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2020.6.14 「神の業を求めて」(全文) ヨハネによる福音書9:1-9

1、世界の現状と教会の使命

 新型コロナウィルス感染症が全世界で猛威を振るっています。私たち東福岡教会は出来る限りの 感染対策を行い、感染拡大を止めるために協力し、最善を尽くすべきことはいうまでもないことで す。そして、感染拡大を止めるための対策だけでなく、世の中の不安がもたらしている多くの影響 にも心を砕いて共に祈りたいものです。コロナ感染症によって苦しみ悲しみ、不安の中にある方、 不自由な生活を強いられ、収入減少によって困窮生活を余儀なくされている方のことを忘れずに生 活し、祈りたいと思います。今、私たちの世界・社会が大きな不安と緊張、悲しみに包まれていま す。これらの問題をコロナのせいにすることが許されていると思いますが、感染症拡大で、改めて 浮き彫りになったことも多くあるのではないかと思います。まず一つ気づかされるのは、私たちの 世界と社会が多様な人々の存在と働きによって支えられているということです。私たちが普段使っ ている食料品はどこで誰によって生産され、私たちの経済活動がどんな形で行われてきたのかなど の問いに向き合わされます。その一つ一つを確認する中で、もう一つ分かることがあります。それ は、私たちの世界は、社会的な弱者に対して大きな負担を不平等に与えているということです。権 力の横暴、労働者の搾取、社会の格差や差別が存在します。それによって、貧困や差別に喘いでいる 人が多くいるという問題は、今のことに限らず、2000 年前、イエスキリストが生きた時代も同じこ とが起きていました。今の時代、この世に置かれているキリストの体なる教会は、常にイエスキリ ストを学び、その姿に倣うこと、信仰によって教えられたことを確認し、社会や周りに発信するこ と、これらのこそが、教会や信徒の私達に託された使命であり、福音伝道ではないかと思います。 

 

2、イエスの生きた時代 

 今日はまずイエスの生きた時代を見てみたいと思います。イエスの生きた当時、パレスチナはロ ーマに統治されていました。イエスの活躍した地域はパレスチナ地方で、すなわち当時ガリラヤと 言われる地域とエルサレムのあるユダヤ地方です。パレスチナで政治的支配権を握っていたのはヘ ロデ王でした。彼はローマ風の諸都市を建設したり、水道設備や文化施設を作たりして、盛んに建 設事業を行っていました。首都エルサレムでは神殿を立て直す工事などをしたのですが、ユダヤ人 たちはこの偽りの王に対して反抗したため、ヘロデは強力な警察国家を作り、反抗する者を次々に 捕えては厳しい処罰を与えました。当時の社会では、民衆達が重税に苦しみ、貧富の差が激しくな り、物乞いがあふれるようになりました。誰もが本当の救済を求めていたのですが、宗教界は一般 民衆を教える状態にはありませんでした。指導者たちは自分たちの集団を作り、互いに争っていま した。その上に、ユダヤ教は過去数世紀の伝統にしがみつき、昔モーセが神から授かった律法・諸規 定を守ることによって救いが得られると思い込み、律法を守ることに人生最大の価値を置いていま した。多くの宗派の中、ユダヤ社会に最も強い影響力を与えたファリサイ派という大きな団体があ ります。彼らは、律法に極端に忠実なグループだったと言われます。このグループからの影響があ ったのでしょう。その時代のユダヤ社会では、神の律法・規定に違反すれば罪人でありました。例え ば、モーセ律法には、安息日を守りなさいと書いてあるから、これを絶対と見なして、それに合わせ ていろいろと細かな規則も作りました。その中に、土を耕すこと、洗濯すること、火をつけること、 家畜に餌や水をやること、抱き合うことをしてはならないと、細かい指定があります。ファリサイ派の人たちは、安息日にしてはいけないことをしていないかどうかばかりに心を奪われてしまい、 守っていない人を差別し、本当の意味での安息を守っていなかったとも言えます。 

 

3、安息日の癒し 

 このような背景の中で、イエス・キリストが登場し、安息日の日に生まれつきの目に見えない人 を癒しました。この物語については、ヨハネによる福音書9章1節から9節までしか読んでいませ んが、実際に 41 節まで続き、9章全体の物語として紹介されています。読んですぐ分かることなの ですが、安息日に病人を癒したイエスご自身が、安息日を守らない人とされ、罪びとであると断罪 され、偏見を浴びていました。ただここで、もう一つ注目したいことがあります。それは、もう一人 偏見を受けた人がいたということです。イエスの弟子達が生まれつき目の見えない人を連れて、「こ の人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。それとも、両親ですか」とイエス に尋ねたことが分かります。つまり昔、病気や障がいを持つ人は、きっと罪を犯したからそんな目 に合っているのだと決めつけられて、偏見を受ける存在でした。弟子達は、ここで「病」「障がい」 の本質を問うたというよりも、「罪」とは何かを聞いているように思います。イエスはそれに対して、 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためであ る」と答えられます。つまり、「病は罪の結果ではなく、罪に対する罰でもない」ということです。 ここで、「病」と「罪」との関係をイエス自らが断ち切られ、批判や迫害の危険に直面していたにも かかわらず、安息日となるその日に盲人を癒したのです。イエス様は、病いは人間の多くの苦しみ の原因であり、耐えられないほど多くの不幸を生み出していることが知っておられました。そして 「お前は全く罪の中に生まれたものだ」と相手にされない盲人、物乞いをすることによってしか生 活できない社会の周辺にやられて、偏見に苦しむ彼の絶望も知っておられます。そんな彼の体の苦 しみと心の叫び、飢え渇きにイエス様が寄り添い、「憐れみ」をもって共感し、彼を大切に思ってく ださる、そのところにまことの安息があるのです。「神の業がこの人に現れるため」とありますが、 神の業とは、奇跡の癒しの働きではなく、弱くされ苦しむ人々に解放をもたらし、人間として生き ていけるという救いと希望をもたらしてくださるイエス・キリストの愛の生き方と教えではないか と思います。 

 

4、神の業を求めて 

 新型コロナウィルスが誰に対しても平等に襲いかかっています。そんな危機の中で、差別や社会 的弱者への過度負担といった「人災」を避けるために、神様の知恵と愛の働きを、今改めて追い求め たいと思います。そして、教会に集まり、主にあっての兄弟姉妹と出会うことにより、まことの安 息・平安を味わうことができるように、これからも皆様と共に神の業を祈り求めていきたいと思い ます。お祈りしましょう。(劉雯竹)