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2019.8.11 「平和を実現する人々は、幸いである」(全文) マタイによる福音書5:1-10

 今年は戦後74年目を迎えます。8月はどうしても「平和」の問題を考えることを避けることはできません。戦後74年ともなりますと広島、長崎の被爆者たちは今まではどうしても苦しくて、悲しくて語ることができない、言葉に出来ない苦しみを、被爆経験世代の高齢化の中で最後の機会として語るようになり、私たちは本当に切ない思いでこの数週間を過ごしています。二度と戦争をしない、「平和」の実現を願いながら、今朝は、マタイによる福音書5:9の「平和を実現する人々は、幸いである」という主イエスの言葉を味わってみたいと思います。マタイ福音書のこの部分は、「幸いなるかな」(マカリオイ)ではじまる7つ、あるいは、8つの祝福が語られています。前半の「心の貧しい人々」「悲しむ人々」「貧しく低くされた人々」(日本語では「柔和」と翻訳されていますが)、そして「義に飢え渇く人々」の幸いが語られています。何かを持っていない、否定的なことが語られ、持っていないがゆえに、空の手で、空の心で神の前に立つ人々の幸いです。神が豊かな恵みを分け与えようとしているとすれば、自分自身満ち足りて、神に頼ることをしない人々こそ災いではないでしょうか。これらの祝福は、単に人間の比較の問題ではなく、「私たちとイエス様との関係においてのみ存在している」祝福なのです。

 後半の「心の清い人々」、「平和を実現する人々」、「義のために迫害される人々」の幸いは、神との関係において、積極的に生きる人々の幸いを約束しています。これらもまた、イエス様との関係、関りの中でこそ成り立つ幸いです。

 その中の7番目「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(5:9)は非常に有名な言葉です。「平和」ということで、皆さんはどのようなことを思い浮かべるでしょうか。「戦争」あるいは「戦い」、「葛藤」がないことでしょうか?パウロはローマの信徒への手紙において、「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」(1218)と勧めています。私は性格上、あるいは私が理解している牧師の仕事上、現実に対してチャレンジ・挑戦することが多いので、きついことを言います。だからこそ、逆に、「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」というパウロの勧めの大切さがどこか心でチクリとしています。「平和」に当たるヘブライ語「シャローム」は単に戦争がないばかりか、神の正義と愛が満ち溢れた状態を意味しています。また、新約聖書はギリシヤ語で書かれていますが、「平和」と翻訳される言葉は、ギリシヤ語の「エイレネー」です。西南の神学校では、このギリシヤ語をすぐに覚えました。スイスの神学校の同級生にイタリヤ人のブラスコ・レミレッツとイレーネ・ラミレッツという若夫婦がいました。彼らは、卒業してイタリヤ北部、ミラノのバプテスト教会の牧師をしていました。「イレーネ」という名前は「平和」という意味です。「平和」は心の平安であれ、人間同士の関係であれ、国家間の関係であれ、なかなか難しい、そこで、「異例ね!」と覚えたので一生忘れないギリシヤ語となりました。

 確かに「平和」を実現することは困難で、「異例」なことかも知れませんが、いつも傷つくのは弱い立場の人たちであり、体と心の傷はなかなか癒されることはありません。そのような事実に向き合いながら「平和を実現する人々は、幸いである」という主イエスの言葉に耳を傾けましょう。

 

1.平和を「実現すること」

 私の読みなれた口語訳聖書では、「平和をつくり出す人たちは、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう」と翻訳されていました。このことについては、2013年8月11日に、エフェソ2:14以下から説教をした際に申し上げたことですが、平和を「つくり出す人たち」、は、英語の翻訳では、ほとんどが peace-makersです。しかし、アメリカは、平和をつくりだす、自由と民主主義のために、と言って建国以来ずっと戦争を続けてきた国であるわけです。この世界では、「平和をつくり出す」と称して、戦争が起こるのがほとんどなのです。それゆえ、ボンヘッファーは、「ピースメイカー」という翻訳は、「一面的であって、各様に誤解をこうむったキリスト教的行動主義を生み出すきっかけとなった」と批判しています。(『キリストに従う』森平太訳、108頁)。これに対して、ドイツの宗教改革者ルターは「Friedfertigen」と翻訳したのですが、これは「平和を好む」「平和のために準備している」という意味で、少し、ことなかれ主義に流れる危険があります。そこで、新共同訳聖書は、「平和を実現する人々」と翻訳しています。ギリシヤ語は「エイレノポイオイ」で、「平和」を行うこと、もう少し言えば、イエス・キリストにおいて、すでに到来している平和を実現すること(realization)を意味しています。ですから、ボンヘッファーは、「イエスこそ彼らの平和である。 平和を造り出す人は、その主と共に十字架を担うであろう、なぜなら、十字架において平和は造られたからである。」と言っています。イエス様と共に、十字架を背負って生きることこそキリストの平和を実現することです。このことを押さえておきましょう。

