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2020.4.12 「僕の道を歩まれる方の輝き」(全文) マルコによる福音書9:2-8

 私たちは礼拝の招きの言葉を聴きました。「驚くことはない。あなたがたはナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる』と。(マルコ1667

 コロナウィールスの蔓延の不安の中で、2週間前の受難節には、イエス様が裏切られ、孤独の苦しみを受けたことを、あたかも復活の喜びがなかったかのように捉えてはならないと言いました。今朝は、イースター、主イエスの復活祭の喜びの礼拝です。今度は、復活されたお方、主イエス様は十字架につけられたお方であるということを忘れないようにしたいものです。人は、苦しみ、悩み、悪いこととしか思えない経験を通して、それらを内に含んでというか、それらを克服することで深く、広くされるのではないでしょうか。今朝は、十字架につけられたお方の復活という喜びの「秘密」について考えて見ましょう。 

 

1.主イエスの生涯の分岐点での出来事

 場所は特に語られていませんが、主イエスは、六日の後、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、「高い山」に上りました。復活後のイエス様が弟子たちに現われたタボル山かもしれません。あるいは、高い山はかつて旧約聖書の指導者モーセが十戒を授けられたシナイ山を仄めかしているのかも知れません。シナイ山は、モーセは「ヨシュア」、そのギリシヤ語の名前はまさに「イエス」ですが、ヨシュアと共にシナイ山に登り、神と出会い、十戒の板を授かった山です。その時、モーセの顔は輝いていたと言われています。エリヤもまた旧約聖書の偉大な預言者です。列王記下2:11ではエリシヤと50人の預言者の仲間の前で「火の馬に引かれた火の戦車に乗り、嵐の中を天に上った」と言われています。

 ペトロとヤコブとヨハネの三人だけを連れて、ということは何か神様の不思議な働き、秘密が示されることを期待させます。随分前に英語の論文を読んだことを記憶していますが、その論文は、今日読んでいる箇所を、ペトロの信仰告白とイエスの受難の予告と合わせて、主イエス様の人生の分岐点であると言っています。マルコによる福音書は、イエス様がバプテスマをお受けになった、罪人が悔い改めるバプテスマを受けられたことから始まります。それは、主イエスが神と人への僕の道、十字架への道を歩まれる出発点でした。そして、そのような僕の道を進まれるバプテスマを受けられたその時に、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」であるという声がイエス様だけに聞こえたと言います。いわば、僕の道、十字架への道を歩みだされたその時に、「復活」の予告ともいうべき聖霊の注ぎ、「神のみ子」の自覚が与えられたのです。

 そして、主イエスの生涯の最後は、十字架での処刑と復活の出来事です。裁判の中で、「お前は、ほむべき方の子、メシアなのか」との詰問に、イエス様は「そうです」と答えられています。復活のイエス様は、縛られ、嘲笑されるイエス様でした。そのような最初と最後の2つの出来事の中間にこの山上の変貌の出来事があるというのです。

 

2.苦難の予告

 今朝読んでいる箇所の前に、8:31以下があるわけです。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに教えはじめられた。」そして、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(34節)という勧めがなされます。「これではあんまりだ!」。ペトロは抵抗して「イエスをいさめ始めた」「そんなことはない」と言い張るわけです。このように、十字架の苦難の影が明確に迫ってきたその時に、イエス様の決断に対して、イエス様と弟子たちを励ます神の言葉、神様のみ心が示される。それが不思議な今日の箇所です。

 

3.「メタモルホーゼ」:変容・変貌の希望

 「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」。「変わる」:「メタモルホーゼ」についてはすでに説教で触れたことがあります。蝶々は卵から青虫になり、蛹になり、蝶になる。蝶は、その本質は変わらないけれども、卵、青虫、蛹、蝶と「からだ」を変えるのです。皆さんは「醜いアヒルの子」という童話を知っているでしょう。どういう訳かアヒルの卵の中に白鳥が混じっていてヒナの時はみんなと違っていじめられるんだけれど、大きくなったらかたちが変わり、整えられて白鳥として飛び立っていくというわけです。まあ、私としてはこれじゃあアヒルを馬鹿にしていないか、白鳥の中に一羽アヒルが混じっていて大きくなってアヒルになって個性を発揮したというのも良いかなと思います。苦難、排除される、殺される道、僕の道を歩むイエス様とそれに従う弟子たちに「ちょっとだけよ」ではありませんが、復活のヴィジョが瞬間的に出現したのでしょうか。

 今年は、東日本大震災と津波、原発事故が起こって9年目でした。新型コロナウィールスの恐怖であの未曽有の出来事を充分心に刻むこともできませんでした。私は、2回被災地の大槌町小槌の仮設住宅を訪問しました。子どもたちと一緒に遊ぶボランティアでした。一緒に行った國分美生さんが何とか子どもたちを笑わせようとするのですが、二度と笑うまいと決意した女の子がいました。多分小学4、5年生くらいでしたか。目の前で弟が津波に流され死んでしまった、不条理に対する怒りでしょう。結局2日とも顔に感情を全く表しませんでした。それでもそこに来てくれたことに感謝しました。もう一人同じ年の女の子がいまして、二日目、ちょっと笑いかけたのですが、彼女も必死で笑いを消しました。私は悲しむ友人のために自分も笑わない決意をしている健気(けなげ)な子に感心しました。あの二人は、今年19歳か20歳になっているはずです。どんな女性になっているか気になります。私は、復活を信じます。あの不条理は、不条理のまま終わらないでしょう。彼女らは将来を見て立ち上がり、神様によって弟や家族との関係も変貌する、変容すると信じています。そう信じなければ、生きる勇気はでてこないでしょう。死の力を克服した新しい関係が輝き出すという希望がなければ、生きる力は湧いてこないでしょう。神の正しい審判と救いは起こらねばならないし、起こるでしょう。

 

4.「これに聞け」

 ペトロは例の如く面白いことを言います。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。」「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。非常に恐れていたからである。」この復活の出来事と輝く変貌のヴィジョンは、小屋など建てても閉じ込めることのできない永遠の神の愛といのちの勝利の出来事ではないでしょうか?人間の宗教的願望、涙ぐましい努力をはるかに超えた神といのち、輝きの顕現です。これは到底、人間の所有物にはなりません。

 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただ、イエスだけが彼らと一緒におられた。ただ、イエスだけがそこにおられた!

 僕であること、僕の道を歩むこと、そして、人生において様々な困難、苦難、悲しみに出会うことは本当に喜べることでしょうか?ただ、イエスだけがそこにおられた!主イエスがバプテスマを受けられた時の天からの声とここでの声とは微妙に異なっています。バプテスマの時は、イエス様だけに向かって「あなたはわたしの愛する子」という声ですが、ここでは、弟子たちにも向かって「これはわたしの愛する子」となっていて、第二人称が第三人称になっています。イエス様が復活の神の子であることが、その秘密が弟子たちに明かにされたのです。そして、力強い「これに聞け」という声が加わっています。私たちは新型コロナウィール蔓延の危機に直面して、教会はどうなるだろう、幼稚園はどうなるだろう、自分の仕事はどうなるだろうと心配しています。しかし、イースターのこの礼拝を通して、苦難、困難、苦しみ、恐れ、孤独の経験は、私たちの教会の交わりをさらに強くし、幼稚園の保育の信頼性をさらに豊かにし、皆さんの仕事や家庭、人間関係をさらに新しく造り変える機会になると信じましょう。(松見俊)