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2020.1.12 「あなたは、イエスを何者だと言うのか」(全文) ルカによる福音書9:18-20

1、新年の「夢」

 明けましておめでとうございます。皆さんはどのような年末年始をお過ごしになられたでしょうか。1231日大晦日の夜、テレビをつけたら、2020年カウントダウンイベントが東京の公園で行われる様子を見ました。公園に集まってきた人が大勢いましたが、新年への願いを込めて「新年初詣」と「除夜の鐘」に来る人も全国からたくさん来ていました。あまりにも賑やかな雰囲気でしたので、「3210!」と、テレビいる皆さんと一緒にカウントダウンしながら2020年を迎えました。私たちは、新年を迎えると、気持ちがリセットされ、「今年こそは」と何か新しいことを始めたくなりますし、「新しい夢」や「新しい目標」をいろいろ考えたりするものです。しかし私の場合は、忙しい101112月を過ごし、学院の行事など、慌ただしい日々を過ごしました。そんな中、年末になると新しい年の夢を考える余裕も力もありませんでした。年末から贅沢な休日を頂きましたが、何もせずぼーっと過ごしたい、それだけを願いました。その中で、活動的な生活を辞めて、静かに考える時間、一年間を振り返って感謝する時間、リラックスしてドライブする時間、そんな時間を作りたいと思いました。目の前にある課題を封印し、仕事以外の何かをする、今までの日常を変えたいという願いを持つわけですが、元旦の日の朝、まだ明るくなっていないうちに、一つの夢を見ました。とある教会で説教をしている時の様子です。今までの経験で言うと、説教の夢を見ると、いつも同じ内容のものを見るのですが、日曜日の朝、教会の講壇に立って話をしようとしたところ、説教原稿を忘れてきたことを発見。慌てて原稿を探していくところ、目が覚めたという繰り返しが殆どでした。しかし、今回が違っていました。説教原稿を持ってどうどうと説教している自分が夢の中に現れました。「良かった!今回はちゃんと原稿を忘れず講壇に立っている。偉い。」と夢を見ながらつぶやいていましたが、しかし説教の途中、緊急事態が起こりました。ある教会のお祖母ちゃんが(そのお祖母ちゃんが天に召された方ですが)、会衆席に座って説教を聞いていたのですが、突然、不満げな顔をしながら、前に進み出て、いつの間にか講壇に立つ私の横に来たのです。お祖母ちゃんが説教を中断し、いきなり質問されました。「劉先生、あなたは、イエスを何者だと言うのか」と厳しい態度で問われました。怠慢を許さない厳しい態度だったので、震えながらですが、「イエス様?イエス様は、私の救い主、私の先生、私の友達です。」と一生懸命言葉を探し当てました。そしてお祖母ちゃんが「もし本当にそうであるとしたら、どうしてオリンピックの話ばかりを説教でするのか」と厳しく叱られました。「えっ?先、オリンピックの話、しましたっけ?!」と汗をかいて答えたところで目が覚めました。なぜ新年最初の日にこんな悪夢を見るのか、原因が分かりません。2020年に入ったら、東京オリンピックがあることを無意識的に気になっていたのかもしれませんし、教会や学校、幼稚園など、様々な対象の前で、また違う場所で「どのように御言葉を伝えて語れば良いのか」という日々の緊張感が休みの日まで続いたのかもしれません。休日でも気が休まらないのではと苦笑いながら、「今回はちゃんと説教原稿を忘れず講壇に立ったので、新年の成長としてよしとしよう」と自分を励ましました。その時、12日の東福岡教会の説教奉仕を思い出しましたが、「この箇所でメッセージを語ろう」と決めました。「あなた方は、私を何者だと言うのか」という、イエスが弟子たちに質問された箇所を選んで、ご一緒に考えていきたいと思います。

 