 

2.キリストは「わたしたちの平和」である

 それでは、イエス・キリストがすでにわたしたちの平和を造り出して下さったことに焦点を当ててみましょう。エフェソ2:13では、「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります」と言われています。「キリストはわたしたちの平和である!」と言います。もし私たちが、互いに、イエス・キリストと関わりのない者であれば、実に惨めな存在であるということです。イエス・キリスト、このお方がいなければ、そうなのです。イエス・キリストなしでは、人はそれぞれ分断された、孤立し、古い世界に生きる他はないのです。

 イエス様は、父なる神に従い、ご自身、身をもって十字架の死へと赴かれ、私たちを愛し通されたのです。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(エフェソ2:16)。イエス様は、神の律法を、「神を愛することと隣人を愛すること」に要約され、あるいは、「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもその通りにせよ」と言われ、こまごまとした決まりから私たちを解放して下さったのです。キリストは、この世界において敵対する二つのものをひとりの新しい人に、キリストにあって生きる「新人類」に、一つの「教会」に造りかえて、平和をきたらせ、十字架によって、ひとつの体として神と和解させ、神と人、人と人、人と自然の間の「敵対関係」を十字架にかけて滅ぼしてしまったのです。私たちはキリストを知らなかった、以前の人間の惨めさを記憶するだけではなく、キリストこそわたしたちの平和であることを喜ぶことへと、そして、この「キリストにある」ということ、「わたしたちの平和」であるイエス・キリストの生き方を実際生きること、行うことへと招かれているのです。

 

3.キリストの平和を「実現すること」

 すでに、キリストご自身が私たちの平和となって下さった。しかし、それで終わりではありません。その「平和」を証言して生きること、実現することが課題として私たちに与えられているのです。山上の祝福の後半はそれぞれ、積極的な生き方が求められていると言いました。「心の清い人々は幸いである」(8節)。私は、18歳の時に、東京三鷹市にある仙川キリスト教会でバプテスマ(洗礼)を受けました。数歳年上で、やはり数年先にバプテスマを受けていた女性がおりました。その方はカトリック系の大学に学んでいましたが、こんな証をしてくれました。彼女が道を求めるきっかけになったことばが、「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る」という言葉であったそうです。この言葉に直面して彼女は思ったそうです。「自分はいまだ神を見ていない。ということは、自分は心が清くないのだ」と!」彼女は私から見ればそれほど信仰熱心な人ではありませんでした。しかし、「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る」と書いてあるけれど、「自分は神を見ていない。ということは、自分は心が清くないのだ」と考える感受性というか、聖霊の導きは私の心に今でも響いています。同じように、私たちが、「平和をつくり出す人たちは、幸いである。彼らは神の子らと呼ばれるであろう」という主イエスの祝福を聴くときに、本当に私たちはこの世の人々から「神の子ら」と呼ばれるほど、イエス・キリストの十字架と復活の出来事、ここにすでに「平和」が到来している事実を実現する課題に生きているかどうか、心を抉られ、愕然としなければならないのではないかと思います。私たちは、キリストの平和を行う人々として生きているでしょうか?

 

