、主に歓迎されるようにして、私たちは主と直接会う。そういう救いが考えられていました。 

 私たちはそれを聞いて、うれしく思います。「ああそうか、私たちは救いに定められた」のだ!それは、大きく深い喜びです。

 しかし同時に、私たちは、すぐに気がつくのではないでしょうか。「人生そんなに甘いもんじゃない」。「救いに定められた」?―とてもそうは思えないという現実に突き当たることがあるのです。

 

3-2、今日の世界の苦しみ・私たちの痛み
 いま、私たちはすべての人が、今年の初めには誰も想像しなかった世界を生きています。私たちは、コロナウイルスという目に見えないものによって、突如、制限された生活に投げ込まれてしまいました。そこで自分に責任のない苦労や変化を強いられる。

 苦しみがある。ひどい目に遭う。ときに虐げられるような経験をする。そういう経験をパウロやテサロニケの人たちも経験しただろうと思います。私たちであれば、コロナウイルスのなかで途方に暮れる。一生懸命やって来たのに、これまであると思っていた道が見えなくなってしまう。経済的な打撃を受ける。暴動が起こる。苦難に遭う時、クリスチャンだけは、「無事だ、安全だ」ということはありません。

 そこで「お祈りをしても、神様が感じられない」。そういう時があるものです。今は世界中が、そういう苦しみのただ中を歩まされているのではないでしょうか。

 「神様、いったいあなたはどこにおられるのですか」そういう痛みを、キリスト教会だけでなく、世界中の人々が叫んでいる時代です。

 この苦しみの中から私たちは、「今すぐここへ来て、助けてくださいよ」「マラナタ=私たちの主よ、来てください」と祈ります。

しかし聖書はこの私たちの現実に対して、高らかに宣言しているのです。 

 

神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。

 

3-3、キリストは生死を超えた救い
1
0節に、

主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。と書いてあります。

 

 主が、私たちを救いに定められた。そのために、主は死なれたというのです。

  ここで「目覚めていても眠っていても」というのは、ギリシア的な言い方で、生きるときも死ぬときもという意味だと思います。

 主イエスは、十字架にかかり、死んで葬られた方です。だから、死のただ中でさえ、そこに共にいてくださる。たとえ死ぬほどの苦難があろうとも、落ち込んで下を向くその視線の先に、十字架の主イエスがいるのです。

  イエスは死からよみがえられました。イエスは私たちに聖霊を与え、死を超えた方として、復活された方として、私たちと伴われる。

 「今、まったく先が見えない」痛みに打ちひしがれる今日なのかもしれない。それでもなお、来たるべき日が来る。私たちは滅びてしまうのではない。この歩みは、昨日までも、今日の日も、そして明日からの将来も、永遠に主に支えられている。だから、決定的に大丈夫なんだ。

 

3-4、救いに定められ、いまを大切に生きる

 私たちの今日のこの苦しみは、何のためなのか。誰のせいなのか。それはわからない。けれど、信じるものには確かに言えることが一つある。たとえ今日、苦しみに襲われたとしても、まさにその時その場所で、イエス・キリストが、私たちに出会い、私たちを受け止めてくださっている。私たちは救いに定められた。その完成の日に、今日の歩みが繋がっているのです。

 神は私たちを怒りではなく、救いに定められました。だから私たちは、今日、この希望によって、生活のただ中で、安心して、眠りにつき、そして、目覚めます。今、私たちが生きている場所において、です。なんと、この時代、この場所にこそ、主にあっては希望があるのです!

主イエスがまさにここに来られるのです。

4、まとめ
 「マラナタ=私たちの主よ、来てください」

生きるのには苦難がある。私たちは世界的なこの苦しみの中で、自分たちだけがそれを免れるということは、決してありません。けれど、主イエス・キリストが再び来られる

  「マラナタ=私たちの主よ、来てください」そう祈りながら、この希望と共に、この礼拝からそれぞれの生きる場へと一週間押し出されて、一日一日を主と共に大切に生きていく。

私たちのこの生活の先に、やがて、画面越しではなくて、マスク越しではなくて、完全に直接に、生のイエス・キリストにはっきりと出会うその日が来る。その日、救いが完成する。

それはこの今日という日の、私たちの今の歩みの先に、必ずあるのです。

神は、そういう新しい恵みの世界に、私たちを導き続けているのです。

 パウロは、11節でこのように勧めます。

ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。

 この東福岡教会には、来たるべき日まで、互いに励まし合い、慰め合う仲間が、私たちのお互いがお互いのために、与えられているのです。やがて神はその約束を完成させる。その日まで、今日、この福岡の街に東福岡教会を与え、聖霊によって、私たちを繋ぎ続けていてくださっているのです。(高橋周也)