2、信仰告白

 ある日イエスが一人で祈った後、「あなた方は、私を何者だと言うのか」と、突然弟子たちに尋ねられました。これは、あなたはどのように私を信じているか、と、弟子たちに信仰を言い表すようにと決断を迫られる場面でもあります。今の私たちからすると、「今ここで信仰告白をしなさい」というような話だったと思います。そこで、弟子たちはすぐ自分の信仰理解を告白しようとせず、自分の周りにいる人、その人達のイエスに対する評価を紹介し始めます。「あなたのことを『洗礼者ヨハネだ』と言いう人も、『エリヤだ』と言う人も、『誰か昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」と、とても客観的な視点を持ち出されたわけです。確かに、一見して、弟子たちは極めて客観的視点を持っているようには見えていますが、しかしなぜ彼はすぐ答えようとしなかったのかといつも考えます。一つ考えられるのは、彼らは自分の先生イエスキリストに対する人々の評価を沢山聞いてきましたが、どれが本当で、正しい答えなのか、彼自身もよく分からず、自分の答えに自信が持てなかったからかもしれません。物事の結論を出すということは、誰にとっても簡単なことではありません。自分の答えや結論に自信が持てないのがもちろん、間違った答えをしてしまったらどうしよう、減点されたらどうしよう、笑われて、叱られたらどうしようと、自分のプライドを気になりすぎて、なかなか答えを出せない時もあるでしょう。私自身が、献身者として、西南の神学部に入ってからはそうですが、教会で奉仕し、社会人になった後も同じです。色んな学問に接し、色んな人の見解を聞きます。それらを学び、聞くという姿勢はとても大切ですが、しかしあなたはどう思うかと、自分に意見を求められる時だって多くあります。ルター、カルバン、バルト、ボンヘッファー、モルトマン、偉大な改革者、神学者たちの神学を学んできたけれど、あなたの信仰は、学んだことによってどのように形成されているのか、あなたはそこからどんな確信を得、どの立場に立とうと思っているのか、と問われる日が必ず来ます。日々教育の現場に身を置きながら感じていることは、自分意見や考え方をなかなか言わない、あるいは言いたくはない若者、学生が少なくないということです。自分も含めてですが、時々誤解することがあります。すなわち、自分の考えを持つこと、他人に意見を述べることは、イコール、他人から区別されること、他人と違うからと排除されること、集団から外れていること、傲慢であることなどと考えてしまうことがあります。質問に答えようとしない、ということの背後に色んな理由が考えられるわけです。しかし、イエスは、この世的な縛り、人間が気になっているプライド、評価、価値観などを越えて、弟子たちと対話し続けます。「日々私に従い、私の教えを聞き、私を信じるあなた方はわたしを何者だと言うのか。」と問い返します。そこで、ペトロという弟子の一人が、問題にチャレンジし「神からのメシアです」と答えました。メシアはヘブライ語で「油をそそがれた者」「救い主」を意味します。

 

3、イエスの自己啓示

 この信仰表明は、ペトロが自分自身の理解に基づいて出した信仰告白のように見えます。しかし、ペテロは自分の信仰告白の内実をどれだけ理解し、分かっているか言うと、たとえ満点で正しい答えを出したとしても、曖昧な理解をしたまま答えたペトロの姿がそこにあると思います。21節から次のようにあります。「イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。私について来たい者は、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい・・云々』と」わざわざ弟子たちに質問し、更にペテロから正しい答えを得たのに、なぜ誰にも話さないように命じたか。このやり取りを通して、私たちは何を考え、学ぶのでしょうか。

 実は、ペトロの信仰表明は、イエス自身が彼らから引き出した自己啓示だと言われています。それはイエス自身が選んだ人(弟子)に与えられた啓示であり、従って他の人々には分からないものであるから、このことを誰にも話さないように命じられたのかもしれません。答えを知ったペトロは、救いの内実など、全てが分かったわけではありません。だからイエス様はペトロの信仰告白の内実を教えます。すなわち、ご自分がどのように人間に救いをもたらすのか、ということを説明されます。ペトロの信仰告白に出て「メシア」は、まず受難のキリストであるということです。多くの苦しいを受けて、救いの代価として命を捧げます。続いて、メシアは復活なさるキリストであることです。苦難にある義人であるキリストは、打ち捨てられたままにならず、神の力によって復活されるというのです。ペトロが「あなたは、メシア、生ける神の子です」と返事をしたとき、このようなイエスキリストの神の性質、苦しみを受け、復活することによって人間を救うということを理解していなかったでしょう。しかし、マタイによる福音書1613節から同じ記事があり、答えを出したペトロに対し、イエスがこう言われます。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、私の天の父なのだ。私も言っておく。あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。私はあなたに天の国の鍵を授ける」と。イエスは、ペトロがイエスの教会の礎になるであろうと宣言します。地上新しい共同体、教会の人々は、正にこの不完全な弟子たちから始まるのです。

 

4、あなたはメシアです

 聖書に書かれている2000年前の出来事は、今日を生きる私たちへの励ましでもあります。昨年年末最後の礼拝の笠井先生のメッセージの中にもありましたように、2019年を振り返って、一番嬉しくて感謝な出来事は、3名のバプテスマが起こされたことです。今年もぜひ、目標として信仰者のバプテスマが与えられるようにと、皆さんと一緒に祈っていきたいと思います。ただしその時に覚えておきたいのは、「信仰告白は、単に信仰者になる前に問われるものではない」ということです。既にキリストを信じ、キリストに従い、クリスチャンになった私たちもまた、キリストの弟子たちと同じように、「あなたは私を何者だと言うのか」というイエス様に問いに対して、積極的に自分で答えなければなりません。

 信仰者でない方でも、イエスの前で、安心して真理の答えを探し、物事の本質を求めることができるために、信仰者である私たちも恐れず、しっかりと自分の信仰理解、信仰告白をしていきたいと思います。私たちの告白を喜んで下さるイエスキリストがいて、そのキリストが、岩の上に教会を建て続けることを約束して下さることを信じます。時々、私たちの告白の言葉、その言葉に対する理解が足りなくても、また信仰に基づく生き方にはまだ不十分なところがあっても、今の時代、今の状況に如何に対応し、どんな生き方を求められ、どう道を選択すれば良いのかと分からなくても、私たちに足りないものを補ってくださる神、変わらない恵みを与え、絶えず教え、導いて下さるイエス様がいることを信じ、自分の十字架を背負いながら、イエス様と共に新年の歩みを始めていきたいと思います。(劉雯竹)