4.暴力と抑圧の社会の中で

 私たちが生きている社会は、暴力と抑圧の支配する社会ではないでしょうか?政治家の数々の暴力的、差別的、抑圧的言動が目立っています。それらが一方では人の心を傷つけ、呆れさせ、しかし他方では、拍手喝采されており、社会の「分断」が加速しているようです。それほど、一人一人に余裕のない社会になっているのかも知れません。そして、どこか心に傷を受けた者が、更に弱い立場の人に暴力的に振る舞うとすれば本当に悲しいことではないでしょうか。相手に対して暴力的、差別的、抑圧的に振る舞った方が、「相手になめられずに、かえって効果がある」と拍手喝采する若者たちも増えているようです。「小さな現状維持」を求める悲鳴なのでしょうか?軍事力の均衡、抑止効果などと政治家たちが言います。軍事力はそのまま暴力ではないでしょう。しかし、武器は暴力的装置であり、金儲けに直結するものであることに変わりはありません。そのような世界的緊張関係の中で、日本社会は比較的安全で、経済も悪くはないのかも知れません。マーケットには「もの」が溢れています。それでも「世界はほしいモノにあふれている」というようなテレビ番組が人の欲望と金を使うことを煽っています。また、テレビなどを見ていますと、ニュース番組や天気予報までもがオチャラケの「バタイエテイ化」をしています。私は世界30か国以上に旅をしていますが、このようなことはさすがに、日本社会だけでしょう。本来「お笑い」というものは、政治権力はじめ私たちを縛り付ける力を、権力を笠に着る人たちを批判して笑うものではなかったでしょうか。「吉本興業」と闇社会に関係したそこに所属する芸人の事が話題になっていますが、そもそも、人を困らせたり、いじめたりして笑いを取る芸とも言えない程度のものがこの二三十年流行っているように思えてなりません。そして経済産業省が作った「クールジャパン機構」ですか、これは吉本興行が主に製作する教育番組を国内外に発信する事業だそうですが、何と100億円の税金がそこに流れていると報道されています。吉本興行関係者と闇社会だけではなく、政治家(安倍政権と日本維新の会)・官僚がこのように深く繋がっているわけです。また、理由の良く分からない放火で京都のアニメ制作会社の30名以上の若い人々が殺されてしまいました。うわべは豊かで、モノに溢れ、平穏に見える社会の底にはますます陰湿ないじめやハラスメントが、そして、やり場のない怒りや敵意が満ちているのではないかと思っています。

 このような暴力と差別、抑圧が支配する現実社会を考える時、十字架で殺され、私たちの希望と命と喜びの根拠として、死者の中からよみがえらされ、私たちの「平和」となられたイエス・キリストにこそ信従し、「平和を実現する人々」として生きる課題は大きいのではないでしょうか?!むろん、クリスチャンは、本当に少数者であり、社会的には無力でしょう。しかし、マタイ5:13では、「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。」と主イエスは言われます。塩は少しでも塩としての働きをするのだという約束、祝福の言葉です。「今だけ、自分だけ、お金だけ」の世の中において、私たちの身の回りからキリストの「平和」を実現すること、キリストが来られたことを宣べ伝える小さな証と行動をしていきたいと思います。イエス様が語る平和とは、「相争う当事者自身が、自らの権利を押し通すこと手放して、キリストにおいて実現した神の恵みに生きること」を意味しているのです。

 

5.「神の子ら」と呼ばれるであろう

 平和を実現する人々は、この世界で「神の子ら」と呼ばれるであろうと約束され、だからこそ幸いであると言われています。「神の子ら」とはどのようなことを意味しているのでしょうか?日本社会ではすぐ神がかり、強い人、賢い人が「神のようだ!」と言われ、野球選手や格闘技の選手も「神」と呼ばれます。

 では、イエス様が言われる「神の子ら」の反対言葉は何でしょう?「神の子ら」の反対は「野獣・獣の子ら」であると理解しても良いのではないでしょうか。旧約聖書のダニエル書には、イスラエルを暴力で支配する近隣諸国を「獣の国」と言い表しています。バビロニア帝国(現在のイラクあたり)は鷲の翼の生えたライオンで象徴され、その東隣りのペルシャ帝国(現在のイランあたり)は熊、アレクサンダー大王が率いるギリシヤは背中に鳥の翼が4つ生え、頭が4つある豹として、そして、第四の獣は「非常に強く、巨大な鉄の歯を持ち、食らい、かみ砕き、残りを足で踏みにじる」10本の角のある獣として登場します。そのような過酷な野獣の国の相次ぐ支配の後に、「人の子」のようなものが到来すると言われています。米国の黒人バプテスト教会牧師のマルティン・ルーサー・キングは最終的には暗殺されましたが、「非暴力」で、黒人に市民権を与える抵抗運動をしました。昨今ではそのような非暴力運動をせせら笑う野獣たちとも言える人たちが権力を握り、喝采される傾向にもありますが、地道に、イエス・キリストとの信頼関係に生き、イエス・キリストの平和を行う者の存在に目を向けることが必要です。「神の子らと呼ばれるであろう」と未来形で約束されています。50年先か、100年先か分かりませんが、必ずいつか彼ら彼女らは「神の子らだったね」と言われるような生き方をしたいものです。(松見俊)