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2020.3.29 「神の業が現れるために」(全文) ヨハネによる福音書編9:1-7

 今朝はキリスト教のカレンダーで言うと、レント、つまりイエス・キリストの十字架と復活を覚える40日間の内の五番目の日曜日となります。今年は新型コロナヴィールスの感染拡大の報道の中で、一種のパニック状態の中に私たちは日常生活を営んでいます。このような時はごく、日常に戻って礼拝をするという意味で、伝統的な教会カレンダーの「聖書日課表」に従い、ヨハネ9:1~7を説教の箇所に選びました。プロテスタントのルーテル教会は三年サイクルA年のレント第三主日に、ローマ・カトリック教会では、レント第四主日にこの個所を読むように勧めており、9章全体を読むように指示しています。今日家にお帰りになったら8節以下をお読み下されば幸いです。

 人生において私たちを最も悩ませる問いは「なぜ?」という問いでしょう。東日本大震災・大津波を経験した人々の多くは、「なぜ、自分は死ななかったのか?」という問いに悩まされています。特に愛する家族を失った人々は「なぜ、妻が死に、あるいは夫が死に、子どもが死に、おばあちゃんが死に、自分だけがいのちを長らえているのか?」と疑問に思うとのことです。実は、十字架の上でイエス様が叫ばれた祈りが「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ1534)というものであったと伝えられています。私たちも病気になったり、怪我をしたりすると、よりによって「なぜ私が?」と思い、「なぜ私の家族が?」と考え、納得できる「理由」を問うのです。クルーズ船に乗り合わせて新型コロナヴィールスに感染し、閉じ込められていた人々も同じような問いに直面したかも知れません。そして、「パンデミック」と言われて全世界が見えないものへの不安で満ち、「どうしてなんだろう」と自らに問いかけていることでしょう。

 

1.「なぜ」という、隠れた問い

 今朝共に読んでいる物語は、「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」という導入の言葉で始まります。主イエスと弟子たちの一行がエルサレムの市内を歩いていたおり、生まれつき目の見えない人に出会った物語のです。たとえ通りがかりであったとしてもイエスはこの目の見えない人に目を注がれるのです。イエスにとって、この人もまた神の愛と恵みの下にあるからでした。

 主イエスのこの注目につられて、弟子たちもこの人のことを見ます。そして、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したのですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と尋ねます。ここには、直接「なぜ?」という言葉は登場しませんが、「なぜなんだ、その原因を知りたい、聞きたい」という想いは弟子たち以上にこの目の見えない人自身にもあったと思います。なぜ? という問いはすべてを原因―結果の因果律・連鎖の中でものを考える現代的な、科学的な考え方でもありますが、当時は、病気や死、そして目が見えないことなど、何か不幸なことがあれば、それは誰かの悪、あるいは神の前での悪である罪の結果であり、神の罰であると考えられていましたので、ここでの「なぜ?」は、この人自身を苦しめ、差別に苦しめられ、神との関係においても傷つけられるという二重、三重の苦しみであったろうと思います。いわゆる、「因果応報」思想です。私たちの文化でも、昔から「親の因果が子に報い」という言葉があります。確かに、親の問題を子供が引き摺るということがあるでしょう。遺伝や育った環境がその人に深い傷を与えるのです。仏教的考えでは因果応報、因縁とかいうものが人間を支配すると教え、その現実を宿命として諦め、受け入れることを勧めるわけです。私は、しばらく千葉県の松戸市にある教会で牧師として働いていました。ある時、目が結膜炎かいわゆる「ものもらい」になりました。近くの眼医者にいきますと、保健証住所に松戸市小金原、栗ヶ沢教会内とありましたので、医者は、にやっと笑って「牧師さんですか! どこかでこっそり悪いことをしてのではないですか?」と言いました。「牧師のくせに、どこかで隠れて悪いことをしたので、バチが当たって結膜炎になった」というのです。私も笑って「余分なことは言わずに、早く治療して」と言いました。いわゆる因果応報思想です。

