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2020.5.3 「輝きの中に十字架を見る」(全文) マタイによる福音書17:1-13

1:  勘違いしたペトロ

 今日の箇所において、イエス様は、その顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなり、モーセとエリヤと話し合いだしましたのです。これを見たペトロは、「なんてすばらしいことなんだ」と感激したのです。自分の先生イエス様が、「偉大なモーセとエリヤと話し合っているなんて・・・」と驚きと恐れと、喜びがあふれたのでしょう。ペトロは、「このすばらしいイエス様の姿、栄光の時が続くように」という思いから、ここに仮小屋を三つ、一つはイエス様のため、もう一つはモーセのため、もう一つはエリヤのために建てましょうと言ったのです。ペトロは、輝くイエス様の姿が素晴らしいと思ったのでした。それ自体は間違いではないでしょう。しかし、神の栄光は、その光輝く部分だけ神様の栄光ではないのです。神様の栄光とは、確かに輝く光という部分があります。ただ同時に、十字架の上で死に、陰府に下ったという、闇をも支配されるところにもあるのです。

 

2:  十字架の栄光

 イエス・キリストによる神様の栄光は、「復活」の前に、まず「十字架」があります。「十字架」があり、そして「復活」があるのです。

 4月にはイースター礼拝があり、共に、イエス・キリストが復活されたことを覚えて礼拝を持ちました。イエス・キリストの復活によって、死を打ち破り、新しい命が創造されたのです。このイースター、復活の前に、私たちはレント、受難節としてイエス・キリストの十字架を覚える時をもちます。十字架において、もだえ苦しみ、私たちの重荷を背負ってくださった、そのイエス・キリストの痛みを覚えるのです。マタイは、今日のこの箇所でイエス・キリストの「輝く栄光の姿」を表し、ここから「十字架」へと向かっていく姿を表していきました。そして、その中に、神様の栄光を表していったのです。

 今日の箇所はペトロとヤコブとヨハネだけが連れられてきました。このあとイエス様がこの三人が連れられて行ったのは、ゲッセマネの祈りのときになります。ゲッセマネでイエス様はこのように祈りました。【「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」】(マタイ26:39)この祈りは、十字架という死を前にして、その恐れに耐え切れないで、逃げ出したい思いを神様にぶつけている祈りであり、人間としての弱さと同時に、それでも神様に目を向けて、最後は「御心のままに」と、祈る、神様への信頼の祈りです。イエス・キリストは、この祈りの後、弟子イスカリオテのユダに裏切られ、弟子たちが逃げ出すなか、十字架の上で苦しみ、痛み、死なれていったのです。神様はそこに、神の栄光を示されたのです。

 

3:  イエスとは?

 私たちは、一体イエス・キリストをどのような方だと思っているでしょうか。以前、教会に来られた方が、「自分には不幸ばかりが起こる。神様がいるならば、自分を幸せにしてください」と言ってきた人がいました。その方は、聞いてみると、確かに大変な人生を歩んできたのだなと思わされました。突然、病気になり、両親は事故で亡くなられた。自分は悪いことをしようとはしていないのに・・・ということでした。

 この方の言われていることは、よくわかります。私たちも、自分が困難の中にある中、「神様、なぜこのようなことを起こされるのですか」と叫ぶときがあるのではないでしょうか。わたしたちはどのような神様の愛を求めているのでしょうか。そして、神様がこの世界に送ってくださった愛、イエス・キリストは、どのような方なのでしょうか。イエス様はご自身が来たことをこのように言われました。【2:17「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」】イエス・キリストは、どん底にある私たち、医者を必要とし、癒しを必要とする者と共にいて、その痛みや苦しみを一緒に受け止めて下さる方なのです。

 

私たちは、何を自分の幸せとして考えているのでしょうか。聖書が教えている幸せは、「人生に困難が起こらないこと」ではないのです。今、私たちは新型コロナウイルスという、先を見ても闇しか見えないような困難の中にあります。私たちはこの時に、「神様は何をしているのだろうか」「神様は私たちを愛していない」と考えるのでしょうか。

聖書が教える、神様の愛は、困難が起こらないということではありません。むしろ、困難が起こる中、どのような時にあっても、何が起こっても、そこにイエス・キリストが共にいてくださり、神様が私たちを愛してくださっているということなのです。「生きていたくない・・・」と思う私たちに、神様は「わたしがあなたを愛している」「あなたの存在には価値がある」と教え、「あなたの隣にはわたしがいる」と言い、事実、隣で一緒に生きてくださっているのです。イエス・キリストは十字架を通して、私たちと共に生きる方となられたのです。ここに神様の栄光があるのです。

4:  「わたしの愛する子、これに聞け」

今日の箇所5節では雲の中から、【「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」】という言葉が聞こえたのでした。この言葉とほぼ同じ言葉が、イエス様がバプテスマを受けられた時に聞こえてきました。違いは最後の「これに聞け」という言葉が、今日の箇所には追加されていたということです。神様は、わたしの愛する子イエス・キリストに「聞け」と教えます。それは輝く神としてだけのイエス・キリストではなく、十字架で苦しみ、痛み、そして共にいてくださるイエス・キリストに、耳を傾けるということです。わたしたちは十字架の主イエス・キリストから御言葉を聞いていきたいと思います。私たちの罪とは、十字架を見ないことです。十字架を見る時に、私たちは、たとえ暗闇の中にあっても、本当の希望の光を見ることができるでしょう。どれほどの困難の中にあっても、「主が共におられる」のです。私たちは、このキリストの十字架に目を向け、このイエス・キリストによるみ言葉に耳を傾けて歩んでいきましょう。(笠井元)