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2019.7.28 「心にイエス・キリストを迎える」(全文) マタイによる福音書12:38-45

1: バプテスマ

 皆さん、おはようございます。今日は、わたしたちにとって、この教会にとって、とてもうれしい日です。先ほど3名の方々が信仰告白をしてくれました。信仰はあくまでも神様が選び出し、与えて下さったものです。3人は、神様によって「信じる者」とされたのです。このような心の変化、価値観の逆転を、わたしは神様の「奇跡」の御業だと思うのです。バプテスマは、人間がイエスを自らの主と告白する時です。そしてイエス・キリストによる十字架と復活を自分の救いとして信じる時です。今日、私たちは、この信仰告白による、バプテスマを自分のこととして喜びたいと思います。

 すでに、バプテスマを受けて教会員となっておられる方々にとっては、神様をもう一度新しく信じる、再出発の時となるように。また、まだイエスを主と告白されていない方々にとっては、信じるということの恵みを感じてくださればと思い、願っています。

 

2:  しるしを求める

 さて、今日はバプテスマの中心とも入れる出来事、心にイエス・キリストを迎えるということを、みていきたいと思います。 

 今日の箇所において、ファリサイ派の人々は、「しるしを見せてください」(38)と言いました。 このとき、ファリサイ派の人々の目の前には、何よりも大きなしるしである、神の子イエス・キリストがおられたのです。しかし、人々は、この神様の一番のしるしである、神の子イエス・キリストを信じることはできなかったのです。実際に目の前に、神の子イエス・キリストという「しるし」が現れているのに、人々は、そのイエス・キリストに向かって「しるしを」求めたのでした。

 

3:  心の中を整理整頓する

 イエス様は「しるし」を求めてきたファリサイ派の人々に向けて、43節からの話で、「心を整理整頓」することでは、救いを得ることはできないことを教えているのです。これはバプテスマを受けることと繋がることです。

 ファリサイ派の人々は、ユダヤ教として、神様の与えられた律法に忠実に従う人々でした。そのような意味で、決して、神様に従っていなかったわけではないのです。神様に従おうという姿勢でいえば、私たちはファリサイ派の人々から見倣うことは沢山あると思います。ただ、その中で、ファリサイ派の人々が間違えてしまったことは、自分たちが律法を守ることで、正しい者となれる、神様の前に救いを得た者になれると、考えてしまったということ、同時に、律法に従うことができない人を罪人として裁いていったということです。ファリサイ派の人々は、ユダヤの律法を守り、神様に忠実に従い、生きていたのでしょう。そのような意味で、心をきちんと掃除をして、整理整頓していたのです。

 ただ、その整理整頓をすることで満足してしまっていたのです。そこに救い主を迎え入れるということはしなかったのです。それは、まさにとってもきれいな空き家としてしまっていた状態でした。そしてそのような心の整った空き家に、悪霊が入ってきた。それは自分がしていることは間違っていないとしてしまうこと、自分で救いを得ることができると思ってしまうこと、そして人を裁いてしまったということです。イエス様は、このようなファリサイ派の人々に向けて、心を整えるだけではなく、心にイエス・キリスト、神様の福音の出来事、神様の愛を迎え入れなさいと教えているのです。

 

4: 悔い改め 

 イエス様は41節から「ニネベの人々」「南の国の女王」について教えます。ここにあるように、ニネベの人々はヨナの説教を聞いて、悔い改めたのでした。また南の国の女王、いわゆる「シェバの女王」ですが、この女王は、ソロモンの知恵をためしにやってきたのですが、ありとあらゆる難問に応えるソロモンを目の当たりにして、その知恵の背後にある神様の前に、悔い改めたのでした。ここでイエス様が教えられようとしていることは、「悔い改めなさい」ということです。

 「悔い改める」ことは、ただ自分で心をきれいに整理整頓することではないのです。むしろ、自分の心は、どこまできれいにしようとしても、最後まできれいにすることはできない。自分の心のけがれを認めていくことです。そして、どれほど汚れていたとしても、そこにイス・キリストが来てくださる。イエス・キリストがきれいにしてくださることを信じていくこと、それが「悔い改め」なのです。「悔い改める」ことによって、私たちは、心にイエス・キリストを迎え入れていくことができるのです。

 

5:   心にイエスを迎える

 イエス様は39節から、このように言われました。【12:39「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。12:40 つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」】

 イエス様は「人の子も三日三晩大地の中にいる」と言います。これはイエス・キリストの十字架の死を指し示した言葉です。イエス様が与えられた「しるし」、それは「十字架」という出来事でした。イエス・キリストは十字架という、「死」の出来事、みすぼらしく、罪人とされ、死んでいく姿に、救いを表されたのです。その姿は、私たち人間の考える「救い」とはかけ離れた姿でした。

 イエス・キリストの十字架を見た時に、人々はこのように言いました。【27:42 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。27:43 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」】(マタイ27:42-43)

 

 バプテスマを受けることは、この十字架に救いを見ることであり、十字架の主イエス・キリストを、自らの主として信じるということです。そして、それは、イエス・キリストの十字架によって示された、神様の愛の価値観に生きていくということ、「仕えられる者」となるのではなく「仕える者」となる道を選んでいくということです。

 今から、3名のバプテスマ式を執り行いますが、バプテスマは神様の選びによって与えられた奇跡です。「信じない者」が「信じる者」とされ、「仕えられる」のではなく「仕える者」となる出来事です。今日、このバプテスマの出来事を通して、私たちは、神様の選びによって与えられた愛を受けとり、互いに愛し合う者として歩んでいきましょう。(笠井元)