 キュ-ブラ-・ロスという人が On Death and Dying  『死と死に逝くことについて』という有名な本を書いています。彼女は、人間が病や死の恐怖に直面すると、五段階を経てその現実を受け入れると言うのです。第1段階は拒絶と孤独という反応です。現実を拒否して見ないようにし、愛する人にも打ち明けず、孤立します。第2段階は怒りです。よりによって何故、自分が今、病気になったり、死ななければならないのかといって、納得できないが怒りが沸き上がってきます。そして、第3段階は、取り引きの段階です。もし良くなったらあれもします、これもしますといって、神や運命と取り引きするのです。それから、第4段階で絶望的鬱状態に落ち込みます。そして、最後には死に行くことを受け入れることができるというのです。そしてそれぞれの段階が必要な過程であり、それを認めてあげることが大切だと指摘しています。このような現実を受け入れるプロセスの中で「なぜ」という問い、それに対する納得できる、腑に落ちる原因を知ることも大切なのでしょう。私たちが出会う困難そのものよりも「よりによってなぜ私が?」と問い、納得したいというのが私たちの願いであり、納得さえすればある困難にも耐える力を得られるのです。しかし、そのような「なぜ」という問いへの答えは簡単には見つかりません。かえって、人を袋小路に追い詰めてしまいます。

 

2.「なぜ」から「何のため」に

 このような「なぜ」という原因と結果の関係を求める疑問に対して、主イエスは「神の業(hina Phanerōthē ta erga tou theou en autō)が現れるためである。」と言われるのです。最初私がこの言葉を読んだときに、腹立たしい気持ちになりました。これでは、目の見えない人を侮辱しているのではないだろうか? 神の業が現れていないからこそ目が見えないのではないかと考えたからです。

 しかし、いままで多くの目の見えない人たちがこの主イエスの言葉に慰められ、支えられて、生かされてきた証言を聴きました。家族たちからも見捨てられ、誤って隔離されてきたハンセン氏病の人たちがこのイエスの言葉によって、病いや偏見・差別や孤独の現実の中で生きる勇気を与えられてきたのです。ヘルムート・ティーリケというドイツの神学者から教わったことですが、人間は「なぜ」という答えを突き詰めても解答が与えられない。かえって袋小路に陥ってします。そこで、人間は、「何のために」何を目標にして生きるのか、神の業、神のご栄光のために生きるのだと考えると生きる力が湧いてくると言うのです。確かに、「なぜ」という原因、因果関係を求める問いは過去に目をやります。そして、将来の悪い見通しが先取されてしまいます。これに対して、「何のために」生きるのかという目的・目標に目を向ける生き方は私たちの目を神の将来に向けるのです。それは誰かの責任を問うよりも、神の恵みの光を指差します。新型コロナヴィールスがどこから起こったのか? 中国は米国が仕掛けたヴィールス戦争だと言い、米国は武漢での対応が悪いと指導者がやりやっています。今必要なことは、原因追及も一つの大切な問いですが、この困難を「神の業、神のご栄光、人間への神の愛と人間の救いの神の業が現れるために」乗り越えていかなければならないでしょう。皆さんが、光の見えないトンネルに入ってしまうような経験をされるときに、「何が原因なのだ、誰が悪いんだ」という犯人捜しの「なぜ」を問う問いから、「これを神の業が現れるために」生きようという方向に向いて下さったらよいと思います。そして、今朝は、主イエスの言葉の前半部分「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」という力強い宣言に「アーメン」と答えて、私たちの信仰がブレないようにしましょう。主イエスが信じる神は、何か悪いことをしたら訴える検察官や罰を与える裁判官、痙攣的な反応をするようなお方ではなく、愛と慈しみの神です。私たちのいのちを、そのひとり子イエス・キリストのいのちと等しいほどに愛して下さった神様であるのです。イエス・キリストは世の光です。この光の下で人は「なぜ」という問いを抱えながらも、その問いの持つ闇の力に支配されずに生きることができるのです。

 

3.躓き?

 そして、主イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目に塗られたのです。昔は、唾にはいやす力があると信じられていました。治療や魔術の効果があるとされていたわけです。あるいは、転んで擦り剥いた子どもの膝小僧に母親や父親が唾を塗ってくれて、「痛いの痛いの飛んでいけ」というようなこまやかな愛情をもってイエス様は彼の目に土を塗ります。

 しかし、目が見えない上に、泥を塗られたのではたまったものではないという気もします。「人の顔に泥を塗る」というのは100%良い言葉ではありません。目が見えない上にさらに泥がぬられたのは、ある意味で信仰者が陥る現実を暗示しているのかもしれません。神を知り、信仰を持つことで、かえって良心が鋭敏になって今まで気付かなかった自分の貧しさを知らされたり、あるいは新しい律法にがんじがらめになったり、人の目を気にしたり、他者の罪を見抜けるようになって人を裁いたりして、以前よりもっと不自由になることがあるのだろうと思います。にもかかわらず、確かなことは、イエス様はこの目の見えない人にその愛を伝えるには、どうしたら良いのかと考えられたのだと思います。彼は、耳は聞こえたのですから、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」という力強い言葉を聴いたことでしょう。しかし、イエス様が、この人の目を癒すことに関心があることを伝えるために、「そう、ここだ、私は、あなたの目に関心があるということを示すために、何やら唾で練った土を瞼に感じて、目の見えないこの男に、君のこの目に注目しているよという声にならない、この人が分かる仕草で、呼び掛けをされたのではないでしょうか?こうして、祈りを込めてイエス様は唾で練った土を塗るのでした。あるいは目が見えない上に、土を塗られたことに事柄はもっと悪くなったと感じたでしょうか?そんなことはありません。なぜなら、彼はイエス様の言葉にしたがったからです。

 

4.シロアムの池へ

 イエス様は、そして、エルサレム城内にあったと言われる「シロアムの池に行って洗いなさい」と命じます。「シロアム」とは、ヘブライ語から派生した水の「導入」路という意味です。エルサレムの南東部にある16m×5.4mの人口池で、ヒゼキヤ王の時代に城外のギホンの泉から地下水道によってその水を確保したものです。エルサレムは堅固な城塞に囲まれた難攻不落の町でしたが、命の綱は水の確保であったのでしょう。ここでは、シロアムとは『遣わされたもの』という意味であると言われています。イザヤ8:6に不思議な伝承が語られています。イザヤはヒゼキヤ王の時代の預言者ですが、「この民はゆるやかに流れるシロアの水を拒みレツィンとレマルヤの子のゆえにくずおれる」。武力による軍事同盟に頼り、エルサレムといのちの泉である主なる神を拒んだことが指摘されています。シロアムは「シロア」の複数形ですが、いのちを活かすべきお方は、神から遣わされたイエス・キリストご自身が方である」と告白しているわけです。そこで、「彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰ってきた。」

 

5.愛のお方イエス様に出会う

 そして、更に、この人はやがて35節以下でイエス・キリストご自身と出会うことになるのです。「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして、彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼は見えるようになった目で何を、誰をみたのでしょうか? 命の主、愛の主です。ヨハネ福音書には「わたしである」(ego eimi)という「神の自己啓示定式」がたびたび登場しますが、ここでは、You have seen Him and the one speaking with you, He is. という表現が用いられています。この人は、見るべきお方であるイエス・キリストを見てしまっているというのです。

 しかし、39節の言葉が私たちに対する警告です。「イエスは言われた。『わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。』

 イエス様において、価値観、生き方の「逆転」が起こる。つまり、この世の力ある者、知恵ある者が決して真実を見ているとは限らず、弱き者、貧しき者が人生と事の真相を見抜いているという逆転が起こるというのです。そうですから、現実の闇の大きさに絶望して憤たり、虚無主義に陥ったり、開き直ったりせずに、イエス・キリストを見て、自分を見るのではなく、イエス・キリストをしっかり見て新しい週を、そして、今年度最後の主の日を感謝して歩みましょう。(松見俊)